第21話 青行燈の鋏 招かぬ客人

 日中の熱気は、深夜になっても残っていた。

 何もしなくても汗ばむような蒸し暑さの中でも、卯月は涼しい顔で起きていた。

 深夜、それも草木も眠る丑三つ時ということもあり、宵どきにはにぎやかに響いていた祭囃子も今はさすがに絶えている。

 静かな自室で、卯月は月葉から借りた覚書をめくっていた。

 古い紙の上に、達筆な文字が書かれている。


――某月某日、卯月より境日の連絡有。

――同 廿日はつか、器が変わる。

――某月某日、卯月より連絡。近く神使を迎えるとの事。


「――ふむ。私の記憶とも、齟齬はありませんね」

 覚書を閉じ、丁寧に油紙に包む。

(明日、月葉様に返しに行きましょうか)

 さて、と包みを文机に置き、卯月は部屋を出た。

 異常はないかとゆっくりと境内をまわり、赤鳥居の近くまで来たとき、

(あら……?)

 鳥居の影になる場所に、人影がひとつ。

 小首をかしげた卯月が鳥居をくぐり、その人影に声をかけようとしたとき。

 人影のまとっていた鮮やかな大振袖がひるがえる。

 月の光をうけて、どこか黒ずんで鈍く光る短刀が、勢いよく突き出された。


 ぱちん、と、髪紐が爆ぜた。


「刺した――と、思いましたか」

 短刀を突き出した姿勢のまま、凍りついたように立ち尽くす女の背後へ、音もなく回りこんだ卯月が、淡々と言葉を発した。

「それほどの瘴気を浴びさせた刃なら、突かれれば致命傷になりうるでしょうね。たとえ、神の身でも――いえ、神の身、だからこそ」

 女の手から勝手に短刀が離れ、くるくると宙を回りながら卯月の手の中におさまった。

「な……」

 一陣の風が吹く。

 卯月のほどけた黒髪が風になびく。

 その髪は、先刻よりも明らかに伸びていた。

「大妖ですらない下臈の身で、“卯月”になろうとは笑わせる。ぬし程度の妖に、我が討てると思うたかよ」

 冷ややかな声。

「立ち去れ。二度と顔を見せぬのであれば、此度の無礼は問わぬ」

 女が半透明の球体に包まれたように見えた次の瞬間、爆竹でも鳴らしたかのような音が響いた。

 静けさが戻ったときには、女の姿は消えていた。

(あの妖は……)

 先日、かすかに樂に絡んでいた妖気。それと同質のものを発していた。

(朽名……?)

 心当たりの名を思いつつ、短刀の穢れをはらう。

「卯月様!」

 異変に気付いて走ってきた樂に、髪を結いなおしながら、卯月はにこりと笑いかけた。

「なんでもありませんよ。戻ってお休みなさいな。まだ夜明けには早いですから」

 首をかしげて戻っていく樂を見送り、卯月はそっと息を吐いた。

(まだ……踏みとどまれていますね)

 こうして戻れるのなら、まだ大丈夫なはず、だ。

 決して余裕があるわけではないが、それでも、まだ。

 音もなく、その場を後にしかけた卯月は、ふと荒神山のほうへ顔を向け、柳眉を寄せた。



 同じころ、荒神山の池のほとりでは男が一人、どうも途方に暮れた様子で佇んでいた。

 黒と木蘭色の着物に青い袴姿の男である。

 男は顔の上半分を隠すように、黒い狐面をつけている。まとめられた濃い紫の髪が、後ろでなびいていた。

「卯月の社の場所……ここだった、よな?」

 男の目線の先には何もない。草が生い茂っているのみである。

 ううむ、と唸った男は腕を組み、しばらく首をひねっていた。

「仕方がない。卯月の手は借りたかったが……今はあいつを探すほうが先だ。間に合うといいが……」

 里に降りる道はどこだったか、と呟いて、男が立ち上がる。

「ああ、装いも変えないといけなかったか」

 言うなり、男の服装が変わった。

 紺のロングコートに青灰色のベスト、青いスラックス、木蘭色のネクタイ。

 どう見ても夏場の服装ではない。が、男は満足そうにうなずき、面をつけたまま山を降りていった。

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