僕の許容範囲
淳平
@
人の許容範囲は人それぞれだ。
例えば集合時刻の問題。僕はいつも5分前には集合場所に行くことにしている。理由は特にはない。5分間待つという行為が少し好きなのかもしれないし、単純に待ち合わせ相手よりも優位に立ちたいのかもしれない。
ただ、集合時刻を過ぎて友達が来たからといって腹を立てたり非難するような真似はしない。人それぞれ価値観は違うだろうし、友達という仲だからということもある。それになによりも、僕が他人の行動を大して気にかけていないということが原因だろう。
一方で、集合時刻を1分でも過ぎれば激怒する人もいるだろう。自分のルールを押し付けたいワガママか、はたまた本当にその人を想って行う叱責か。僕にはその気持ちが分からなくもないが、そこまで憤慨することかと聞かれれば首をかしげる。
こんな話を誰かにすると、君は許容範囲が広い人間だなんて言われる。確かにそうかもしれないが、僕にだって許容範囲の限度はある。顔をいきなり殴られれば憤慨するし、赤の他人に罵られれば気分を害する。僕の許容範囲だって、宇宙のように無限に広がるものではないのだ。
それを証明するかのように、この度、僕の許容範囲は限界を超えた。
僕が誰に何をされたか、それはとてもありきたりなものだった。つまり何が言いたいかというと、僕の許容範囲は結局人並みだったという事だ。
僕の妻が浮気をしていた事実を知った。
そんな事が僕の許容範囲を簡単に超えてしまったのだ。長らく誰も超える事のなかった前人未踏ともいえる地に、その彼女の言動は簡単に足を踏み入れた。僕がそこに踏み入れた人間に何をするのかも忘れてしまっていたほど、埃を被り息を潜めていた地に。
しかし、彼女は今僕の前に笑顔で座っている。あの美しい笑顔で。
彼女が笑顔でいるということは、僕が彼女を問い詰めていないのか。それは違う。僕は彼女を飽きる程問い詰めた。そして、今僕は許しているのだ。
さて、なぜ僕が彼女の浮気に気づいたかというと、決定的な瞬間を僕が目撃したからだ。彼女がオトコと腕を組み、ラブホテルに入っていくところを。
彼女が髪型を変えても気づかない鈍感な僕だって、そんな場面に遭遇すれば察しはついた。つきたくもない察しだった。
その時彼女は笑顔だった。これからする娯楽を考えて心が浮かれていたのか、それはわからない。しかし、その顔から察するに、彼女は無理矢理連れてこられたのではないということは確かだった。
その時僕は仕事帰りだった。何か特別苛立つようなことがあった日ではなかったが、その光景によって、僕の目の前は真っ暗になった。僕の身体からは自然と力が抜けていき、手に持っていた手提げを落としてしまった。
きっと中のケーキはぐちゃぐちゃになってしまっただろう。そんなことは家に帰った後に考えた。
彼女は僕に気づいた。すると同時に、とっさに組んでいたオトコの手を振りほどいた。それが一体何になるというのかは僕にはわからない。もう全て見てしまっている僕には、その姿に対して滑稽という言葉しか浮かばなかった。
知らない内に僕の目からは涙が溢れていた。結婚生活に不満があるなら言ってくれれば良かったのに。そんな類の言葉が浮かんでは消えた。彼女にとってこの日は、この4回目の結婚記念日は、無意味なものだったのだ。そんなことに気づいた時、僕は床に落ちた手提げを踏みつけ、そして激怒した。
それからの記憶は途切れ途切れだ。彼女が泣いて謝っていた。オトコが土下座していた。いつの間にか自宅に帰り、僕は無気力に椅子に座っていた。オトコに詰め寄った。彼女がそれを止めた・・・。
そして今はというと、僕と彼女が向かいあって自宅のテーブルについている。どうしてこうなったのか。それの記憶はある。それは、まだ1時間とも経たない新鮮なものだ。
僕はそれまで特に他の女性に目移りした事のない純粋な人間だった。僕の愛は全て彼女に向いていた。大学生の時に付き合い始めてから今までずっと。
向いていた、ということはもう彼女を愛していないのか。それも違う。僕は彼女を愛している。今、僕が許している彼女を愛している。以前と変わらず純粋な心で。
僕は穏やかな口調で彼女にいう。
「愛しているよ」
「・・・私もよ」
彼女は笑顔のまま、声を震わせてそういった。なぜ笑顔なのか。それは僕が許しているからだ。なぜ声を震わせているのか。それは僕が禁じているからだ。
僕は彼女に許している。彼女が笑顔でいることを。許しているのだ。たったそれだけのことを。
オトコの血をたっぷりと吸ったナイフを手にしながら、僕は彼女に笑顔でいる事だけを許している。彼女の口角が、感情が、心が限界を迎えるまで。血に染まり床に倒れるオトコのように、僕の許容範囲を超えるまで。
僕の許容範囲 淳平 @LPSJ1230
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