幕間4 ある剣客の過去
床の中で、うつらうつらと刻をすごしている。
呪屋の奥座敷である。
床の間には誰の作か、立派な掛軸がかかっているし、違い棚にも
寝返りをうつと、しばらく頭がくらくらした。まだ熱が下がりきっていないのだ。
二日前、朽名の件で卯月神社へ礼に行ったのはいいが、それで気がゆるんだのか、帰ってきてから熱を出して寝こんでいる。
全く――情けない。
人間で言えば、私はまだ
瞼を閉じる。
どこからか、ざわざわと話し声のようなものが聞こえる。声とも音ともつかないそれらは、近づいたり遠ざかったりしている。
しばらくとろとろとまどろんで目を覚ますと、部屋はもう薄暗くなっていた。以前と比べると、日が短くなったようだ。
枕の上で、頭を動かす。
まだ少しめまいはしたが、先ほどひどくはない。頭もかなり軽くなっていた。
廊下から足音。
「どうだい、気分は」
男――磯崎が顔を出す。
「今はそこまで悪くはない。熱も、下がったようだ」
「そりゃよかった。彩雅が粥を煮たんで持ってきたが、食欲はあるか?」
「ああ」
磯崎から、梅干と鰹節の入った粥を受け取る。
暗いな、と呟いて、彼は棚から
部屋がぼんやりと明るくなる。
「まあ、食ってゆっくり養生することだ。養生するのは別に情けなくはないだろうさ」
内心を見透かされた気がして、どきりとした。
「心でも読めるのかって
「あ、いや……」
「あいにく、俺にゃそんな力はねえよ」
磯崎が笑う。
「なら――よほど、顔に出ていたか」
「まあ、そんなところだ。あんた、自分が不甲斐ないとでも思ってるだろう?」
図星を指され、黙りこむ。今回の一件が起きてから、身体が言うことを聞けばと何度思ったか知れない。
だろうな、と、磯崎はどこか独り言のように言った。そんなことはない――という、よく言われる慰めでも、そんなに卑屈になるな――という叱咤でもなく。
「やっぱりあんたは、昔の――人間だったときの俺によく似てるよ」
「人間だったとき?」
そういえば、前にちらりと聞いたことがある。この男はその昔、人間だった、と。
「磯崎様は」
さらりと襖が開き、呪屋の店主・彩雅が茶を持って入ってきた。
「磯崎様は、大変にお強いお侍様だったのですよ。たしか、免許の伝書も受けられたので御座いましょう?」
「いや、免許はもらっていないよ。先生はくださるおつもりだったらしいが……その前に俺が死んだからな」
肩をすくめた磯崎が茶を飲む。私も茶をもらったが、湯呑は指を火傷するかと思うほど熱かった。
襖が細く開く。その向こうに人の姿はない。
代わりに、にゃあ、と鳴き声がした。
「……猫?」
「鰹節につられたか? 彩雅、向こうで餌やってこい」
「そういたします。しかしいつの間に襖を開ける方法を覚えたのか……」
首をかしげて苦笑した彩雅が、そばを通り抜けようとした黒猫を抱き上げて部屋を出ていく。
「それで、似ている、というのは?」
「うん? ああ、その話か。しかし聞いたところで飯が美味くはならんぞ」
かまわない、と答えた。
む、と磯崎が顔をしかめる。
「まあ、言い出したのは俺だしな。今更黙っても仕方がないか。だが聞く気が無くなったら言ってくれ。止めるから。
俺が昔人間だったのは、あんたも知ってるよな。十一のときに父親が死んで、それからは母親と暮らしていたんだ。裕福な暮らしじゃなかったが、まあ食うものに困るってほどでもなかった。道場にも通わせてもらってたしな。
だがあるときに母が死んでな、死に方もおかしかったのさ。夜中にいきなり狂ったように叫びだして、そのまま喉に懐剣を突き立てて死んだんだ。……後で知ったんだが、母はそのころ、依頼を受けて祈祷をすることで金を得ていたんだ。
今はどうだか知らないが、当時はそれはご法度でな、母はこっそりやっていたらしいんだが、死に方が死に方だったんで役人の調査が入ってな、確かな証拠は出てこなかったし、別に罰もなかったんだが、結局、俺はそれまで住んでいた長屋を出ていかざるを得なくなった。隣近所から腫れ物扱いされてな。
そのうえ、夜毎に母が夢に出るようになった。それだけならまだしも、母が首を絞めてくるんだ。それが……二月か三月は続いたかな。
眠ればそれだし、寺に行けば門前払い、道場に通うこともできなかった。先生に迷惑がかかると思っていたんだ。死にたいと思っても、自分で腹を切るのは恐ろしかった。……どこかおかしくなってたんだろうなあ、俺も。
最終的に切られて死のうと思って、出会った人間に闇討ちをふっかけることまでしたからな。その相手が友人だったのと、そいつと俺の親戚で寺の住職やってた人が知り合いで、加えてそこの寺にここの店主がよく参詣に来てたんで、夢の件は一応解決したし、住む場所も、寺に寄宿することになったんでそっちも丸く収まったんだがな」
「しかし、よくそれだけ耐えていたな」
思わずそんな言葉が私の口をついていた。自分で茶を注ぎ足していた磯崎が首を振った。
「いや、耐えていたわけじゃない。さっさと誰かに相談でもすればよかったんだが、剣客として、というより武士として、幽霊に責め殺されるなどと口にできなかった。それだけだ。腰抜けだと思われたくなかったんだな。結局、無茶を重ねて、道を踏み外すところだった。道を踏み外して死んでいたならたぶん、悪霊にでもなっていただろうよ。……あんたは別に道を外れることはないだろうが、どうにも無理をしているように見えたから、ついつまらん話を聞かせちまった。まあ、ゆっくり養生することだ」
そう言って、磯崎は部屋を出て行ってしまった。
話に聞き入って食べるほうがおろそかになり、粥はだいぶ冷めていた。
「よう、辰巳。どうだ、具合は?」
ゆっくりと粥を食べ進めていると、今度は魁が顔を見せた。
「だいぶ、よくなったよ。……そうだ、魁。今度、波津に話をしてきてくれないか。今回のことと……樂のことを」
魁が目を丸くする。
「それは構わないんだが……お前はどうするんだ?」
「ここでもうしばらく養生しているよ。もう少しまともに動けるようになってから向こうに戻らないと、戻った途端にまた寝こむようなことになりかねないからな」
「それはまあ、な。わかった、話してくるよ」
「頼む。そういえば、何か異変は?」
「何もなかったよ。まあ三社の神さんが目光らせてんだし、そうそう妙なことは起きないだろ。特に卯月を敵に回すような真似、よっぽどの阿呆でもなきゃやらんだろ。朽名ももういないわけだし」
「ああ、そうだな。卯月様がいるのなら、そう心配することもないか」
三社の祭神、特に卯月は敵と見なした相手に容赦することはまずない。そのことは私もよく知っている。だからこそ樂を預けたのだ。
しかし、不安もある。
今の卯月は代を変わって長い。本来ならとうに、代を変わっていておかしくない長さだ。
彼女は、先のことをどこまで決めているのだろう。
「辰巳? 大丈夫か?」
「え? ああ、いや、波津はどうしているかと、ふと思っただけだ」
「大丈夫だよ、黒紅様もいるんだし。……そんなに気にかかるんなら、今からでも行ってくるよ」
止めるより早く、魁がくるりと踵をかえす。
ぽかんとしている間に、その足音は遠ざかっていった。
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