第26話 厄除大祭 嘆く女(後)

 山の見回りから戻った後、樂は早速磯崎から聞いた女の話を卯月に報告した。

「泣く女の幽霊、ですか」

 話を聞き、卯月は少しの間、何やら考えこんでいた。

「一応その池のあたりは見回っておいてほしいですが、話を聞くと害はないようですし、当分は様子見でいいでしょう。もちろん、何かあれば対応はすることになりますが」

 卯月の答えは、樂の予想から大きく外れるものではなかった。

「そういえば、厄除大祭のほうはどうなっています?」

「はい、特に問題が起きているとは聞いていません。準備は順調に進んでいます」

「それは良かったです。お疲れ様です、今日はもう休んでいいですよ」

「はい、失礼します」

 一礼し、樂は卯月の前を下がった。


「……あれまで出るようになりましたか」

 樂が去ったあと、卯月は小さく呟いた。

「あなたの記憶は私が持っているでしょう? まだ思いを残しているのですか、真朱まそお



「ただいま戻りました」

 数日後の昼前、町の見回りを終え、戻ってきた樂は普段どおり、まっすぐに卯月のもとへ報告に赴いた。

「お帰りなさい。町の様子はどうでした?」

「特に変わりはありませんでした。ただ……」

「ただ?」

「はい、先日お話した池のほとりで泣く女の話ですが……町で怪談として広まりつつあるようです。人間の中には、肝試し感覚で山に入る者がいるかもしれません。早いうちに、何か手を打っておくべきかと」

「そうですね……確かに、山に入った人間に何かあっては問題ですし、今日の夜にでも山に行くことにしましょうか。皆に面倒をかけるのも申し訳ないですし、ちょっと様子を見てきますね。……貴方も来てくれますか、樂」

「はい。……え、自分も、ですか」

 卯月が荒神山に入るときは、山を熟知しているがゆえ、単独で入ることがほとんどだ。神使を連れて入ることは滅多にない。

「ええ。ここは皆に任せれば、少し空けるくらいなら問題ないでしょう」

「わかりました。準備をしておきます」

 お願いしますね、と笑って、卯月は樂を見送った。


 夜、卯月は樂を伴って荒神山へ向かった。

 卯月は薙刀を、樂は刀を携えている。

 夏が近い山の中は緑が濃い。

 草深い、道もないような道を、二人は話しながら登っていく。

 二人とも、いつもどおりの着物姿であるが、どちらもこの山に慣れている。

「最近は何かと任せてしまってすみませんね。皆も忙しいでしょうに」

「いえ、そんな! 人手も十分にありますし」

「それならいいのですけれど。祭りが終われば私も少しは動けるようになるでしょうから、皆の負担も減らせるでしょう」

「あまり無理はなさらないでください。自分たちもいるわけですから」

「そうですね」

 卯月がふふ、と小さく笑う。

 その笑みには、どことなく哀しげな色があるように見えた。

「山の妖怪は、それほど増えてはいないようですね。去年は多かったようですから、また増えてはいないかと案じていたのですが」

「はい、見回りをしていても、増えているとは感じません」

「生成りも……いないようですね」

「はい。山で見たことはありません」

「なら、まだ少しは余裕がありますか」

 卯月の言葉に樂が首をかしげたとき、目の前が開けた。

 暗く沈んだ木々に岸辺を縁取られ、鏡のように夜空を映した池。

「あそこ、でしょうか」

 池の一角、大きくせり出した場所に、確かに人の姿がある。

 背の中程まで届く黒髪、地味な色の小袖。

――憎し、恨めし。何故、何故。

 細い声が聞こえてきた。

真朱まそお

 卯月が静かに呼ぶ。

 女は卯月に気付いた様子もなく、恨み言を呟きながら嘆き続ける。

 はあ、とひとつ息を吐いて、片手で樂を制した卯月はほとんど足音も立てずに女に近付いた。

 女の肩のあたりに手を伸ばす。

 ぱちん、と何かが爆ぜる音。

「貴方の嘆きを知っています。貴方の恨みを知っています。これ以上、嘆くのは止しなさい」

 卯月の手のあたりで、ふわりと蛍火のような光が灯る。

 光が消えていくと同時に、女の姿も薄れて消えていった。


「あの女は真朱まそおといって、昔は宮仕えをしていた女なのですよ。女官の一人であったそうなのですが、高位の女官に呪詛をかけたと濡れ衣を着せられ、命は助かったものの、宮を追い出されたのだそうです。呪詛をかけたのは実際には別の女官で、真朱まそおではなかったのですが、家の格が違うこともあり、彼女の訴えは全く聞き入れられなかったと。結局、都にもおられずここまで落ちてきて、宮やそこの人間を恨みながら命を断ったのです」

 帰り道、髪を結いながら、卯月が淡々と物語る。

「それで、幽霊になったのですか?」

「いえ、あれは何といいますか……未練や思い、記憶の影、とでも言いましょうか。生成りに近いモノ、と言うのが一番近いでしょうか」

「しかし、なぜあそこに……?」

「あそこが彼女の最期の場所、だったからでしょうね。恨みながら死んだゆえか、ああして出てくることがあるのですよ。昔から、あそこを死に場所にする人間は多いのですが、彼女に惹かれるのでしょうかね。それとも……」

 ふと、卯月が言葉を切って考え込む。

「卯月様?」

「いえ。彼女に惹かれるのか、また別の原因があるのか……実のところ、私にもよくわかっていないのですよね」

 そう話しながら山を降りる途中、卯月はふと足を止めた。

「卯月様?」

「樂」

 振り返らないまま、卯月が静かに呼ぶ。

「はい」

「この先、何かあったら……皆を、頼みますね。私も、長くはないでしょうから」

「卯月様、それは、どういう意味ですか」

 ふり返った卯月が微笑む。

 月光に照らされたその顔は、笑っているのに哀しげだった。



 数日後、卯月神社で予定通りに厄除大祭が執り行われた。

 神主のあげる祝詞を聞きながら、卯月はそっと袖をめくる。

 そこに浮いていた瘴痕は、以前見たときよりは明らかに薄くなっている。

(これで少しは、時間が稼げたでしょうか)

 そう思いながらも、卯月の顔は陰っていた。

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