第8話 楽しいお喋り

 深夜、ふとフェルディナンドは目を覚ました。

 エリンキルとの話を終え、それなりに豪勢な食事を終えると(なお少女は一切料理を口にしていない)フェルディナンドは一人用のテントに案内された。内装は簡素なもの、と言うより薄い上掛け以外に何もなかった。最も便利屋として仕事をしている時から大国での仕事を行うまで彼の生活の殆どは野宿であった。当然ながらあまり荷物を持ちたがらない彼は寝具の類など到底持ち歩かず、固い地面の上で丸太に体を預けて寝ていた。

 慣れとは怖いものでこのような状態でもある程度の休息が出来るほど、フェルディナンドの肉体はそれに適応している。

 だからなのか、質素ではあるがこうした場所で寝ることが新鮮であるがためにフェルディナンドはこうして目を覚ましてしまった。

 少しの間、何をするわけでもなく――しかし瞼を閉じて寝ようとするわけでもなく――フェルディナンドはぼんやりと無地の布を見つめていた。やがてそれに飽きると、近くに置いた帽子と外套を着用しテントから出た。

 外の空気は少し肌寒く、暗黒の空には無数の星と月が眩く輝いている。眠気が消えた彼は暇をつぶそうと煙草を咥えて火を点けようとする。すると警備中の兵士から野営地の外で吸うように言われ、文句を言う訳でもなくフェルディナンドは煙草を咥えたまま野営地の外まで歩く。

 入口近くで焚火を囲む兵士たちを尻目に彼は勝手の良さそうな朽ちた丸太を見つけると、それに座りを煙草をふかし始める。紫煙を燻らし、束の間の余韻に浸るフェルディナンドはそこで夜空を見上げる少女を見つけた。彼女もこちらのことに気付いたのか、何故か愉快そうな口調と共にこちらへ振り返る。


「なんだ、寝れないのか」

「まあな」


 微笑みを浮かべる顔。月明かりに照らされた少女の姿は神秘的で妖艶的。

 何より、野営地では服を着ていた彼女は今や再びその均整の取れた裸体を夜の世界に晒している。

 本当に背筋が凍るほどに美しい姿だ。

 女性に対して美しいと思ったことがないフェルディナンドも、依然として彼女には宝石に並ぶ――或いは、認めたくないが宝石に勝る程の美しさを感じている。

 僅かに手が動いてしまう。

 忘却の海に沈んだかつての記憶。その中で朧気に覚えているのは、幼い頃自分は野山を駆けて美しい蝶を採取し標本にしていたこと。思えば、それが現在のフェルディナンドの宝石に対する蒐集癖の嚆矢だったのだろうか。

 今や蝶よりも美しい物を集める彼に、かつての記憶から蘇った衝動が脳を刺激する。


 


 濡れた烏の羽のように長い黒髪も、頬ずりをしたくなる石膏のように白い肌も、大きく雄大さを感じさせる黒い翅も――そして、如何なる宝石よりも煌めく青い瞳も。

 全て、余さず、彼女を保存したい。

 何が必要だろうか。何分、人の形を標本にするのは初めてだ。

 針はどうしようか、箱の大きさはどれぐらいか、腐敗を避けるためにはどのようなモノを用いるべきか――。

 と、そこまで妄想を巡らしたところでフェルディナンドは己に目覚めた欲望の萌芽を振り払う。

 彼女を永久保存の箱にしまう以上、彼女には死んでもらわなければならない。ただ、フェルディナンドは明確に彼女と戦ったところで勝てる自信がない。様々な手段を用いれば可能性はあるかもしれないが、如何せん汚い手段でこれまで勝利をもぎ取ってきた人生。一撃で仕留めきれないようでは、あの自然美と人工美を凌駕する姿に傷をつけてしまう。最も彼女に対して底知れぬ恐怖を感じている状態では、自分を臆病と自覚しているフェルディナンドは武器を向ける機会はない。


「どうした人間。私に何かを感じているのか」


 こくりと小首を傾げながら、年相応の微笑みでありながら年不相応の妖艶さを醸し出す少女。こちらを見つめる吸い込まれそうな青い瞳は、確実に自分の腹で煮えたぎる欲望を見抜いているように思える。

 なんでもない、と少し焦り気味に言うとフェルディナンドは帽子を深く被る。これ以上、あの瞳に見つめられるのは危険だと研ぎ澄まされた自分の本能が告げている。現状少女はこちらの味方の立場を取っているが、あれが己のことを上位者として定義する以上――彼女が心変わりすることは念頭に置いておかねばならない。神の存在は信じていないが、過去多くの神話や英雄譚を見るに人知を超えた存在と言うのは非常に度し難い。

 彼女からの視線に耐え切れず煙草を燻らすフェルディナンド。そんな彼に少女は、必死に誤魔化そうとする子供の失敗を容易く見抜く親もかくやの瞳でこちらを見ているが、やがて何か察したように再び視線の先を夜空へと向けた。

 僅かに沈黙が訪れる。

 ちらりと帽子の下からフェルディナンドは少女の背中を見る。

 何か耽っているような、そんな雰囲気が感じられる形の良い背中。

 それでいて背中からでも、彼女からただならぬ威圧感が肌にひりひりと刺す。神童と呼ばれた若い騎士を殺そうと、その背中に忍び寄った時以上に強い。


「郷愁にでもふけっているのか」


 フェルディナンドは軽口をたたく。

 あまりにも静かな場に耐え切れなくなっていた。


「生憎、私には人間の様に故郷を想う感情などない」少女の声に強がる様子はない。

「そりゃあ……そうか。だがよ、お前は魔術師によって半ば強制的に連れていかれたんだろ。その辺、つまりは魔術師や人間のことを恨んではないのか」

 

 おっかなびっくりと訊ねる。

 瞬時にフェルディナンドは自分の発言が失言だと察する。彼女がそのことを思い出し、仮にでも人間に対して敵意を持ち出されれば太刀打ちなどできない。


「恨む、だと。貴様は面白いことを聞くなぁ」


 少女は再びフェルディナンドに振り返る。

 月明かりに照らされた顔に肉食動物のような――捕食者にして超越者たる嗜虐性が刻まれている。


「恨んでいる訳がなかろう。私は人間のように感情に左右される存在……いや、少なくともに恨みなどはないさ。むしろ感謝をしているぐらいだ、常世の世界では生きている人間など見れないのだからな」


 少女はフェルディナンドの方に数歩近づく。

 こちらを見下ろす青い瞳がガラスのようにフェルディナンドの姿を映り込ませている。


「生きている人間はいねぇだろうが、常世には死んだ人間ってのはたくさんいるだろ」

「ああ、そうだな。だが面白いのは現世の人間だ、今を生きている人間より面白いものはいない。私は現世に連れてこられて、それを思い知らされた」

 少女が笑みを浮かべ言葉を続ける。

「あの魔術師共の姿はお笑い種であったぞ、人の身に耐え切れぬ神秘を求めそれを取り込むなど――欲望とは全く面倒なモノよなぁ。これだけ面白いのなら、遥か未来でも貴様らにはそのままでいて欲しいものだなぁ」


 腹を抱えながら笑う少女。下品な仕草だが、不思議と彼女が行うとそれすらも美しく見えてしまうから困る。

 ただ現状彼女は、人間に対して敵意もなければ危害を加えることもなさそうだ。最も彼女のようなある種神にも似た存在の考えなど――秋の空ほど信用できないが、少なくとも今は彼女が自分たちの味方であることは確かなのだろう。

 

「随分と悪趣味だな」

「貴様とて、悪趣味の一つや二つ持っているのだろう?」


 ぶすり、と腹の内に秘めた欲望を貫く一言。

 ばつの悪い思いを払おうと、フェルディナンドは新しい煙草に火を点ける。


「……まあ、一つぐらいはあるかもな」

「小児性愛か?」

「そんなもんを趣味にはしたくないっての。第一に人殺しの小児性愛者とか、俺の姿に似合わねぇだろ」

「青髭でも生やしてみるか? 少しはサマになるかもな」

「なんだそりゃ」


 束の間の中身のない会話。だが彼女がこのような会話をするとは驚きだった。フェルディナンドの知る限り、上位的な存在は基本的に人とは相容れないのだ。増してやただの人間が不敬にも軽口を交えることに、怒ることなくむしろあちらも冗談や煽りを混ぜて返すなど、聞いたことがない。最も上位者故に矮小な人間に付き合っているのかもしれないが……。

 自分の軽口に対して寛容に対応してくれるなら、今後も彼女とは仲良くやれそうだ。

 息を深く吸い、紫煙を夜空に向けて吐き出す。

 ふと、後ろで誰かが近づいてくる足音がしたことに気付く。

 

「なんだ、二人して密会でもしていたのか」


 あからさまに裸の少女に対して視線を向けているエリンキルがそこに立っていた。

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