第26話 厄除大祭 嘆く女(前)

 荒神山。

 宮杜町の北から東にかけて広がるこの山は、夏が近付くにつれて草木の緑がいよいよ色濃く変わってきていた。

 さらさらと下草を揺らしながら、日本刀を携えた樂は山の中を見回っていた。

 荒神山は卯月神社の管轄であり、従って山の見回りも神使のつとめである。

 この週は樂ともう一人の神使が山の見回りの担当で、それぞれ北側と東側を巡回していた。

 荒神山は決して小さな山ではなく、そんな山をたった二人で見回るというのはやや無理のある話なのだが、町の見回りにも人手が必要なこともあり、今のところ、卯月神社では日によって少しずつ巡回の道筋を変えることで対応していた。

 町に生成りが現れるようになったものの、山の中はうって変わって平和そのものだった。

 昔から妖怪がよく棲む山中のほうが、町の中よりも生成りが現れそうなものだが、そのような気配はない。実際、山の中では、樂は一度も生成りを見かけていなかった。

 生成りがいないことは、とりあえず安心できることではある。人間が生成りに出くわせば、何が起こるかわからない。

 特に町の若者などは、手軽なスリルを求めているのか、密かに山に立ち入ることがたまにある。

 もちろん禁じられている行為ではあるのだが、いっときの興奮の前には、禁止は何の抑止にもならないらしい。

 樂も、そういった人間を見つけたときにはどうにか山を降りるよう説得するのだが、如何せん、見た目だけで見れば十代の若者にしか見えない樂では迫力に欠ける。

 それにこうして肝試しに来る人間は、えてして酒に酔っていることが多い。そんな相手に説教したところで馬の耳に念仏というやつで、まともに受け取られることはまずない。何なら、水を差すなと袋叩きに遭いそうになったことも何度かある。

 そのためこのところは、侵入者への対応は人を脅かすことを得意とする妖の神使に任せることも多い。

 いっそ心底怖がらせてしまうほうが、案外二度三度と来ることはないのだ。

 それに日々の仕事はさぼりがちな神使でも、この手の仕事なら喜んでとりかかる。

 力が入りすぎることがあるのか、たまに逃げていく人間たちの様子を見て、やりすぎなのではないかと思うこともあるにはある。

 先日も、やはり酔った勢いで気が大きくなったらしい五人の若者たちが、山に入ったことがあった。

 それと知って妖の神使を脅かしに向かわせたところ、五人のうち一人が腰を抜かし、もう一人は白目を剥いて泡を吹いた状態で、そろってほうほうの体で山を降りてきた。

 さすがにその神使にはやりすぎだと釘を刺したものの、内心は卯月に祟られるよりはましだろう、と思ってもいた。

 そのとき、がさり、と草が揺れる音が耳に届いた。

 ふわり、と。

 耳が音をとらえると同時に、目の前を青白い鬼火が横切る。

 ぎょっとした樂は、思わず腰の刀に手を添えた。瞬時に感覚を研ぎ澄ませ、あたりの気配を探る。

 音は徐々に近づき、そして。

「うん? 誰かと思ったら。卯月神社の坊主じゃねえか」

 木々の間から、鬼火を追うように一人の男が姿を見せた。

 濃紺の着流しに脇差を落とし差し、月代は剃らずに総髪に結った男は、まるで江戸時代からやってきたかのような出で立ちをしている。

 男の周りには青白い鬼火が飛び交い、ぼんやりとした光を男に投げかけていた。

 どう見ても人間とは思われない男を認め、樂が緊張を解く。

「磯崎さん、なぜここに?」

「なぜも何も、俺は元々この山に棲んでるんだよ。……そういや、彩雅さいがのところでしか会ったことがなかったか」

 樂の問いに、男――磯崎は肩を竦めてみせた。

 樂がこの妖・磯崎と知り合ったのは二年前、〔百鬼夜行〕の一件があったときである。

 当時、妖怪と化した月葉神社の元神使・玄斗くろとに襲われ、重傷を負った樂を助けたのが磯崎だった。

 そういえばそのとき、磯崎が普段は荒神山に棲んでいると言っていたことを樂は思い出した。

「そういや、何か用か?」

「いえ、今日は見回りで」

「こんなとこまで見回んのか、ご苦労なこったな」

「それが仕事ですから。山で何か変わったことはありませんか?」

「いや、別に……あ、いや、俺が確かめたわけじゃなくて又聞きなんだが、このところ、出るらしいぞ、この山」

「出る、というと……」

「幽霊」

 あっさり答えた磯崎に対し、樂は何とも言えない表情を作った。

 別に幽霊を怖がっているわけではなく、不審の念を隠すことができなかったのである。

 妖が棲むような山に、今更幽霊が出たところで驚きもしないが、そもそも樂は幽霊が出たという話など耳にしていない。

「この山に?」

「ああ」

「誰から聞いたんですか?」

「いつだったかな……最近、彩雅のところに用があって町に下りたんだが、そのときにちょっと聞いたんだよ。池があるだろ、この山。夜中に、その池のそばで着物を着た女が泣いてたんだとさ。その女、身体が透けて向こうが見えたらしいぞ」

 透けてるんだったら生身の人間じゃねえわな、と、磯崎は話を結んだ。

 話を聞いて、樂も思い出したことがあった。

 四月の終わりごろ、荒神山に山菜を採りに入った男が怪我をして動けなくなり、深夜になって救助隊に助けられたことがあったのである。

 幸いその男の怪我は命に関わるものではなく、すでに退院したと聞いている。

 そのときに、その男が何か見たのかもしれない。

 だが少なくとも、樂は特に何も他の神使から聞いていない。もし昼間にこの山に入った人間がそんな女を見ていたのなら、樂もこれまでに耳にしているであろう。

 しかし磯崎もそれ以上のことは知らないようで、もう少し情報を集めてみようと思いながら、樂は磯崎に礼を述べた。

 神社に戻る前、合流した神使と念のためにその池に行ってみたが、特に怪しいものはなく、その神使も、町の噂のことは知らない様子だった。

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