第9話 百鬼夜行 揺籃の花(三)

 ゆっくりと目を開く。

 黒ずんで見える、年季の入った天井板がまず目に入った。

 頭を動かす。

 鷹を描いた掛け物が下がる床の間。違い棚と天袋、地袋。

 地袋の前で、葛が座っているのが見えた。

「具合はどうですか?」

「……俺、また、稽古で倒れた?」

 葛がきょとんと目をしばたたく。

「ここ、月葉神社じゃないですよ」

「え?」

 言われてもう一度、頭をめぐらせる。

 どこかの座敷で、樂は布団に寝かされていた。

 確かに月葉神社の一室にしては、部屋に見覚えはない。

 月葉神社なら、外から犬や猫の鳴き声や参拝者が鳴らす鈴の音、柏手が聞こえてくるはずだったが、今はなにも聞こえてこない。

「あなた、大怪我したんですよ。玄斗に襲われて。覚えてないんですか?」

「玄斗……ああ、うん、思い出した」

 目が覚めてくるにつれて、頭もはっきりしてくる。

 玄斗のことと、彼の言葉を思い出し、勢いよく上体を起こそうとした樂は、身体に走った激痛に呻いて息を詰まらせた。

「まだ動いてはいけませんよ! 傷だってふさがってないんですから!」

 葛に叱られ、樂は再び布団に横になった。

 はあ、と葛が大きく息を吐く。

「心配したんですからね。卯月様になんて言えばいいのか、とか考えて……!」

「ごめん……」

「……でも、助かってよかったですよ。本当に」

 葛の声に、安堵が混じる。

「ここは?」

呪屋まじないや、という店だそうですよ」

「店?」

「ええ。それにしても、さっきは昔の夢でも見てたんですか?」

「そう、だったかもしれない」

 まだ神使となって間もないころ、樂は月葉から刀の扱い方を習っていた。

 日ごろ穏やかな月葉ではあるが、刀の扱いに関しては、かなり厳しかった。声を荒らげることはなく、苛酷と言うほどではなかったが、とにかくほとんど容赦をしなかった。

 樂も当時は今より無理を重ねることが多かったため、結果として稽古の間に倒れては、葛に介抱されることがよくあった。

 床の軋む音が近付く。

 入るぞ、と聞こえ、さらりと障子が開いた。

「起きてたのか」

 総髪に結った、濃紺の着流し姿の男が顔を見せる。

 周囲を漂う鬼火に気付き、反射的に身を起こしかけた樂を、葛が慌てて止めた。

「驚くのは無理もないが、とりあえず落ち着け。別にこっちは敵対する気はないさ。三途の川を半分渡ってたんだ、まだ動かないほうがいい。色々と聞きたいことはあるんだろうが、もうしばらく休んでろよ」

 障子が閉まる。

 いくらか気が緩んだのか、再び睡魔が忍び寄る。

 樂はそのまま目を閉じ、睡魔に身を任せることにした。


 次に樂が目を覚ましたとき、部屋の中には茜色の光が差しこんでいた。

 枕頭には、先と同じように葛が座っている。

 廊下から、軽い足音が近付くのが聞こえてきた。

 足音は、間もなく部屋の前で止まる。

「入っても宜しいですか?」

 はい、と葛が応えると、おかっぱ頭の少女が顔を出した。黒目がちの、日本人形のような童女である。

「御目覚めで御座いましたか。何か召し上がるものを御持ち致しますね。神社のほうにはご連絡しておりますので、ごゆっくり御休み下さい」

 樂が何か言う前に、童女は頭を下げて去っていく。

 男と同様、人ではないようだとは感じたが、少なくとも敵意は感じなかった。

 しばらくして、童女が雑炊の入った椀を二つ、盆に乗せて部屋を訪れた。

 その後から、着流しの男も入ってくる。

 男の手を借りて、樂はそろそろと上体を起こした。

 ゆっくりと動いたからか、軽い目眩はしたものの、痛みは思っていたよりも弱い。

「食べられそうか?」

「なんとか」

 卵と鶏肉が入った雑炊は、程よく冷まされている。

 柔らかくなった鶏肉は、口に入れるとほろりと崩れる。

 食事を終えたところで、葛が切り出した。

「そろそろ聞いてもいいですか。あなたたち、何者なんです? いえ、助けていただいたことには、もちろん感謝していますけれど……」

「私は彩雅さいがと申します。この〔呪屋〕の店主で御座います」

「呪屋?」

「はい。まじないに使う品々を商っております」

「呪物、ということですか?」

「そうしたものも御座います」

磯崎いそざきだ。普段は山で暮らしてるんだが、その店主に頼まれてな。一時的にだが、ここで用心棒をしている」

「一時的に?」

「ああ。最近何かと物騒だろ。一応この店には、害意を持った奴は入れないように結界は張ってあるらしいが、念のために来てくれないか、というのと、この店主が物好きでな。何が目的で人を襲うのか確かめたいから手を貸してほしいと頼まれたのさ。警戒する気持ちはわかるが、俺も彩雅も、お天道様に顔向けできないような真似をしたことは一度もないよ。まあ、今すぐ信じろというのも難しいだろうが」

 磯崎が微苦笑を浮かべる。

「ところで……玄斗くろとは、あれからどうなった?」

 横になった樂が訊ねる。

「あのあとすぐに逃げられたよ。俺が切ったが、浅手だったから致命傷にはなってないだろうな。もっとも、俺が切るより前にかなり深手を負ってたから、今生きていたとしても当分はまともに動けんだろうよ」

「しかし、玄斗のことは知らせておかなければいけませんね」

 いくぶん、葛の声が沈んでいる。

「そういえば、毒は……」

「既に中和されているはずで御座いますよ」

 彩雅がにこりと笑う。

「それで、何かわかったことはあるのですか?」

 軽く頭をふって、葛がどうにか声の調子を戻して問いかける。

「はい、推測では御座いますが、幽世かくりよに咲く”揺籃ようらんの花”が関わっているのではないかと思います」

「"揺籃の花”?」

「幽世に咲く花で、人の夢を養分にして咲く花だそうで御座います。その蜜には毒を中和する効果が御座いますので、そちらの方にも使わせていただきました」

 あの甘さはそれだったのかと、樂はひそかに得心した。

「その根拠は、何かあるのですか?」

 こちらです、と、彩雅が懐から小瓶を出した。中には黄金色の液体が半分ほど入っている。

 彩雅が蓋をとると、かすかな甘い香りが鼻孔をくすぐった。

 葛がさっと顔色を変える。

「同じ香りだと思われます。ただ、話に聞く限り、”揺籃の花”が人の魂を取るなど、これまでなかった話で御座いますが」

「花は花だからな。急に好みが変わるわけもなかろうし。それともうひとつ、気になっていることがある。人を襲っている妖のほうだが、本来魂を奪うような力を持たないはずの、ごく弱い妖までもが、人間の魂を奪っている。つまり、何者かが意図的にその力を与えた可能性が高い」

「……玄斗もそんなことを言っていましたね。期波きなみがどうとか言っていましたっけ」

 樂が小さくうなずく。

 期波の名を聞いたとたんに、その顔から血の色が消え失せていた。

 葛が怪訝そうに樂を見る。

「樂?」

「期波が動いていることは、早く卯月様に報せないと……」

「落ち着け、坊主。今その身体で動いたら、今度こそ死ぬぞ。何か伝えることがあるんだったら、俺が伝えてきてやるよ」

「なら、卯月様に……期波が動いている、と……」

「わかった、必ず伝える。だから傷がふさがるまでは休んでいろ、いいな?」

「私からも、こちらを月葉様に渡していただけますか」

 葛が封をした手紙を、磯崎に手渡す。

「承知した」

 手紙を懐に、磯崎が部屋を出ていった。空の椀を盆に乗せ、彩雅も磯崎に続いて部屋を出ていく。

 それを見届けて、葛の顔がくもった。

「葛?」

「いえ……まさか、玄斗があんなことになるとは思わなくて。月葉神社が合わなかったのは知っていましたけれど、まさか妖になっているなんて。あれだけ妖を怖がっていたのに」

「……どこかで、瘴気を浴びたのかもしれないな」

 穢れを含んだ瘴気を、神使が多量に浴びた場合、その穢れによって妖怪化する場合があることは、二人とも知っていた。

 最も、それほどの瘴気などそうそう発生するものではない。そのため二人とも、実際に妖怪化した神使を見たことはなかった。

「おそらくそうでしょうね」

 答える葛の声は、やはりどこか暗かった。


「それじゃ、神社に行ってくるよ」

 使い慣れた脇差を落し差し、磯崎が外出の準備を整える。

「はい、こちらのことはご心配なく。道中御気をつけくださいませ」

 にっこり笑った彩雅が、火打石を打ち合わせる。

 青白い鬼火で先を照らしながら、磯崎は暗がりの中を歩いていった。

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