青行燈の鋏

第19話 青行燈の鋏 不穏な報せ

 昼すぎ、それまで激しく降っていた雨が止み、雲間から陽光が射し入る。

 夕立の間はしずまっていた蝉の声が、再び騒がしく響きはじめる。

 雨に濡れた卯月神社の石段を、杖をつきながらゆっくりと登る壮年の男がいた。

 黒い髪が、顔の右半分を覆っている。

 着物と袴に紺足袋、下駄履きという昔の書生のような風体の男は、石段を半分ほど登ったところで足を止めた。

 顔に流れる汗を拭う。

 その拍子に、髪で隠れていた顔の右半面があらわになる。

 大きな爪にでも引き裂かれたような、古い傷跡が見えた。

 しばらくその場で息を入れ、男は先よりもゆっくりとした足取りで石段を登りはじめた。

 赤い鳥居をくぐる。

 ちょうど境内の掃除をしていた樂が、男に気付いて軽く頭を下げた。

 樂を見て、男はつかのま表情を凍らせた。まるで、見てはならないものを見たとでも言いたげに。

 しかしすぐに、

「卯月様はおいでかな」

 何事もなかったかのように、低い、落ち着いた声で樂に訊ねた。

「何か用がおありでしたら、自分が伺いますが……」

 樂の面に、警戒の色が浮かぶ。それを見て取った男の方は、口元にちらりと苦笑をのぼらせた。

「怪しいものではない。卯月様の知り合いだ。悪いが、辰巳が来た、と伝えてもらえるかな」

 そこへ、何かを悟ったか、それとも偶然か、どちらにしても折よく姿を見せた卯月が、辰巳と名乗った男に声をかける。

「貴方が来るとは思いませんでしたよ、辰巳。波津はどうしています?」

「ああ、息災だ。本当は波津が来るはずだったのだが、少し手が離せなかったのでな」

「卯月様、こちらの方は?」

 言問い顔の樂に、卯月はどこか、言葉を選ぶような調子で答えた。

「昔からの知り合いですよ。よく知っている相手ですから、心配はいりません。中へどうぞ、辰巳」

 さりげなく手を貸して通した自室で辰巳に茶を出し、卯月が小首をかしげる。

「わざわざ幽世かくりよからこちらへ来るということは、そちらで何か問題が起きたと考えてよろしいですか」

「いや、まだ問題は起きていない。だが“境日”が近いゆえ、それを伝えに来た」

 卯月が怪訝そうに辰巳を見返した。

 彼の言う“境日”は、現世うつしよ幽世かくりよが最も近付く時期のことである。

 多少期間は前後するが、境日はおよそ三十年ごとに訪れるもので、卯月も何度も経験している。

「もうそんな時期でしたか。しかし、わざわざ貴方が来る必要はないと思いますけれど」

「今回の境日は普段とは訳が違う。“揺籃の花”が……しかも親株が咲いたことで幽世こちらの妖が興奮している。厄介事を引き起こさないともかぎらない」

「それは……人に危害を加える、と?」

「それもあるが、幽世こちらに人間を呼びこむ可能性もある。何より……樂が命を狙われる」

「樂が?」

 卯月の柳眉が寄る。

「期波を覚えているか?」

「ええ、もちろん。しかし、彼はすでに討ちましたが」

「だが、手下がまだ残っている」

「手下が?」

「期波に心酔していた、朽名くちなという女だ。あのとき、樂を屋敷の外に誘い出したのもそいつだ。期波が貴女に討たれてからは姿を見なかったので、どこか遠くへ逃げたのかと思っていたのだが、少し前から姿を見かけたという話を聞いてな。俺も、ここへ来る途中であいつの姿を見た。幸い、むこうは俺に気付かなかったらしいが。奴なら境日を逃すはずがない。こちらでもできるかぎり対処はするが……昔と違って今の不如意の身では、波津の手を借りても十全の対処はできん」

 辰巳が忌々しげに顔を歪める。

「事情はわかりました。他の祭神にも、朽名のことは伝えておきましょう。貴方は無理をなさいませんように」

「ああ、それは任せる。それと……樂はよくやっているだろうか?」

「ええ、とても」

「そうか。それなら安心した。用も済んだことだし、そろそろ戻らせてもらう」

 立ち上がった辰巳が、ふらりとよろめく。

 卯月が慌てて支え、その場に座りこんだ辰巳の額には、脂汗が浮いていた。

「少し休んでからになさいな。ずいぶん顔色が悪いですよ」

「そう、させてもらおう」

 卯月が押し入れから夜具を取り出すより早く、辰巳は腕を枕に横になり、すぐに寝息を立てはじめた。その顔には、疲労が濃く浮いている。

 辰巳を夜具に寝かせ、そっと部屋を出る。

「あら」

 部屋の前にはどことなく青ざめた樂が、ばつの悪そうな顔で立っていた。

「もしかして、聞いていましたか?」

「申しわけありません。立ち聞きするつもりではなかったのですが……」

「そう、行儀がいいとは言えませんね。まあ今回は貴方にも関わりがあることですから、向こうで話をしましょうか」

 近くの空いている部屋で差し向かいに座り、卯月が口火を切る。

「それで、どこまで聞きました?」

 樂は少しの間、気を鎮めようとしたのか息を整えていた。

「朽名が、自分を狙っている、と……」

「そのようですね。そこを聞いていたのなら話は早いです。境日がすぎるまでは……そうですね、月葉様に訳を話して、あちらに――あ、そうもいかないのでしたね」

 卯月がすぐに言葉をひるがえしたのには訳がある。

 数日後から、毎年恒例の夏祭りにあわせて、宮杜町ではあるイベントが企画されている。

 町中を巡る肝試し。

 町にある古民家や寺、そして五宮、月葉、卯月の三社を巡ってスタンプを集め、一定数集まったら景品と交換、という内容のイベントらしい。

 卯月神社の社務所にも、夏祭りの開催と肝試しイベントを告知するポスターやチラシが置かれている。

 この期間が、ちょうど境日と重なるのだ。

 普段でも、境日がくれば妖怪への対応に追われるのだが、“花”の開花で浮き足立った妖怪への対応と町でのイベントが重なればどうなるか、火を見るよりも明らかだ。樂の手はどうしてもいる。

「こうしましょう。境日がすぎるまで、貴方はなるべく神社を出ないように。もし神社を出なければならないのなら、必ず誰かと一緒に行動すること。いいですね?」

「承知しました」

 うなずいた樂だったが、その顔はこわばっている。

「大丈夫ですよ。ここには決して、朽名を入れはしませんから」

 ふ、と卯月が表情を緩める。

 それにつりこまれたのか、樂もその顔つきを和らげた。

「しかし、境日と肝試しが重なったのは厄介ですね。羽目を外す人間もいるでしょうし」

「いっそこちらも脅かす側に回るのはどうでしょうか」

 冗談めかして言った樂に、それはいいですね、と卯月は微笑した。


 しばらくして、卯月が部屋に戻ってみると、辰巳は身を起こしていた。

「お茶をどうぞ」

 辰巳が礼を言って冷たい茶を飲む。

「辰巳。万一、朽名が現世こちらで何か害になるようなふるまいをした場合、討ってもかまいませんか」

「むしろ、討って欲しいと思っている。本来なら、刺し違えてでも俺が討たねばならない相手なのだが……」

「貴方に何かあれば、波津はどうなります。貴方は朽名のことより、波津のことを考えてあげなさいな」

 ふ、と辰巳が苦笑を浮かべる。

「……祟り神の言葉とは思えんな」

 気を悪くした様子もなく、卯月がそうですね、とくすくす笑った。

「でも、妻子がいた“卯月”もいましたよ?」

 卯月がそう言うと、辰巳は驚いたのか、眉をはねあげた。

 その後、夕暮れに山を歩くのは危ないから、と渡された卯月神社の紋入りの提灯を手に、辰巳は山へ戻っていった。



「境日が重なるとは……。妖怪への対処だけならともかく、肝試しに参加する人間への対応ともなると……手が足りないかもしれません」

 翌日、月葉神社で卯月から話を聞き、千草が顔をくもらせる。

「でも脅かす側、って案はいいね。神使には悪戯好きな子もいるし」

 人間に怪我をさせないことは徹底させてね、と月葉が付け加える。

「人間のほうは神使の子たちに任せて、僕らは朽名をなんとかしようか」

「そうですね――って月葉様、貴方まで関わるおつもりですか?」

「そのつもりだけど」

 あっさりと言いきった月葉が、ねえ、と千草に同意を求める。

「そうですね。貴方まさか、自分ひとりで対処するつもりだったのですか?」

「そのつもり、でしたが。荒神山を持ち場にしているのは卯月神社うちですし」

「貴方……いったいどれだけのことを一人で抱えこめば気が済むんですか!」

 千草が落とした雷に、卯月が首をすくめる。

「抱えているつもりはありませんが……」

「それで抱えていないと言うなら、何が抱えていると言うんですか」

 まあまあ、と月葉が千草をなだめる。

「五宮で何かあったのかい? ずいぶん荒れてるけど……」

「何かあったと言いますか……肝試しをすると決まってから、特に木蘭様がかなりぴりぴりしておられて、正直おちつかなくって」

 卯月と月葉が、そろって得心したと言いたげな顔になる。

「まあ、あの方は、含むところはあるでしょうね」

「あの方、なぜあれほど妖を嫌うんでしょうか。危険だから、とおっしゃってはいますけれど……」

「昔からおられる方だからねえ。やっぱり何か、思うところがあるんじゃないかな」

 茶を飲みながら答えた月葉の隣で、卯月が意味ありげに微笑む。

 千草が言問い顔を卯月にむけたが、卯月は何も答えなかった。

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