残月の遊宴
第27話 残月の遊宴 遊宴の支度
細く弧を描いた白い月が、弱い光を地に投げかけている。
このごろでは夜になると、昼間の蒸し暑さはいくぶんやわらぐようになってきている。どこからともなく虫の声が聞こえるようにもなり、密やかに、しかし確かに秋の訪れを感じさせる。
人間たちに混じって、卯月神社の祭神・卯月も夜道を歩いている。
巫女装束に似た和装、手には薙刀。人に見られれば騒ぎになりそうな姿だが、今の卯月は人の目には見えない。ゆえに何事もなく、卯月は町を見回っていた。
緑の黒髪に縁取られた卯月の白い
吹いてきたぬるい風が頬に優しく触れる。頬がひやりと冷たいせいか、そんな風でも心地よい。
これから朝夕涼しくなり、秋が深まってくる。
何事もなければ、今年の紅葉は見られるだろう。だが来年の紅葉は、おそらく自分は見られまい。
自分が『卯月』である以上、これは嫌でも避けられないことだ。幾度も繰り返してきたことだ。
きちんと理解しているはずだった。それでも、胸に走る痛みを密かに耐え続けるのは、生易しいことではない。
特に自分は、多くの繋がりを作ってきた。それが己を繋ぎ止める術だと考えて。
そして今、
冷えた頬を、熱いものが滑っていく。
(ああ、いけませんね。祭神ともあろう者がこんなことでは)
軽く頭をふり、指で目元を拭う。
そのときだった。
(あら……?)
光の届かない物陰で、何かが揺らいだように見えた。
足を止め、そちらに顔を向ける。
目をこらしても、そこには闇しか見えない。
(……見間違い、でしょうか)
視線を外し、歩き去ろうとしたそのとき。
闇に紛れていた影のごとき妖怪が、伸び上がるように現れたかと思うと、音もなく卯月に飛びかかった。
はっと向き直った卯月の頬が浅く裂ける。
ぱちん。
朱い髪紐が音を立てて千切れ、ぞろりと伸びた黒髪が背に広がった。
「去りや」
白刃がひらめき、妖怪を両断する。
断末魔を上げて崩れ消える妖怪を、卯月はしばらく冷ややかな眼で見つめていた。
「卯月?」
背後から、声が聞こえる。
「……ああ、貴方でしたか、月葉様」
その声にも、ふりかえった顔にも感情はうかがえない。
卯月、と、月葉がもう一度呼びかけると、彼女はようやく我にかえった様子で金の目をしばたたいた。
「月葉様、どうなさいました?」
小首をかしげた拍子に、解けた黒髪がさらりと白い顔を隠す。
「いや……君を外で見かけるのは久しぶりなような気がしてね」
「確かに、あまり外に出ていませんでしたからね。でも最近は調子もいいですし、それに神使は皆、月見の宴の準備で忙しいですから、私も見回りくらいはしませんと。特にこのごろは、妖怪も増えているようですし」
「ああ、宴の時期は妖怪が増えるものね」
ええ、とうなずき、髪を結い直している卯月の手は小さく震えていた。
それを見咎めたものの、月葉はそのことを指摘しなかった。
代わりに。
「どうかな、ちょっとうちで休んでいかないかい?」
「……そうですね。お言葉に甘えさせていただきましょうか」
軽く頬を撫でて傷を治し、卯月は少し考えてそう答えた。
月葉神社でも、月見の宴の準備は進んでいた。
帰ってきた月葉を見た葛が、何か言いたげな顔をしたものの、卯月に気付いて言葉を飲みこむ。
「お茶をお持ちしましょうか」
「うん、お願い」
やがて、冷たい茶を運んできた葛は、縁に座る卯月の姿を見て、ふと足を止めた。
卯月はわずかに顔を仰向け、月を眺めているようだった。その金の瞳には、深い悲哀の色が浮いていた。涙はなくとも、泣いているようにさえ思われた。
「ああ、ありがとうございます」
葛に気付いてこちらを向いたときにはもう、卯月の目からその色は消えていた。見間違いだったのかと思われるほど、跡形もなく。
月葉神社で休んだ帰り道。
(いよいよ、時間がありませんか)
そんな思いがよぎり、卯月は重い溜め息をついた。
初夏の厄除大祭のおかげで、いくぶんか余裕はできている。とはいえ、あの程度で本性が出かかるようでは楽観視していられない。
(来年……松が取れるころには、また襲わなければなりませんか。樂には、辛いことをさせることになりますが)
せめて月葉や五宮のように穏やかに代を替えられるのなら、もう少し気は楽なのだが、『卯月』という神には、それはできないことであった。
ゆっくりとした足取りで、卯月神社に戻る。
神社では神使たちが忙しく動き回っている。月見の宴の準備である。
「樂、少しいいですか」
ちょうど通りがかった樂を呼び止める。
「はい」
「今年の月見の宴なのですけれど、初日だけ五宮に行ってくれませんか? 本来は私がいくべきなのですが、少し用がありますので」
「自分が、五宮に、ですか?」
樂が怪訝な顔になる。無理もない。五宮神社は妖を疎む。それは卯月の神使である樂が相手でも例外ではない。
そもそも、彼の記憶にあるかぎり、卯月がこんな頼みごとをしたのははじめてだった。
「本来なら、五宮神社へは毎年挨拶に行くべきなのですよ。ついつい無沙汰をしてしまっていますけれど。特に今年は、あちらの協力で厄除大祭も行いましたから……やはりきちんと挨拶には行きませんとね」
「わかりました」
まだどこか訝しげにしつつも、樂は素直にうなずいた。
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