第3話 運命的な出会い

 不気味で巨大な蛹の背面が割れる。

 味気ない乾燥音と共に蛹から何かが出てくる。

 最初に見えたのはくしゃくしゃに丸めた黒い紙のような物体。それが蝶や蛾のような翅であるとフェルディナンドが察した時だ、次いで見えてきた翅と同じ色をした長い髪、そして翅や髪の毛とは対照的な程に真っ白な肌――部分としては背中だろうか――が暗い室内に妖艶さをもって浮かび上がる。


 人だ。

 あの中にいたのは虫ではない人型の何かだ。


 普段なら蝶の羽化などに一切興味を示さないフェルディナンドでも、眼前で起こる人間の理解を遥かに超えた現象を前に――圧巻されるしかない。

 のけぞった姿勢でそれの全容がゆっくりと蛹から出てくる。まだ瞳は瞑られたままであるがその幼さを残した顔は非常に端正に整っており、次いで見える控えめながらもしっかりと分かる胸の膨らみ。

 服を一切纏っていない少女は己の均整の取れた彫刻もかくやの裸体を惜しげもなく(最も彼女はこちらに見られていることなど知らないのだろう)見せると――床へ勢いよく頭から落ちた。

 ごつんと大層痛そうな音が部屋に響く。

 だが少女は痛そうな素振りもせずむくりと上体を起こす。時間にして約一分どうやら彼女は翅を乾かしているようで、徐々にくしゃくしゃになっていた翅がゆっくりと伸びてゆき、やがて彼女の体躯より一回り大きい黒く美しい蝶の翅が開かれる。羽化についてフェルディナンドは詳しくは知らないが、それでもたった一分程であの大きさの翅が乾くとは到底思えない。

 神秘的で美しい場面に遭遇しながらも、フェルディナンドの手は刺剣をいつでも抜ける態勢を崩していない。眼前の少女が何であれ、ここが呪い花を持ち帰った魔術師たちが居たことを考えると彼女は間違いなくそれに関連する存在。何より呪い花に蝶のような少女、現実世界の蝶と花の関係と同じように両者にも関連性があることは容易に推測ができる。

 これまでに経験のない相手を前に緊張から普段の軽薄な態度を消したフェルディナンド。そんな彼に対して翅を伸ばし終えた少女はゆっくりとこちらを振り返る。


 宝石のような、否宝石よりも美しい青い双眸。


 菫青石アイオライト藍銅鉱アズライト水宝玉アクアマリン瑠璃ラピスラズリ、そして蒼玉サファイア。宝石を好むフェルディナンドは当然青い宝石を飽きるほど目にし、手にしている。我ながら、こと宝石に対する審美眼は非常に肥えていると自覚していたが――あの少女の瞳はそんなフェルディナンドの目を一瞬で奪い、ひと時の間虜にした。

 こちらの視線に少女はさしたる反応を見せない。

 彼女は周囲を一通り見まわし(机の方を見た時その瞳を僅かに鋭くさせた)再びフェルディナンドへ視線を合わせるとゆっくりと立ち上がった。

 美しく余分のない華奢さでありながら、同時に確かな女性の妖艶さを併せ持つ少女の――年は十代ほどの――肉体。暗い部屋の中で一糸纏わぬ女の体と言うのは何とも蠱惑的で、それでいて幼い女という背徳感をすべての男は抱えるかもしれない。

 最もフェルディナンドにとって女性など宝石の添え物程度の認識でしかなく、当然ながら小児性愛者でもない。それだからこそ、彼が彼女に覚えた感情はあの美しい姿をそのまま手に入れたいという欲望、幼少の頃に昆虫標本に精を出した時の記憶がフェルディナンドの脳内で蘇る。

 覚束ない足取りで少女が近づくが、反応したフェルディナンドがあからさまな戦闘態勢(刺剣を抜く寸前)をとったことに気付くと足を止めた。

 こちらを思料するように見つめた後、突然少女は訊ねた。外見に相応しい綺麗で純粋な、それでいて自身を上位者として認識した風格のある不思議な声。


「貴様それなりの手慣れだな。丁度良い、頼みがある」初対面にも関わらず少女は矢継ぎ早に言葉を発する。

「待て待て、そもそもお前は一体何なんだ」こちらを無視して強引に話を進めようとした少女を手で制す。

「それを聞いて何の意味がある」

「お前が何だかわからないのに頼みを聞けるわけがないだろ」

「面倒だな。まあ人間だから仕方がないか……私は、ふむ」そこで少女は僅かに考え込む。「貴様、常世は知っているな」


 少女の言葉にフェルディナンドは頷く。年齢に見合わない傲慢な物言いは少し気になるが、彼自身少なくとも彼女がこちらと会話を行えることに安堵していた。相手が自分と同じ言語を使うことは、大抵の人間にとって安心できる材料になる。


「私は常世にいる存在だ。何だったか、あの女は何か現世の生命体の名を言っていたが……ああ、そうだ確か虫と言っていたか」


 やはりそうか。

 常世にいる存在、つまりは件の呪い花とは確実に関係があるに違いない。突拍子な発言ではあるが、先の彼女が蛹から出たことや背中に生えた黒い翅を見るに信じざるを得ない。


「虫? 確かにその翅は虫みたいだが、お前の姿はどう見ても人間だろ」

「今はそうだがな。常世にいた時は虫の形であったのだよ」少女はそう言う。「これでよいか、本題に入るぞ」


 少女は心底面倒な様子だ。

 フェルディナンドとしては聞きたいことはまだあるのだが、これ以上彼女の機嫌を損なうのは危険だと判断する。眼前に居るのは華奢な体躯をした少女、見かけだけなら赤子の手をひねるよりも楽にねじ伏せることは出来る。

 ただ彼女が発するあからさまな人ならざる雰囲気が、フェルディナンドの動きを封じている。

 脳が発する危険信号。それは先ほど出会った植物のような女以上に危険だと、脳が伝達した警鐘が手足に余計な動作をさせないよう鳴り続けている。

 フェルディナンドが少女に話を促そうとした時だ、扉の外から床を叩きつける激しい音が響く。次いで何かが長く太いもの――あの蛇のような蔓――が壁や扉を這いずり回る嫌な音。

 今この部屋で襲われるのは不味い。フェルディナンドは素早く刺剣を抜きつつも、部屋の周囲を改めて確認する。唯一ある窓には鉄格子が嵌められており、錆びてはいるもののフェルディナンドの所有する武装であれを壊すことは不可能だ。

 そしてこの場には常世に居る虫と言った少女がいる。ちらりと少女の方に視線を向けると、彼女は外からした音にこそ気付いている様子だが全く気にしていないようだ。

 無知と言う訳ではないだろうが、フェルディナンドが不安を覚える程に彼女は落ち着いている。

 やがて扉の隙間から蔓が飛び出すと、扉を一瞬で覆ったかと思えばそのまま強引に引きずり込むようにして破壊される。耳を塞ぎたくなるような木材が砕ける豪快な音と共に、扉があった先に立つ植物の外見をした女が妖しい笑みを浮かべながら立っている。


「ほう、あれを体に宿したか――雑草如きに人間の鉢など不相応だろうに」

 

 あからさまな侮蔑と嘲笑の言葉。先ほどまで無表情であった少女の顔が僅かに苛立ちに歪む。


「人間、私の頼みとは魔術師が持ち出した花を全て駆除することだ」


 花、それは呪い花のことか。

 不敵に笑う植物女を前に臨戦態勢をとりつつフェルディナンドが尋ねる。


「ほう、あの花そんな名を付けられたのか」少女は嘲るように笑いながら言う。「あの人間の胸にあるのがその花だ」

「もしかして花の魔女ってのが、こいつなのか」フェルディナンドは文書の内容を思い出す。

「花の魔女か大層な名前だな。当然ながらあれも駆除せねばならない、あれは花に仇為す者を排除する存在だ」

「仇為すって……まだ何もしてないだろうが」

「この場所を守るように命令されているのかもしれないな」


 少女が言い終えた時、植物女の足元で不気味に蠢いていた蔓の一つが蛇のように鎌首をもたげたと思えばフェルディナンドの顔を狙い飛び掛かる。

 その速度たるや熟練の騎士でも反応できないほどだが、フェルディナンドは違う。

 無駄のない動きでかわすと、勢いつけ刺剣で蔓を切断する。製造時に魔術を籠める方法で鍛えることで頑丈性と切断能力に長けた刺剣で容易に切れる辺り蔓の強度は低いようで、その感覚は肉を斬った時のようだ。

 だが女の方に特別影響はないようだ。それどころか切断された蔓は数秒で再生すると、再びフェルディナンドへ襲い掛かる。それを軽くかわすとフェルディナンドは飛び退き、女との距離をあける。


「ほう、やるな人間」

「そりゃどうも。お前も見ていないで少しは手伝え」


 二人の会話を遮る様に蔓が襲い掛かる。

 同じように刺剣を振るうフェルディナンドだが、今度は違う。

 切断されても再生するなら無駄だ。

 フェルディナンドはまるで鞭のような蔓の連撃に対して、精確に刺剣の剣背部分で激しく叩きつけ全ての攻撃を完全に弾き返す。華奢な見た目でありながら、高い強度を併せて持てるのが魔術武器の利点だ。

 流石の女も全て弾かれるとは思わなかったのか、僅かな隙を見せたところを見逃すことはなくフェルディナンドは素早く技巧銃を取り出すと迷うことなく女の顔面に向けて撃ち放った。

 雷のような発砲音と共に放たれた弾丸、それは女に当たる前に無数の蔓で防がれる。


「おいおい、これを倒せってか? 無理だろこれ」

「あれはただの武器では倒せんよ」

「それじゃあ、どうしろって――」


 手詰まりな状況に苛立ちフェルディナンドが荒げた声を出した時だ、少女は刺剣の刃に片手を当てるとそのまま滑らした。軽い力ながらも容易く皮膚を裂く刃は少女の掌に一筋の傷をつけ、そこから鮮やかな血液が流れ出る。

 あろうことか少女は血濡れた手で刺剣を強く握る。

 当然ながら白銀に輝く剣身に生々しい血液がべったりと付着したかと思えば、血液はまるで地面に水が浸透するように――刺剣にしみ込むようにしてゆっくりとその鮮やかな赤色が消える。


「お、おい一体何をした――」

「私は常世の存在、そして常世にてあの花を食らう虫。故に私の血にはあの花に対してある程度の効果を齎す」少女はそう言うといつの間に抜き取ったのか、血濡れた弾丸を差し出す。「後で全ての弾を私に寄越せ、纏めて力を付与してやる」


 少女から受け取った弾丸を素早く装弾しつつ、フェルディナンドは血濡れた刺剣に目をやる。見た目は全く変わっていないが、本当にこれがあの植物女に効くのだろうか。

 半信半疑なフェルディナンドだが、すぐにそれは確証に変わる。

 素早く地面を滑り襲い掛かる蔓を切断した時だ、それまで妖しく笑っていた女の顔が一瞬で苦悶に染まると同時に紙を激しく裂いたような悲鳴があがる。

 先程とは打って変わった様子に手応えを感じたフェルディナンドは、すぐさま少女の血が付着した銃弾を発射する。

 技巧銃の一撃は同じように蔓で防がれたが、その威力たるや無数に重ねられ防御壁のようになった蔓をいとも簡単に貫通し、そのまま女の横顔を僅かに掠める。

 研究所全体を揺らすかのような人とも獣とも似つかない悲鳴。よく見てみると、少女の力を付与された攻撃を受けた蔓は一向に再生の兆しを見せない。どうやら再生阻害の効果もあるようだ。

 激しい痛みに喘ぐ女はその顔を強烈に歪めながら、悍ましい程の殺意を込めた視線をこちらに向ける。だが次にとった行動は海中を泳ぐ蛸や烏賊のように蔓を動かすと、素早くフェルディナンドの前から姿を消した。


「逃げたか、追うぞ人間」


 廊下と壁に当たる蔓の音、そして少し遠くで強引に扉を開ける音がする。フェルディナンドは素早く飛び出したが、既に女の姿はなく――しかし、廊下にはこちらの攻撃で流れた妙に発光している血液が点々と続いている。


「逃げ足の速い奴だ」

「当たり前だ、あの花を宿してから久しく覚えた死の恐怖だからな」


 フェルディナンドに近づいた少女は廊下に零れた女の血液を指で掬うと、躊躇なく口に含む。指に舌と唾液を絡ませて、たっぷりと血の味を味わう少女の顔は少しばかり恍惚さに火照っている。

 淫靡と凄惨さを合わせた異様な光景。その少女の姿にフェルディナンドは氷が背中を触れたかのように体全体を身震いさせる。便利屋時代に幼い魔術師が読んでいた吸血鬼なる血を吸う異形な怪物のことが頭をよぎる。

 

「おい、この弾丸に血をつけてくれ。次で確実に仕留める」四発の弾丸を渡すフェルディナンドの顔に浮かぶのは獲物を追い詰める狼のような凶相。

「全く急かすな、私はこれでも人間より上位の存在だぞ」


 そう言いつつも弾丸を受け取る少女。すると彼女は自分の脚を見ながら何か考えこむと、やがて背中から生えていた四枚の翅をまるでマントのようにして折りたたむと共にフェルディナンドに向けて両手を広げた。

 何をしたいのか分からず困惑するフェルディナンドに、彼女は再び傲慢な物言いで命令する。


「私を抱えろ。走るのは億劫だ」

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