第23話 青行燈の鋏 秘めた衝動(二)

 すいすいと、卯月が滑るように樂の前を歩いている。

 着物の袖や袴の裾が歩調にあわせて揺れているが、どこかに引っかかりそうで引っかからない。

「妖の多い場所ですね」

 卯月が独り言のように呟く。

 うんざりした、とでも言いたげな語調だった。

「そう、ですね」

 答えたものの、卯月の言葉には違和感があった。

 荒神山に妖が多いことは、誰よりも卯月が一番よく知っているはずだ。

「ねえ、こんな言葉を知っていますか? 『昏夜に鬼をかたることなかれ。鬼をかたればかいいたる』」

「はい。聞いたことはあります」

 それは古くから伝わる戒めの言葉。夜中に鬼――すなわち、この世のものではない存在の話をしてはならない。語れば必ず怪異が起きる。そう伝える言葉。

「それはそれは」

 笑みの気配。

 卯月に悟られないよう、樂は慎重に歩く速度を落とした。

「こんな話を知っていますか? 昔、むかし……京の都、下京あたりに住む人たちが、五人集まって、百物語をしたのだそうです。作法のとおり、青い小袖を着て、暗い夜、青い紙を貼った行灯に、百本の灯心をともして、一話、また一話、怪談を語り、語るごとに一本、また一本と灯心を引き抜いていきました。季節は雪のちらつく冬のことで、染み入るような寒さのなか、六十、七十と話を重ねたあたりで――おかしなことが、起こりはじめたのです。窓の外で、火が点々と燃え、そのうち、まるで蛍がたくさん飛んでいるように思われるほどになったのです。その火はとうとう部屋の中に入ってきて、丸く集まって鏡のようになり、またわかれて砕け散り、ついには白く変じて、五尺ほどの大きさまで固まり、雷のような音とともに、五人の上にどっと落ちてきたので、五人は五人とも、畳にうつ伏して、死んだようになってしまったのだとか」

 くすくすと、卯月の忍び笑いが聞こえる。

 笑い声が、どこか不気味に響いた。

「そうそう、百物語なら、こんな話もあるんですよ。昔、あるところに、たいそう怪談好きのご隠居がいたんだそうです。このご隠居があるとき、百物語をしようと思い立って、近所の物好きを五、六人集めて、寺の一間で百物語をはじめました。そして、草木も眠る丑三つ時、妖しい風がどうと吹くころ、その部屋を覗いた小坊主が見たものは――弱々しいあかりでぼんやりと照らされた部屋の中、魑魅魍魎に囲まれて踊っているご隠居と、生気のない顔で座っている他の人々だったそうです。その場に倒れた小坊主は翌朝、他の僧に見つかって介抱され、息を吹きかえしたのですが……百物語をしていた人々は皆、何か恐ろしいものでも見たように、真っ青な顔で死んでいたのだそうです」

 ふふふ、と卯月が笑う。

 話の内容にも、あたりの雰囲気にもそぐわない、明るい笑い声。

 吹いてきた風が、ざわざわと梢を揺らす。

 樂はそろりと腰に帯びた刀に手を置いた。

 先を歩く卯月はふりかえらないまま、歩調を緩めることなく進み続ける。

「ところで、百物語で百話すべてを語り終えたときに、何が現れるか知っていますか?」

 樂は答えない。

「青行燈という妖怪が出てくるのですよ。執心に囚われた鬼女が――あら、どうしました?」

 ふりかえって佇む樂を見、卯月が首をかしげる。

 その表情は一見、普段の卯月と同じもの。

 だが、

(――違う)

 何かが違う。

「あらあら、そんなに怖い顔をして、いったいどうしたっていうんです?」

 卯月がにこにこと笑みを顔に貼り付けて訊ねる。

 金の目がきらりと光った。

「あなたは卯月様じゃない」

 樂がきっと卯月を見すえる。

「何を……言い出すんです?」

「お前は、何者だ」

「――ふふ」

 くぐもった笑い声。

「ふふふ、あははははははは!」

 不意に哄笑をあげた卯月の姿が揺らぎ、以前神社で見かけたお下げ髪の少女へ、そして大振袖をまとた女の姿に変わる。

 顔を引きつらせ、樂が二、三歩後退る。

 彼の脳裏で、これまで思い出せなかった記憶の小片が徐々につながっていく。

「久しぶりですねえ、坊ちゃん! 元気そうで何よりですよ。しかし相変わらず勘の鈍い坊ちゃんだと思っていましたが、少しはましになったようですね? ああ、でもあっさり騙されてついてくるんですから、やっぱり鈍い坊ちゃんですね」

「――朽名」

 女――朽名が口の端をつりあげる。

「それにしても、少ぉし祭神に化けたくらいで皆簡単に騙されるんですから滑稽ですねえ。祟り神の神社だというからどんなものかと思ったら、たいしたことはないじゃありませんか。他の神使にしたって、いかにも鈍そうなのがそろっていて――」

 一歩踏みこんだ樂が、刀を抜き打った。

「俺が鈍いのは認めるよ。だが、卯月様や他の神使をお前が貶めるのを、俺が黙っていると思うな!」

 一閃された白刃が、朽名の胸元を浅く裂く。

 朽名が瞳をぎらつかせる。

 記憶が繋がる。

――坊ちゃん、面白いところに行きましょう。

 かつて、まだ幼いころ、朽名に手を引かれて連れていかれた先。そこは決して一人で行ってはならないと言われていた岩屋。

 そして、そこにいたのが期波だった。

――なんだ。ずいぶん素直に来たんだな。ここには来るなって言われてなかったか? いいや。殺してやるよ、坊主。

 その場で殺されそうになったのをかろうじて逃れ、幼い樂は岩屋の奥へと必死で走り、気付けば荒神山に出ていたのだった。

「まったく、女を傷つけるものじゃないですよ、坊ちゃん。……本当は、死に損ないの坊ちゃんを、今度こそ、殺してあげようと思ったんですよね。でも、こっちのほうが面白いことになりそうですから、こうします」

 朽名が袖をうちふる。

 周囲からどっと湧きだしてきた黒い霧――瘴気が、あっという間に樂を包みこんだ。

 どくどくと、耳の奥で鼓動が鳴っている。

(――ああ)

 喉が、渇く。

 普段なら意識さえしない渇き。

 今はそれに耐えられない。

 目の前には女が立っている。

 艶やかな女。

 ぎり、と歯を噛みしめる。

 その一線は越えてはならない。卯月に仕える神使として、絶対に。

 だが。

(――血が、欲しい)

 女が何か言っている。笑っている。

 鼻をくすぐる、かすかな血の匂い。甘い、匂い。

 女の白い細首に、目が吸い寄せられる。

 ああ、この女の血は、はたしてどれほどの甘露だろうか。

 朽名がにたりと笑い、帯にたばさんでいた懐剣を抜くや、自分の頬を一筋、すっと切った。

 白皙の肌に、つうと赤い糸が走る。

 樂の口から、低い呻き声がこぼれた。

「坊ちゃん、これが欲しいんでしょう?」

「来る、な」

 必死で一歩、後ろに下がる。

 樂にとって幸運だったのは、この夜が満月とはいえ曇の夜だったことだ。

 雲ひとつない月夜だったなら、彼はとうに堕ちていただろう。

 それでも、渇きは刻々と強くなる。それに比例して、血を求める欲求と衝動も強まっていく。

「――だれ、か」

「助けを呼んだって、誰も来ませんよ、坊ちゃん。血が、欲しいんでしょう?」

 妖艶な笑みを浮かべた朽名が、傷口をなぞる。

 赤い雫が、白魚の指を伝う。

 思わず、樂はごくりと生唾を飲んだ。

 頭がくらくらする。

(――欲しい)

 ふらりと一歩、樂が朽名に近付く。

 その瞳は、じっと朽名の頬を見ている。

 もう一歩、距離を詰めかけたとき。

 ふわりと樂の身体が浮いた。

 何かに引っ張られるように、勢いよく樂が後方へ飛ぶ。

 誰かの手が、しっかりと樂を受け止めた。

「どうやら、間に合ったようですね。魁、あれは任せますよ」

 狐面をつけた男が、地面を蹴って飛び出しておく。

「樂」

 涼やかな声。いつもどおりの、わずかな乱れもない声。

「あ……」

「よく、耐えましたね」

「うつき、さま……」

 卯月の手が熱を帯びる。

 瘴気が祓われると同時に、喉の渇きと吸血衝動は、嘘のように消えていた。

 くずおれかけた樂を、月葉が支える。

「大丈夫かい?」

「……何とか」

「瘴気避けの結界を張ったほうがよさそうですね。このあたり、やけに瘴気が濃いですから。あれの影響でしょうか」

 言いながら、千草が慣れた様子で結界を張る。

 そのとき、それまで狐面の男――魁の攻撃を避け続けていた朽名が、ふと千草に目を留めた。

「あら嫌だ。誰がいるのかと思ったら、五宮の女神様じゃないの」

 甲高い笑い声。

「嫌ぁね、魁、あんた、口では縁を切ったとか言っておきながら、やっぱり親戚に声をかけてたわけ?」

「妖の親戚などいませんが?」

 きょとんとする千草とは逆に、

手前テメエ!」

「魁!」

 激昂した魁が朽名へ切りかかり、卯月がはじめて大声をあげる。

「だってそうとしか思えないじゃなあい? 五宮の一族とは縁を切った、なんて言っておいてねえ。ああ、それとも自分の立場使って命令したのかしら? 木蘭の子だと言えば、従うよりないものね?」

 遠目に見てもわかるほど、魁が表情を凍りつかせた。

 魁の動きが止まる。

 大振袖がひるがえる。

 虚を突かれた魁が勢いよく吹き飛び、木に叩きつけられる。

 朽名の嘲笑が響きわたる。

 あたりの瘴気が、朽名に引き寄せられていた。

 すでに朽名の下半身はその輪郭がうかがえず、上半身も瘴気に侵食されつつあった。

 それが目に入り、樂が喉の奥で押し殺した悲鳴をあげる。

 かつて、樂は似たようなモノを見たことがあった。

 それは期波から逃げ、現世へ来たときだった。

 期波から逃げて、現世こちらへ来たはいいが、子供の足でいつまでも逃げられるはずはなかった。

 夜の山中を転がるように駆けたが追いつかれ、背中を深く切り裂かれた。

 そのときに、女神卯月は現れた。

――何者か。

 卯月が連れていた黒髪の少女が樂を庇い、卯月が期波をあっさりと切り捨てた。

 しかしその直後、起き上がった期波が、卯月の首に食らいついた。

 同時に期波から溢れ出した黒いモノが、卯月を包みこむ。

――君が殺すんだ。

 男の声。

――今あれを殺さなければ、村が滅ぶことになりますよ!

 女の声。

 自分を背に庇う少女が、薙刀を構える。

 絶叫。

 それが自分の喉から出ていると、樂は気付かなかった。

「樂!」

 凛とした卯月の声が、樂の正気を引き戻す。

 過去の情景が目の前から消え、すぐ近くに卯月の顔があった。

 卯月の手が、樂の背をさすっていた。

 結界が軋む。

 瘴気に呑まれた朽名が、結界を叩いていた。

「行くしかなさそうですね」

 卯月が立ち上がる。

「大丈夫、同じ轍は踏みませんよ」

 そっと樂の頭を撫で、卯月は結界から出た。

 濃い瘴気が肌を刺す。

 朽名が卯月に手を伸ばす。

 す、と卯月の口角があがる。


 ぱちん。


 暗夜よりも黒い髪が広がる。

 薙刀を構えた卯月が、勢いよくその刃をふりおろした。

 断末魔。

 怨みのこもった視線を卯月に投げかけ、朽名は塵のように崩れて消えていった。

 意識を取り戻した魁がのろのろと起きあがる。

「大丈夫ですか?」

「ああ、息が詰まっただけ……あー、こっちは駄目か」

 魁がつけていた狐面が滑り落ちる。

 面は砕けてしまっていた。

「直しましょうか」

「いや、素性もしれちまったし、もういいや。俺よりお前の神使はどうなった?」

「樂なら大丈夫です。あとは……このあたりを浄化しておきましょうか」

 浄化なら手伝いますよ、と千草が近付く。

 千草を見た魁がばつが悪そうにそっぽを向き、身じろいで苦痛の声を立てた。

 ちらりと千草が魁を見る。

「少しの間、動かないように」

「あ、いや、だ、大丈――」

 慌てて立ちあがろうとした魁が息を詰まらせる。

「だから動かないでください!」

 ぴしゃりと言った千草が魁のそばにかがみこむ。

「瘴気の影響は――なさそうですね」

「いや、ほんとにちょっとぶつけただけだから……」

「でも動けないのでしょう。いいから少しじっとしていてください」

 千草に治療され、ようやく――少し苦い顔で――魁が立ちあがる。

「貴方……あの、木蘭様、の?」

「……そいつは死んでるし、今の俺は木蘭とは関係ないよ」

「魁、これからどうするんです?」

「とりあえず、辰巳の様子を見に行ってくる」

「それならこれを持って行ってください。治癒と浄化の札です。だいぶ楽になると思いますよ」

「ありがとう、恩に着る」

 卯月から札を受け取り、魁は山を下りていった。

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