第20話 青行燈の鋏 幕の内で動くもの
青い空に、綿菓子をちぎったような雲が浮いている。
誰かが持ってきたラジオから流れる天気予報が、今日も快晴、熱中症に注意を、と呼びかけている。
そんな中でも、卯月神社では近所の住民たちが夏祭りの屋台や休憩所の整備をすすめていた。
境内を掃除し、椅子を並べなおし、飲み物を補充する。
本来来るはずだったマスター・
作業がひと段落し、配られたスポーツドリンクを飲んでいた刹那は、近くで六、七歳くらいのお下げ髪の少女がうずくまって泣いているのを見つけた。
近寄ってみると、少女は両膝を痛々しく擦りむいていた。どこかで転んだらしい。
「大丈夫?」
声をかけ、少女を社務所へつれていく。
社務所のそばの水道で少女の傷を洗うと、傷にしみたらしく、少女はさらに激しく泣き出した。
「どうしました?」
「この子、転んじゃったみたいで。社務所に救急箱とかある?」
泣き声に気付いて社務所から出てきた黒髪の青年――樂が二人に声をかける。
ちょっと待ってください、と樂が中へ戻る。
彼と入れ違いに、どうやら双子らしい、互いに瓜ふたつの少年がひょっこりと顔をのぞかせた。
「なに、どうしたの?」
「転んだの? 大丈夫だって、そんなに泣くなよ」
一応慰めているらしい二人ではあるが、少女はまだ泣きじゃくっている。
そこへ、樂が救急箱を手に戻ってきた。
救急箱を受け取ろうと刹那が手を伸ばした瞬間。
ぱちん。
「痛っ……」
指先に鋭い痛みが走り、刹那は思わず勢いよく手を引いた。樂のほうでも一瞬手を引いたらしく、救急箱が地面に落ちる。
「わ、ごめん!」
幸い救急箱の蓋は開かなかったが、外側には大きな傷がついていた。
「いえ、こちらこそ。中は……うん、大丈夫。えっと、これでいいかな」
中身を調べていた樂が、大きめの絆創膏を二枚取り出す。
「うん、ありがとう」
まだしゃくりあげている少女の膝に絆創膏を貼る。ついでにタオルで涙を拭ってやると、少女はつかのま、何の感情もうかがえない顔で刹那を見上げた。
そのまま、少女は何も言わず、くるりと踵を返したかと思うと、参道の中央を鳥居の方へ走っていった。
「刹那ちゃーん! ちょっとこっち手伝ってえ!」
「あっ、はーい!」
軽く頭を下げ、刹那が走っていく。
「なんか難しい顔してるけど、どうした?」
「こんな顔してるぞー」
双子――五宮神社の神使、丙と庚が樂を見上げる。庚のしかめっつらを見て、樂は思わず眉間に手をやった。
「いや、見かけない子供だなと。あと……あの子供、走っていく前、ちょっと笑ってなかったか?」
「今泣いた烏がもう笑った、ってやつじゃないの、それ」
「確かに見ない子だけど、遊びに来てるとか? 夏休みだし」
首をかしげつつ、救急箱を抱えた樂も社務所に戻った。
棚に箱を戻す前に、側面を軽くなでると、傷は跡形もなく消えていた。
丙と庚も、それじゃなー、と社務所に声をかけて、そろって駆け足で帰っていった。
境内に少しずつ人が増えはじめた夕暮れどき、月葉神社の葛が顔を見せた。
「お疲れ様です。これ、頼まれてた覚書なんですが、卯月様、いらっしゃいますか?」
「お疲れ様。卯月様は見回りに行ってるけど、そろそろ戻ってくると思うよ。それか、預かっておこうか」
「そうですね……お願いします。あと、月葉様を見ませんでした?」
「月葉様を? いや、今日は見てないけど」
「それなら五宮神社のほうですかね? 『ちょっと出てくるね』って言われただけだったので、どこへ行ったのかさっぱりで……」
葛は口をへの字にしていたものの、以前のようにぷりぷりしている様子はない。
「あら、葛。お疲れ様です」
噂をすれば影、というのか、そこへ卯月が帰ってきた。葛から頼んでいたという覚書を受け取り、ありがとうございます、と懐にしまう。
「なにか変わったことは――樂」
「はい」
す、と表情を消した卯月に、樂が背筋を伸ばす。
肌に触れる空気が、一瞬冷たくひりついた、刺々しいものになった。
「妙なモノが来ませんでしたか」
「いえ……自分は気付きませんでしたが」
「それはどうです?」
卯月に胸元を指され、懐をあらためた樂は、はっと顔色を変えた。
念のために、と卯月から渡されていた守札。襟の内側に留めていたそれが、真っ二つに破れていた。
「――まさか」
昼間のことを聞き、卯月が少し考えこむ。
「そうでしたか。今のところ、害はなさそうですが、一応、結界を少し強めておきますか。祭りのときは出入りが多くなりますから」
ひとつふたつうなずいて、新しい札を樂に渡し、卯月が本殿に歩いていく。境内の空気はすでに、もとの熱気を取り戻していた。
にぎわっている町の喧騒は、荒神山にも聞こえてくる。
にぎやかだな、と独りごちながら、知人から届けられた酒を飲んでいるのは、この山に棲む妖・磯崎である。
喧騒を肴に杯を重ねる磯崎の眼前を、ふわふわと提灯火が飛んでいく。
「どうもこのところ、妖をよく見るな」
町が騒いでいるのに惹かれているのだろうか。
「もっとも、こっちに関わってこなけりゃ、妖が増えたところで俺には関係のないことだがな」
そう独語を続けた磯崎は、手酌で酒を注いだ杯の満を引いた。
人から妖に堕ちた代償か、彼の味覚は失われている。ゆえに酒の味がわかるわけではない磯崎だが、酒を飲むことそのものは好んでいる。加えて剣術修行に明け暮れていた生前にしなかったことを楽しむ、という理由もあるらしい。
近付く足音。
顔面蒼白の、顔の右半面を髪で覆い隠した袴履きの男が、よろめきながら歩いてくる。
「た、のむ、助け――」
「ん? おい、あんた!」
驚いて立ち上がった磯崎が男の身体を支えると、鉄の臭いが鼻をついた。
男は左の肩あたりから腰まで深手を負っている。どこでこんな傷を受けたのかは知らないが、よくこれで動けたものだと思うほどの傷だ。
とはいえ、磯崎も生前は剣客。切り傷の応急手当なら心得ている。
酒が包んであった風呂敷と刀の下緒で手早く傷を縛って血止めをする。
「おい、聞こえるか? しっかりしろ、傷は浅いぞ」
声をかけたものの、男は完全に気を失っている。
仕方ねえな、と口の中で呟いた磯崎は男を担ぎ、町のほうへ歩き出した。
できるだけ人目につかないように道を選びながら、ある路地へ入る。
何人か、二人をふりかえって見る者もいたが、肝試しのお化け役とでも思われたか、幸い、磯崎が問い詰められることはなかった。
路地の奥には瓦屋根の平屋が建っており、十一、二の、振り袖を着たおかっぱ頭の少女が、玄関前の長椅子に置かれた“呪屋”と書かれた看板に布を被せていた。
「彩雅、部屋、空いてるか?」
「これは、磯崎様。はい、空いておりますよ。奥へどうぞ」
二人を見て事情を察したのか、彩雅は奥のひと間へ二人をとおし、慣れた様子で布団を敷いて男を寝かせた。
「何か、騒ぎが御座いましたか?」
ひととおりの手当を終え、よく冷えた麦茶を飲みながら、彩雅が首をかしげる。
「さてな。特にそんな話は聞かないが……今年はどうも妖が多い。なにか諍いでもあったのかもな」
「時々、妖が増える年が御座いますからね。今年もその年なので御座いましょう。盂蘭盆を過ぎるか、彼岸のころには落ち着くでしょうが……」
「が?」
「今年は町で珍しい催しをしていましょう? どう影響するかと思いまして。『昏夜に鬼を語ることなかれ。鬼を語れば怪いたる』と、昔から申すでは御座いませんか」
「まあ、な。だが昔から、人間は怪異を好むだろう。俺が生きていたときも、幽霊見世やら幽霊の姿絵やらが流行ったもんだ。ああ、あと百物語もな」
「ああ、流行りましたねえ。あのころと比べれば、今の人々は此方側との関わりは薄くなりましたが、人がこわいものに惹かれるのは、いつの世も変わらぬようで御座いますね」
「そうだな。俺は興味もなかったが、百物語は何人かやっていたやつはいたよ。結局、何事もなかったらしいがな。っと、おい、待て、動くな」
磯崎がそう彩雅と話していると、目を覚ました男が起き上がろうとしていた。磯崎の呆れ声に、男がぎくりと動きを止める。
「悪いようにはしない。いいから寝ていろ」
「そうは……いかない。早く……早く、卯月神社に、知らせに――」
「阿呆、死にたいのか」
「だが……どうしても、これだけは、伝えなければ……」
「何か言伝がおありでしたら、代わりに卯月神社までお届けいたしましょう」
そう言い出た彩雅に筆と紙を借り、男は震える手でようやく二、三行をしたためた。
結び文にしたそれを、頼む、と彩雅に手渡し、男はまたがっくりと横たわった。
「大丈夫ですか?」
「また気絶したらしいな。お前の薬もあるし、この様子ならすぐに危なくなることはなさそうだが……当分は絶対に動かさないようにしないとな。こいつは俺が見ておくよ」
「それでは、私は神社に行って参ります」
小暗くなりかけた通りには人が多い。夏祭りの間は、暗くなるほど町はにぎわう。
からころと赤い鼻緒の下駄を鳴らし、彩雅は卯月神社への道を歩む。
神社の境内にもいくつか屋台が並び、老若男女でごったがえしている。
(さて……どうしたものでしょうか)
一介の妖が、そうそう祭神に逢えるものではない。
考えている間も立ち止まっているわけにはいかず、あちらへ押され、こちらへ流されていた彩雅は、いつしか神社の裏手まで歩いてきていた。
「何ぞ、用がありますか」
背後から、静かな声がかかる。
穏やかではあるが、感情のうかがえぬ声である。
ふりかえると、そこには黒い髪を赤い髪紐でまとめた女――祭神・卯月が立っている。
「妖が来るのはままあることですが、見ていればどうやら祭りに浮かれているわけでもない様子。それなら私か、私の神使に用があるのではと思いましたが」
「はい、御祭神に、こちらを言付かりました」
彩雅は提げていた巾着袋から例の結び文を取り出し、卯月に手渡した。
一読して卯月が文を懐にしまう。
「確かに言伝を受け取りました。怪我で動けぬとありましたが、それほどひどいのですか」
「はい、相当な深手で御座います」
「ではこちらをお持ちなさい。少しは回復の助けになるでしょう」
「有難う御座います」
渡された札をおしいただいて、彩雅は卯月神社を後にした。
帰る途中、雑踏の中から、まっすぐに彩雅に向けられる気配があった。
底なしの敵意と殺意。
(まっすぐ帰るのは、危ないですね)
懐から出したヒトガタに息を吹きかけ、足元へ落とす。自分そっくりの、全身白ずくめの少女がそこに現れた。
形代に身代わりを任せ、足を早めた彩雅だったが、その背後で形代は飛んできた小刀に眉間を貫かれて消え去った。
月明かりに見えるのは、お下げ髪の、口が耳まで裂けた少女。
くるりとふりかえった彩雅は、巾着袋から小さな張子の玉を取り出し、それを少女に向けて投げつけた。
いくつかはふりはらわれたが、ひとつふたつは運よく少女の顔に当たってぱちりと割れる。
瞬間、声にならない叫び声を上げて、顔を覆った少女はその場で転げ回った。
その間に、彩雅は素早く下駄を脱ぎ、足袋裸足で走り去っていた。
「ただいま戻りました」
「ずいぶん時間がかかったな。何かあったか?」
「ええ、事情は後ほど。磯崎様、御客様の具合は如何で御座います?」
「今は眠ってる。容態はなんとも言えん」
磯崎の言葉どおり、男は蒼白な顔で眠っている。
卯月にもらった札を男の枕の下にいれ、彩雅は帰り道でのことを磯崎に伝えた。
磯崎が渋面を作る。
「無事で良かった。つけられてはいないか?」
「大丈夫だとは思います。気配がわかるわけではありませんが、あの目潰しを受けたら当分は動けるものでは御座いませんから、私を追うどころではないでしょう」
彩雅が投げつけたものは、張子の玉の中へ乾燥させたよもぎや菖蒲の粉末、石灰、
これをまともに顔へくらったら、相手が誰であれたまったものではない。
「当分は出入りに気を付けたほうがよさそうだな」
「そういたします」
険しい顔の磯崎に、彩雅も神妙な顔でうなずいてみせた。
卯月神社。訪れた人々を、卯月は本殿の屋根の上から眺めていた。
その手には、届けられた手紙がある。
――朽名が動いた。怪我で動けず。警戒を請う。 辰
短く書かれた手紙は、確かに辰巳の筆跡だった。彼の花押も書かれている。
「興味深い妖でしたね。人がなったモノではなく、されど器物がそのまま成ったモノでもなし。とはいえ今はこちらですね。もう少し、結界を強めておくとしましょうか」
祈るように両手を組んだ卯月が目を閉じる。
ふわりと、境内に風が吹いた。
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