第17話 咲かぬ桜と雛の誓い 青豆時 前
夜。
暗い雲におおわれ、月明かりは地まで届かない。
現代と違い、街灯などのない真っ暗な道を、提灯を手に歩いている少女がいる。
薙刀を持ち、緋色の袴――卯月神社の神使が履くものだ――を履き、黒い髪を下ろした、金の目の少女である。
提灯の火明かりは頼りなく、せいぜい足元を照らせる程度のものでしかない。
時刻は、草木も眠る丑三時。
あたりに人気はなく、道沿いの人家も静まりかえっている。
暗夜の道行きは、大の男でも心細く思われるだろうに、少女はまるで真昼に道を歩いているかのような、しっかりとした足取りで歩んでいる。
ふと、少女が足を止めた。
眼前の闇の中で、ぞろり、と何かが動いた。
いぶかしげに小首をかしげ、少女が提灯をさしつける。
「誰か、いるの」
答えはない。だが、こちらを害そうとする暗い意思は感じとれた。
人ではない。
そう直感し、少女は怯える様子もなく、すっと薙刀をかまえた。
そのまま動かない少女に、闇の中から何本もの青白い手が伸びる。
少女が、さっと薙刀を一閃させた。
闇夜に映える白刃が、妖怪を真っ二つに切り裂く。
声にならない断末魔を上げて、眼前の妖怪は消え去った。
小さく息を吐き、少女は、心もち歩調を早めた。
月葉神社の赤鳥居。
妖怪退治に出た月葉はまだ戻らず、飛び出して行ったセンが戻って来る気配もない。
いったいどうなったかと、先刻からうろうろと、鳥居の近くを落ち着きなく歩き回っていた葛は、近付いてきた少女を見てぱっと顔をあげた。
「あの――」
「あ……」
「あの、どこかで月葉様かセン様を見かけてはおられませんか?」
とたんに。
妖怪と対峙しても崩れなかった、少女の仮面のごとき無表情が大きく歪み、金の瞳が揺れ、沈痛な表情が浮き出した。
一度息を吸って、少女は懐に抱えていた布包みを取り出した。
「こちらを、届けに参りました」
怪訝な顔で包みを受け取った葛は、少女の手が氷のように冷たく、そのうえ細かく震えていたので、思わずはっとしてその顔を見直した。
震える手で、葛が布包みを開く。
萌黄色の、着物の片袖。否、今やそれは赤というべきほどに、大部分が、まだ乾ききらない血に塗れていた。
「あの、セン様は――」
「失礼します」
葛が引き止めるより早く、少女は頭を下げ、早足でその場を立ち去った。
それでも少女はしばらくの間物陰に佇み、それから間もなく、神社のうちで起こった悲愴な号泣を、暗い顔で聞いていたようだった。
欠けた視界一面に、桜の花が広がっている。
枝垂れ桜の木の下で、青年――センは横になっていた。
荒い呼吸を懸命にしずめようとしている青年は、尋常の状態ではない。
彼は全身に数ヶ所の
まともな人間なら既に死んでいてもおかしくない傷である。神使が持つ神通力のゆえか、それとも生来身体が強いのか、まだ、かろうじてセンには息が通っていた。
(葛の忠告、聞くべきだったな)
つっと、センの口の端から血が糸を引いてこぼれる。
桜屋敷にほど近い橋の上に、それはいた。
かつて血に狂って辻斬りを繰り返し、たまたま行きあった浪人に討たれた男、その霊。
男に討たれた者たちの未練を逆に取り込み、妖怪と成ったモノ。
妖怪の怨念と未練は強く、センは片目と片腕を犠牲に妖怪を討ちはしたが、その代償は大きかった。
それでも、葛を連れて来るわけにはいかなかった。月葉が留守の間、感情的にならず、冷静に他の神使に指示を出せるのは葛しかいない。
それに、月葉を待つわけにもいかなかった。
妖怪が現れた場所は、桜屋敷のすぐ近く。万が一、そこに住む人々――特に“彼女”――に危害が加えられるようなことがあれば、と、思うだけで耐えられなかった。
だから今の結果は――完全に、自分の責任だ。
「セン様!」
駆けてくる足音。
やっとのことで顔を少しだけ傾けたセンの目に、駆けてくる少女が映る。
「ひ、な」
「セン様、い、いったい、何が……すぐに人を呼んで、医者を――」
「いや」
微笑して小さく首をふったセンの顔には、はっきりと死相が浮いていた。それでもその顔つきは穏やかで、彼がもう幽冥に導かれようとしていることは明らかだった。
「このまま、ここで」
ひなと呼ばれた少女が膝をつき、桜を描き出した着物が血で汚れるのもかまわずに、そっとセンの頭を膝に乗せた。
ふ、とセンが息を吐き、目を閉じる。動かなくなったその身体から、少しずつ温もりが消えていく。
微笑の浮いた顔は穏やかで、怪我の苦痛にさいなまれた様子はなかった。
幽界に旅立ったセンの、白い頬にぽたりと紅涙が落ちる。
「セン様」
とめどなく涙をこぼしながら、少女は言葉を続ける。
「私が――私が守ります。守ってみせます。あなたのかわりに、あなたのように」
曇った空から、大粒の雨が落ちてきた。
○
「戻りました」
「おかえりなさい。その様子では、今日も収穫なし、でしたか」
桜の木と、そこに集まる妖怪、そして〔桜の神〕について、仕事の合間を縫って調べている樂を、卯月が出迎える。
「収穫なし、です。あの屋敷、昔――地主が買い取る前は侍の屋敷だったそうですが、わかったのはそれくらいで。別に、だからといって妖怪が集まる理由にはならないですよね。そもそも屋敷、もう残ってないわけですし」
肩をすくめる樂に、そうですね、と卯月も相槌をうつ。
「……あ、そういえば、月葉様が前に、ここの神使もセンと仲が良かったと言ってましたよね。その神使から、話、聞けないですか?」
ふと、樂が思い出したように言った言葉に、卯月が奇妙な微笑を浮かべた。悲しげな、不安げな、しかしどこか作り物めいた、笑み。
「ああ、その神使なら――」
ふわりと、風もないのに卯月の髪が揺れる。
金の目に、樂の姿が映る。
「――もう、存在しませんよ」
感情のこもらない、平坦な声と、仮面のような無表情の
ちり、と、樂の脳裏で何かが疼く。
「……申しわけ、ありません」
逆鱗に触れたかと青ざめ、震える声をしぼり出して平伏した樂に、卯月が首をかしげる。
先の一瞬は白昼夢か何かか。そこにいたのは普段どおりの卯月だった。
「どうしました?」
「え、いえ、あの――」
聞いていいものかと、樂が口ごもる。
「何か聞きたいことがあるなら、私が聞きますよ。……センのこと、でしたか。確かに私の神使と交流はあったのですけれど、丙や庚ほど親しかったわけではないので、何か聞くなら、月葉様以外ならあの二人のほうがいいでしょうね。ところで、顔が青いですよ。少し休んできたらどうですか。桜のことは別に、急を要することではないのですし」
「……そうします。失礼します」
樂が下がってまもなく、ふらりと月葉がやってきた。
「やあ、変わりはないかい」
「ないですね。ところでまたお忍びですか?」
「いやいや、ちょっと君に用があってね」
「何でしょうか?」
「樂が言っていた〔桜の神〕、人が知っていて僕らが知らない、というのはちょっと腑に落ちなくてね。さっき千草のところに行って聞いてみたのだけれど、神が居るというのに僕らが知らないというのは、普通はありえないだろう、と言われたよ。それに……センの生死が知れないのも不審ではあるし、君なら何か別の考えもあるかと思ってね。あと、あのときの妖怪、死んでいると思うかい?」
「妖怪についてはなんとも。私の神使が駆けつけたときには影も形もありませんでしたので、退治されたか、逃げ隠れたかはわかりません。〔桜の神〕については……多くの人に知られる神ではなかったのではありませんか。町全体が知る神ならば、私たちの耳にも入るでしょうけれど、それが例えば、一家族のような、小さな集団の中での話なら、私たちが知らないのも無理はないことでしょう。あるいは、〔神〕と言いつつ、その話を隠れ蓑としているモノなら、知らなくともおかしなことではないかと」
「神を騙っている、ということかな」
「結果的には。とはいえ悪心からではないでしょう。事実、あの木は守られているのですし。空襲で燃えていても、おかしくなかったわけですから、あの木は。センの生死は……わからない、というのがよくわかりません」
「そこについては説明が難しいんだよねえ。縁がつながっている感覚はある。ただ、その先がね、『違う』。僕の知っているセンじゃない」
話を聞き、卯月は眉根を寄せた。
しばらく黙って、じっと考えこむ。
「名……いえ、名とその対象がずれている?」
「何か心当たりが?」
「昔、人柱に選ばれたある子供のかわりに、その子供の兄が人柱に名乗り出ました。兄は人柱の儀式の前に、自分こそが弟なのだと、そう言って入れ替わったのです。……結果として、儀式は失敗しかけました。弟を示す名を兄が名乗る、そのずれで」
「失敗しかけた?」
「ええ、結局弟が、自分が人柱だと現れたので、どうにかおさまりました。……名とは認識。そのものの有り様を最も端的に表すもの。もし名がないものがあれば、それは存在しないも同じ。――この神社に神使はいますが、『私の神使』が存在しないのもまた同じ。そして名と、それが表すものがずれていれば、対象は正しく認識できない、はず。ただ――仮に何者かがセンの名を騙っているとしても、主であり神である貴方をこれほどの間欺きとおすことなど普通は不可能。何か、理由があるのは間違いないでしょうね」
「ふむ――もう少し調べてみるよ、ありがとう」
何か思いついたらしい月葉が立ちあがる。立ち去りかけて、そうだ、と彼は足を止めた。
「そういえば――もう、彼に決めたのかい」
「月葉様のおかげで、力量は申し分ないのですが、まだ脆いですね。いずれ乗り越えられれば、状況も変わるのでしょうけれど。……決めなくていいのが一番なのかもしれませんが」
「そうも……いかないんだろう?」
「ええ、『卯月』が在るかぎりは」
ふ、と、卯月は口元に、作り物めいた笑みを浮かべた。
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