第9話 百鬼夜行 揺籃の花(二)

 同じ夜、千草は情報収集のために町に出ていた神使からの報告を受けていた。

「わかりました、ご苦労さまです。今日はもう休みなさい」

「はい、失礼します」

 引き下がる神使を見送って、境内に目を戻した千草はふと眉をひそめた。

 境内に、影があった。

 影法師を薄くして実体化させたような人型のそれは、社務所の前の石畳、千草の目と鼻の先に佇んでいた。

 つい一瞬前まで、そこには何もいなかったはずなのに。

「何者ですか」

 誰何すいかした千草の声が届いたのか、影はその輪郭を少し揺らがせた。

 甘い香りが、湿った空気に混ざる。

(妖……いえ、それにしては……)

 妖気を感じない。というよりも、気配らしい気配がまるで感じられない。

 そう思ったときだった。

 視界が一変する。

(え?)

 色の失せた風景。

 どこかの庭に千草は立っていた。

 庭の周りは水で囲まれ、周囲で咲きこぼれる花々からは、甘い芳香が漂ってくる。

 目の前には、小さな宮殿らしい建物。

 どこかと廊でつながっているというわけでもなく、池か何かの中にある小島に、この建物はぽつんと建っているようだった。

 すぐ目の前、建物の庭に面している部屋に、人影があることに千草は気が付いた。

 衣冠束帯姿の男。

 千草が見ている前で、男がゆっくりとふりかえる。

 少しずつ、その顔が見えてくる。

 白黒の視界でもわかる、白皙はくせきの肌に色の薄い髪と瞳、高い鼻、形の良い唇。

(嘘……)

 呆然と目を見張る千草の前で、こちらに向き直った男が口の端をあげた。

 口は笑みを作っているが、切れ長の目は全く笑っていない。

 じわりと視界に黒い点が染み出す。

 黒い点は徐々に増え、あっというまに視界を埋めつくした。


 ぱん、と、すぐ近くで鳴った音に、千草はびくりと小さく飛びあがった。

「どうしたんだい? ぼんやりして」

 千草の前には朱華はねずが立ち、首をかしげている。その傍には竜胆がおり、千草に気遣わしげな視線を投げていた。

 どうやら先ほどの音は、朱華が手を叩いた音であったらしい。

「ほら、中に入んな。ここじゃ冷えるよ」

 朱華に手を引かれ、本殿の中に入る。

「何があったんだい?」

 いれられたばかりの茶を少しずつ飲みながら、千草はぽつぽつと見たものを語った。ただひとつ、男のことだけは伏せて。

 話を聞いて、朱華と竜胆が顔を見合わせる。

 何か心あたりでもあるのか、竜胆があきらかに顔をくもらせた。

「何か、ご存知なのですか?」

 再び、竜胆と朱華が目を見交わした。

「……“揺籃ようらんの花”」

 いかにも渋々、といった様子で、竜胆が口を開く。

「何ですか、それ」

「私たちも詳しく知っているわけじゃないんだけど、幽世かくりよに咲く花だって聞いてるよ。何でも……人の魂を食らう花、だとか」

「人の、魂を? それじゃもしかして、今回の件、原因はそれなのですか?」

「まだ何とも言えないけど、私としてはそれが原因じゃないかって思ってるよ。ちょうど今年あたり、“花の親”が開花するらしいし、何より人の魂を誘いこんで、養分にするって話だからね」

「それなら、早くなんとかしないと!」

「ちょっと、落ち着きな。怪しいのは怪しいけど、今のところ何にも情報は集まってないんだから、調べてから動かないと返り討ちにあうよ」

「……卯月なら、詳しい」

「ああ、そうだね、うん、花について知りたいんだったら、卯月に聞いてみるといいよ。昔、花関連でひと騒ぎあったとき、おさめたのは卯月だったからさ」

「卯月に、ですか? わかりました」

「ああ、行くなら明るいときに、神使を連れていきなよ」

「はい、失礼します」

 一礼して部屋を出る。

 話をしている間に、雨は先より強くなっていた。

(卯月、ですか……)

 彼女のことは、ある程度知っている。

 先代から、その全てを襲った、と。

 果たしてどういう心持ちでいるのか、千草にはとうてい推し量れない。

 月葉などは比較的感情がわかりやすい――よく顔や仕草に出るのである――が、卯月は感情が読み辛い。

 感情が読み辛いのは、例えば竜胆などもそうなのだが、卯月の場合はまるで、常に裏表があるような、そんな気分にさせられる。

 もっともそれは、卯月ばかりではないというのは理解している。

 もそういうところがあった。

(織部様……)

 男の顔を思い出す。

 織部はかつて五宮神社の祭神だったが、あるとき――千草がまだ幼かったころ――常磐と激しく口論した後にふらりといなくなり、そのまま戻ってこなかった。

 他の祭神は、何か知っているらしい節があったが、千草にそれを伝えることはなかった。

 とにかく明日、卯月神社へ行こうと心に決めて、雨模様の境内を眺める。

 あの影はもう、どこにも見えなかった。


 千草が出ていったあと、竜胆は渋い顔で茶をすすった。

「……やはり、黙っていたほうが良かったんじゃないか。織部のことは、千草には疵になるだろう」

「いつまでも子供扱いするわけにもいかないだろうよ。あの子はずっと真実を知りたがってた。そろそろ知ってもいいじゃないか。それに何があったのか、私たちだってよくは知らないんだし。卯月が知ってるってのは、嘘じゃないんだしさ」

 そういった朱華も、あまり明るい表情ではなかった。

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