第10話 百鬼夜行 花の報せ
大粒の雨が、本殿の屋根を打つ。
(また、降ってきましたか)
激しい雨音に、自室で本を読んでいた卯月は、手元から丸窓へと視線を動かした。
窓の外は暗い。
(……ずいぶん、遅いですね)
雨の止み間に、月葉神社へ葛を送っていった樂が、まだ戻ってこない。いつもなら、もう戻ってきてもいいころだというのに。
樂の性格を考えても、用が終わればまっすぐ戻ってくるはずだ。
(こんな天気ですし、最近物騒ですから、月葉様が引き止めているのでしょうか。それならそれで連絡がありそうなものですけれど……。浅慮でしたね。せめて何か、連絡できるものを持たせておくべきでした)
ほぞを噛んだとき、
「卯月、いるかい」
外から月葉の声が聞こえた。
「月葉様。どうなさいました?」
雨の中やってきた月葉は、いつもと同じ、柔和な笑みを浮かべてはいたが、その笑みは心なしか引きつって見えた。
「葛はまだいるかい?」
「いいえ、雨が止んですぐに、樂が神社まで送っていきましたけれど……とにかく、お上がりください」
さっと周囲に視線を走らせる。
神使はそのほとんどが妖怪退治や情報収集のために出払っているため、見える範囲には姿がない。
卯月の私室に入るなり、月葉の顔から笑みが消えた。
「樂は戻っているかな」
「……いいえ。葛を送っていったきり、まだ戻らないんですよ。樂のことですから、どこかで遊んでいるとも思えませんし、月葉神社にもいないのですよね」
「うん、雨が止んですぐにここを出たんなら、とっくに帰ってきてもおかしくないはずなんだけどね。だから途中で何かあったかと思って道を辿ってきたんだけど、ここにもいないのか」
「……襲われた、と考えるべきですよね」
「あまり、考えたくはないけれどね。……もしかしたら入れ違いになったのかもしれないし、まだ襲われたと決まったわけじゃないし」
口ではそう言いながらも、月葉がそれを信じていないことは、火を見るより明らかだった。
「私も心当たりを探してみましょうか」
卯月と月葉が外に出たとき、少女が一人、鳥居をくぐって歩いてくるのが目に入った。
白い肌、白いおかっぱ頭、そして白い着物の少女である。
少女は二柱の前まで歩いてくると、黙ったまま深々と頭を下げた。
「何用ですか」
問うた卯月に、少女は懐から一通の手紙を取り出し、卯月に向けて差し出した。
「開けてよいのですか?」
少女がこくりとうなずく。
手紙には丁寧な字で、樂と葛を保護していること、樂が怪我をしているため、もうしばらく預からせてほしいこと、樂の怪我は重いが、命に別状はないこと、葛に怪我はなく、無事であることがつづられていた。
手紙を読んで、卯月がその表情を和らげる。
「わかりました。伝えてくださってありがとうございます」
少女がもう一度頭を下げ、踵を返す。
その姿が見えなくなってから、月葉がほっと息を吐いた。
「あれは……式神、かな」
「そのようですね」
「この手紙、罠だと思うかい?」
「それはないでしょう。二人の状態を知らせているだけですから。仮に二人を人質にとっていたとして、それなら何か要求のひとつでも書いてくるでしょう」
「それもそうか。……何か聞かれたら、葛は情報収集に出ていると言っておくよ。樂にも手伝ってもらってるってね」
「はい、私のほうでも、そう言っておきます」
何かあったらすぐに知らせるよ、と言って、月葉は自分の神社へと戻っていった。
翌日の夕方、神使たちからの報告をまとめていた卯月のもとを、月葉と丙と庚をつれた千草が訪れた。
「どうなさいました?」
「君にちょっと聞きたいことがあってね」
「何でしょうか」
きょとんとしつつ、彼らを部屋に招く。
「早速ですが、こんな光景を知りませんか」
千草が、昨日自分が視た光景を語る。そのあとで月葉も、自分も似たようなものを視た、と自身の経験を語った。
卯月は黙ってそれを聞いていた。聞き終わってからもしばらく、彼女は黙ったままだった。こういうときの卯月は急かしても無駄だと、月葉も千草もよく知っていた。
「……“花の宮”ですね。“揺籃の花”が咲く場所です」
ため息とともに、卯月が言葉を落とす。
「その、“揺籃の花”というのは?」
「千草様、ご存知なかったのですか?」
意外だといいたげに、卯月が目をまたたく。
「人の魂を食らう、ということは知っています」
「……それは、どなたからお聞きになったのです?」
「朱華様からですが」
「ああ……。月葉様は何かご存知ですか?」
「名前くらいだね」
「そうですか。“揺籃の花”は、
「では、今回の件とは無関係、なのですか?」
「……何とも言えません。お二方が視た光景は、“花の宮”で間違いはなさそうですし、影もおそらく“花の宮”の“番人”のようなのですが、どう関わっているのか見当がつかないので」
「その、“番人”とは?」
「文字通りの番人です。花の成長を見守るモノですよ。……本来
そのとき、拝殿のあたりから、なにやら騒がしい声が起こった。
部屋の外で何事かと顔を見合わせていた丙と庚の間をすり抜け、卯月が騒ぎのほうへ向かう。
拝殿の前では、街から戻ってきた神使が、何かを取り巻いていた。
「静かになさい。いったい何の騒ぎですか」
決して声をはりあげたわけではなかったが、卯月の発したその一言で、騒ぎはぴたりと鎮まった。
「卯月様、あそこに……」
神使が指差すほうへ目をやる。
影法師が、立っていた。
「あれは……」
後ろで千草が息を呑む。
「“番人”が、何の用です」
声をかけたとたん、風景は一変した。
無彩色の風景でもわかる、池に囲まれた“花の宮”。
庭に咲きこぼれる釣鐘形の花。その多くは、淡い光をその中に宿らせている。
それが全て魂であると、卯月はひと目見て悟った。
ふりかえると、ひときわ大きな“花”があった。
庭に咲く全ての花の親株。固く閉じられた蕾は開く気配がないが、その根元は肥大していた。茎には棘の付いたつるが絡み、葉先も卯月の記憶にあるものより尖っている。
ざ、と風が吹いた。
風に乗って、かすかに笑い声が耳に届く。
声のほうへ顔を向ける。
束帯姿の男。その隣に、もう一人。
黒い頭巾で顔を隠した、
――再びその顔を見ようとはな、祟り神。あのときの遺恨、今度こそ晴らそうぞ。
そう言ったのは、どうやら小柄な影のほうであるらしかった。
卯月の唇が、ゆっくりと持ち上がる。
「おや、討ったと思っていたのですがね。いいでしょう、そちらがそのつもりなら――」
今度こそ、討ち滅ぼしましょうか。
卯月の髪紐が、爆ぜてちぎれとぶ。
はらりと黒髪が広がった。
神使がざわめく。
それまで無表情に影を見つめていた卯月は、ぞっとする冷笑を浮かべていた。
「卯月……?」
顔面蒼白の千草が、震える声で呼びかける。
「言伝は受け取りました。下がりなさい」
影――“番人”が一度揺らぎ、すっと消える。
「卯月!」
「聞こえていますよ」
青ざめる千草と月葉に注意をはらうことも、神使に何か言うこともなく、卯月は本殿へ戻っていく。
「えっと、用がないなら休んでいいよ。卯月はこっちで落ち着かせておくから」
月葉がそう言い置いて、卯月と千草の後を追う。
「卯月、落ち着きなさい。いったいどうしたって言うんですか」
「落ち着いていますよ」
「とてもそうは見えないけどね」
今にも神社を飛び出していきそうな卯月の肩を、追いついた月葉が押さえる。
「はやっているようにしか見えないよ。それで動いて、上手くいくと思うかい。それに、君に何かあったらここの神使はどうなる?」
じわりと月葉の手に力がこもる。掴まれている肩が、鈍く痛んだ。
「それとも……“また”繰り返すつもりかい」
繰り返す。
過去と同じ過ちを。
護るべき者たちを、屠る愚を。
禍津神として在り、災厄をつかさどるはずの神が、
内で荒れていたものが、すっと鎮まる。
「いいえ」
卯月のまとう空気が変わったことに気付き、千草は卯月と月葉を見比べた。
「何かしたんですか?」
月葉にこっそりささやくと、何もしていないよ、と彼は微笑した。
その後、卯月から自分の視た光景を聞かされて、月葉は難しい顔になり、千草は表情を凍りつかせた。
「織部様……」
「でしたね」
「もう一人、小さな影、というのは?」
「姿は見覚えのないものでしたが、おそらく期波だと思います。少なくとも、声はそうでした。……樂がいなくてよかったですよ。あの子を不安にさせたくないですからね。しかし織部様も期波も、討ったと思っていたのですけれどね」
「期波は……確か樂を狙っていたんだっけ? でも織部は何をしたんだい?」
「ええ。期波は幽世の妖で、樂の父親を苦しませるために、樂の命を狙ったのです。まあ、結果として私が討ったのですが。織部様は……」
卯月が珍しく言いよどみ、渋面を作る。
「話してください。織部様は何をされたのです。なぜ、神社を去られたのです。なぜ、あの方は……!」
「……いいえ。話すことはできません」
「なぜです!」
「約束しましたので」
「それなら、“花の宮”、でしたか。そこへはどのように行けばいいのですか?」
「直接行かれるおつもりですか?」
「あなたが話さないのなら、私が直接聞きに行きます!」
大量の苦虫を噛み潰したような顔で、卯月が千草を見据える。
「傷つくことに、なりますよ」
ぎらりと金の瞳が光る。
一瞬、卯月と千草の視線が火花を散らした。
「かまいませんとも」
「まあ落ち着いて。今日明日とはいかないだろうから、離れても大丈夫なように、準備をしておこうよ。特に僕や卯月は、神社を空けることになるからさ」
卯月が諦めたようにため息を吐く。
その後、髪を結い直した卯月が二柱を見送りに出たときには、外はすっかり暗くなっていた。
「あら? こんな時間に……?」
石段を登る足音を聞きつけ、卯月が小首をかしげる。
間もなく鳥居をくぐった人影をまのあたりにして、千草が喉の奥で小さな声を立て、卯月も思わず口元に手を当てた。
月葉が二柱を庇うように一歩前に出る。
月明かりと、その周りで漂う鬼火に、総髪の男の姿が照らし出される。
男――磯崎は三柱を見てつかのま足を止め、差していた脇差を外して足元に置くと、ややぎこちなくその場に額づいた。
「お立ちなさいな。何の用です?」
「はい、卯月神社の御祭神に、御使の方より言伝を預かりました」
「樂から、ですか? 何と言っていたのです?」
「期波が動いている、そのことを伝えてほしい、と言付かりました」
「はい、確かに聞きました。樂には、何も案じる必要はない、と伝えてもらえますか」
承知しました、と磯崎はうなずき、月葉に向き直って、懐に入れていた手紙を手渡した。
「読んでいいかな」
「はい」
しばらく黙って手紙を読み、
「……なるほどね。葛には、もうしばらくそっちにいるように伝えてくれるかい。樂を一人で残すわけにもいかないだろうし」
「はい、必ず」
「ところであなた、その首は……いえ、首ばかりではありませんが、何というか、大丈夫なのですか?」
声も出ない様子の千草を見やり、卯月がためらいがちに訊ねる。
磯崎は、困ったように微笑した。
「見えていらっしゃるのですね。問題はありませんが、見苦しいものをお見せしてしまい、申しわけありません」
失礼いたします、と磯崎が深く頭を下げて立ち去る。
その姿が見えなくなってから、
「あれは……」
千草がようやくかすれた声を出した。丙と庚が、怪訝そうに千草を見上げる。
「妖ですね。ああいうモノもいるのですよ。ところで月葉様、葛は何か言っていましたか?」
「うん、これまでの状況と、他にもいくつか。今、時間はあるかな」
卯月の部屋に戻り、月葉が手紙を卯月に渡す。
促され、目を通した卯月と横からのぞきこんでいた千草の顔が険しくなる。
葛からの手紙には、人を襲う妖は、何者かに魂を奪う力を与えられていること、彼らが従っているのは、期波という妖であるらしいこと、そして、かつて月葉神社の神使であった玄斗が、今や妖となって人間を襲っていることが書かれていた。
「玄斗……兎の神使、でしたか?」
「うん、今年の夏ごろだったかな、どうしても妖を受け入れられないっていなくなった子だよ。……まさか、妖になっているとはね。卯月、千草も、神使に伝えてくれるかい。もし玄斗を見かけたら、交戦せずに僕に知らせること。どうも、毒を使うみたいだからね、下手に戦うのは危ない」
「それだけ、ですか?」
まだ何か、言葉を待つような卯月に、月葉はそうだよ、とうなずいた。
「僕は先代とは違うよ。離れたとはいえ、玄斗はもともと僕の神使だ。自分のところの神使の始末を、君に押し付けるような真似はしないよ」
「何も今更、手が汚れることを厭いはしませんよ」
「そうだとしても、僕が嫌なんだ」
「……わかりました」
呟くようにそう答え、改めて、卯月は二柱を見送った。
温い風に、花が揺れる。
幽世の“花の宮”。その庭で、織部は、傍らの期波を見かえった。
「だいぶ力が溜まったな。これだけあれば、こちらから扉を開いて、現世に至ることができる」
「では、今度こそ――?」
「そうだ。花を取りこみ、その力をもって現世に向かい、まずは――」
にたり、と織部が笑う。
「そのためには、贄が要る。お前、贄となってくれるか」
「は――」
期波が訝しげに言いかけたとき、織部の右半身がどろりと崩れた。
そのまま、黒い泥のようなものが、期波を包みこむ。
あげかけた叫びさえ途中で阻まれ、期波の姿は泥の中へと消えていった。
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