第11話 百鬼夜行 禍津神 前(一)

 その夜は、暗夜だった。


 宮杜町にある公園。

 風もないというのに、ブランコが甲高い軋みをあげて大きく揺れる。

 視える者がそこにいれば、気付いたことだろう。

 空間が大きく裂け、そこからどろりとしたものが流れ出てきたことに。

 流れ出てきたモノは、ゆっくりと人の姿をとりはじめる。

 やがて人の――織部の姿になったそれは、にたり、と唇を歪ませた。

「やっと、戻れたか」

 変わったものだ。

 あたりを見回して、織部が呟く。

 見通しのいい場所に独り佇む彼を狙って、妖が近付く。

 思い思いに攻撃を加えようとしたとたん。

「襲え」

 ざわり、と空気が揺れる。

 吹きすさぶ風が木々を揺すぶり、葉ずれの音を響かせる。

「妖たち、人を襲え。神使を襲え。魂を奪え」

 朗々した宣告。

 その後に、哄笑が続いた。


 不意に街の中に立ちのぼり、ふ、と消え失せた異様な気配を感じ取り、ある祭神は白いおもてを凍りつかせ、ある祭神は普段の柔和な笑みを消し去り、ある祭神は――微笑した。

「向かう手間が省けましたね」

 独り、自室でそうごちて、祭神・卯月は神社を出た。



 しばらくして、五宮神社にいた神使たちは、何の先触れもなく、誰一人神使も連れずに訪れた卯月に面食らうことになった。

「どうしたんだい?」

 神使からの報せを受けて、朱華が駆けつける。

「遅くに失礼いたします。千草様はいらっしゃいますか?」

「いるよ。用があるんなら呼んでこようか?」

「お願いします」

 まもなくやってきた千草も、卯月の姿を認めて目を丸くした。

 それこそ会合でもなければ、今の卯月が五宮神社に来ることはまずないのである。

「何の用ですか?」

「織部様について、お話したいことがあります」

 それを聞いて、千草がたちまち厳しい顔になり、本殿の一室へ卯月を招き入れた。

「織部様との約束もございますので、何もかもお話しするというわけにはいきませんが――」

 卯月がぽつぽつと話しはじめる。

 その話を聞くうちに、千種の顔が徐々に青ざめる。

「それで、ご相談なのですが――」

 相談の内容を聞いて、千草が眉を寄せる。

「……それ、うまくいきますか?」

「十中八九、看破されるでしょうね」

「なら、意味がないでしょうに」

「いえ、意味はありますよ。一瞬は、こちらに注意が向くでしょう。それにこういうことなら、私のほうが適任でしょうから」

 卯月の、氷を含んだ微笑を見て、千草は背筋が寒くなった。

「……なぜ、笑えるのですか。こんなときに」

 つい、口からこぼれた言葉を拾って、卯月が口元に手を当てる。

「ああ、すみません。笑って、いましたか」

「……地が出てきていませんか」

「そうかもしれませんね。状況が状況ですし、私の神使が何人か、襲われていますから」

 言いながら、何気ない仕草で卯月が髪紐を解く。

「卯月、何を……」

「抑えておく余裕はなさそうですから。それに正直なところ、腹も立っていますし」

「大丈夫、なのですか?」

「はじめから解いておいたほうが、自制はききますよ。……たぶん」

 そのとき、鳥居のあたりで一瞬、異様な気配が生じた。

「では、千草様、手はずどおりに」

 そうささやいて、卯月は外に出ていった。



 丑三つ時。

 月葉神社の自室で目を閉じて正座し、瞑想にふけっていた月葉は、不意にぱっと目を開いて立ちあがった。

「月葉様!」

 青い顔で駆けつけてきた神使に、今行くよ、と答え、刀を手に外へ出る。

 鳥居の傍では幾人かの神使が、何者かを遠巻きにしていた。

 月葉が現れるなり、人垣が左右に割れる。

 その奥に、小さな影。

 神使を遠ざけ、進み出た月葉の目が、すっと細まった。

「やあ、玄斗くろと。久しいね。また顔を見られて嬉しいよ」

 言葉だけなら親しげだが、玄斗を見る月葉の顔つきも言葉も、親しさとはほど遠い。

 一陣の風が吹く。

 毒がしみこみ、黒ずんだ刃を、玄斗が月葉に向ける。

「そこまで堕ちたか」

 ぼろぼろの装束。胸元が切り裂かれ、右肩や腹部には海老茶色の染みが広がっている。

 全身に瘴気をまとわりつかせたその姿からは、かつての臆病な神使の面影は見てとれなかった。

 耳まで裂けた玄斗の口が、緩やかに弧を描く。

「僕も嬉しいよ。ねえ、ここの神使の何人が死ンだら、あンたは悲しむのかな? 試してみようか?」

「死なせないよ」

 玄斗がせせら笑う。

「まだそンな甘いこと言ってンの?」

 嗤いながら、玄斗が強く地を蹴って月葉に肉薄する。

 さっと刀を抜き放った月葉が、玄斗の持つ刃を弾きあげた。

 幾度も刃を突き入れようとする玄斗を、月葉はその場から動くことなくさばき続ける。

 苛立った様子で、きりりと歯噛みをした玄斗が後退り、月葉に毒刃の先を向ける。

 月葉は一度刀を収め、鼻にしわを寄せ、冷え切った目で玄斗を睨み据えた。

 茶色い髪が逆立つ。

 遠巻きに見ていた神使たちは、不意に下がった気温に思わず身を震わせた。

 玄斗の姿がかき消すように消えた――と思われたとき、銀の光がひらめいた。

 再び刀が収まる音。

 玄斗が刃を突き出した姿勢のまま硬直する。

「え……」

 信じられないと言いたげな顔で、玄斗は月葉の足元にくずおれた。

 その身体には、肩から腹にかけて、深々と刀痕が刻まれていた。

「つきは、さま……」

 ざらざらと身体が崩れていくなか、玄斗が目をうるませて手を伸ばす。

 その顔は、かつての玄斗と同じものではあったが。

「たす、け――」


 月葉は、その手を取らなかった。

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