第29話 残月の遊宴 岩屋の三人
月見の宴の初日、樂が五宮神社を訪れているころ、卯月はひとり、荒神山の帰らずの岩屋を訪れていた。
手に持つ、卯月神社の紋が入った提灯が、薄ぼんやりとあたりを照らしている。
岩壁に映る卯月の影は、やけにゆらゆらとして形が定まらないように見える。
物陰からちらちらと、妖怪がうかがっているのには気付かないふりをしつつ、卯月は先へ進んでいく。
その足取りは、軽快とは言いづらいもので、どことなく、先へ進むことをためらっているようにも見える。それでも黙って歩みを進め、開けた場所まで来て、卯月は足を止めた。
辰巳と波津がそこにいた。
「夏以来ですね。息災でしたか?」
「どうにか。そちらは……そうでもなさそうだが」
青白い顔に微笑をのぼらせた卯月に、辰巳も表情を緩め、すぐに眉をひそめる。辰巳の顔を見て、卯月は小さく肩をすくめた。
「これでも無事ですよ」
「今のところは、ではなくて、ですか?」
口を挟んだ波津を、辰巳がたしなめる。
卯月は答えなかったが、浮かべた微苦笑が何よりも雄弁にその答えを物語っていた。
「できれば、こんな話をしたくはなかったのですけれどね」
卯月の様子に、波津がさっと顔色を変え、眉を吊り上げる。
「樂が何か……?」
「いえ、彼に変わりはありません。ありませんが……彼には、全てを引き継いでもらうことになります」
「あの子に、全てを背負わせるおつもりなのですか」
震えを帯びた声で、そう問うた波津に、卯月は無表情でうなずいて見せた。
「……卯月はそういう神です。知っているでしょう」
「しかし――」
「波津」
食い下がる波津を、辰巳が制する。
「我々は全て知ったうえで、樂を託したんじゃないか」
「未練があるのなら、今年のうちに会っておきなさい。前にも言いましたが、会うことは咎めません。それに引き継いでもらうのは、来年の話ですから……樂に会うのなら、今年のうちに」
「もう少し、延ばすことはできませんか」
思わず、といった様子でこぼし、口を押さえた辰巳に、卯月は再び渋い苦笑を口元に浮かべた。
「そうしたいのは山々なのですけれど、それで先々代の二の舞になるわけにはいきません。余裕があるうちに、譲らなくては」
「でも……三百年もあったじゃないですか! その間に何もしなかったのですか! いくらそういう神だと言ったって――」
「私が何もしなかったと言いますか!」
岩壁に、卯月の声が反響する。
髪紐が千切れ、同時に卯月の髪が足元まで伸びる。
「私が、卯月が、神殺しの神の汚名を、好きこのんで着続けてきたと言うか! この先も着続けることを望んでいると、そう言うか!」
卯月の声は卯月ひとりのものではなく、大勢の声が重なっているように思われた。
とっさに辰巳が波津を背に庇い、卯月と対峙する。妖としては相当の力がある辰巳すら、その額に冷汗を滲ませていた。
ぎらりと光る金の瞳が、はっきりと怒りを宿して二人を威圧する。
岩屋の中、風が吹くはずのない場所に、ごう、と音を立てて風が吹く。異様な音とともに、岩壁に大きくひびが入った。
その音に混じって、卯月の声がこだまする。
「好んでそれを為したことなど一度もない。ただ記憶を保つためだけに、なぜ手を汚し続けなければならぬのか」
「卯月、様」
やっとのことで、辰巳が掠れた声で言葉を発する。彼はほとんど立っているのがやっとらしく、その顔からは血の気が引いている。
卯月はしばらく何も言わなかった。ごうごうと鳴る風の音だけが響いている。
吹き荒ぶ風が、ひときわ凄まじく吠え猛る。波津が小さく悲鳴を上げて辰巳にすがり、辰巳も思わず目を閉じた。
唐突に、風の音が止む。
辰巳が目を開けたとき、そこには誰もいなかった。
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