第9話 百鬼夜行 揺籃の花(一)
深更に及び、人気のなくなった道で、小さな光が揺れている。
菊を描いた提灯の火である。
それに照らされて闇の中に浮かびあがるのは、十をひとつ、ふたつ超したくらいに思われる童女であった。こちらも菊を描いた朱い振袖が、闇の中に揺れる。
暗闇に怖じる素振りもなく、下駄を鳴らして歩く童女の後ろを、やや離れたところから見え隠れにつけていく影があった。
濃紺の着流しに脇差を落とし差しにした、背の高い男。その周りを、青白い鬼火がふわふわと飛んでいる。
童女は男に気付いているのかいないのか、からころ、からころ、と下駄を鳴らして先へ進む。
住宅地をひとめぐりした童女は、細い裏路地の奥にひっそりと建つ平屋へ入っていった。
まもなく、刀を持った男もその建物へと入る。
「お疲れ様です」
「そろそろ馬鹿が一匹くらい引っかかるかと思ったんだが、なかなか引っかからないものだな」
「左様で御座いますね。明日から道筋を変えてみましょうか」
童女が持ってきた茶を飲み、男がいや、と首を横にふる。
「道は変えない方がいい。いずれ引っかかる奴は出てくる。それまでの辛抱だ」
しかし、と男が淡い苦笑を浮かべて童女を見やる。
「お前も物好きだな。調べるんなら式神でも使えばいいものを、自分で動くのか」
「いけませんか?」
「いや、驚いただけだ。あまり積極的に動くような
「確かにそうで御座いますけれども、此度のことは、程度が違っておりましょう?」
「まあ、な。相当危険な奴も動き出しているようだし、早いところ見つけて始末をしなけりゃまずいことになるぞ」
険しい顔で、男は湯呑に残った茶を飲み干した。
細かい雨が、しとしとと降っている。
一向に止む気配を見せずにそぼ降る雨を気にすることもなく、卯月神社の境内では、二人の神使が対峙している。
樂と葛。
愛用の得物――日本刀と矛をかまえ、互いの呼吸をはかる。
あたりには、ぴんとはりつめた空気が漂っている。
樂が一息に間合いを詰め、刃を返した刀で打ちかかる。
矛や槍のような長柄の武器は、懐に入られると不利になる。それを狙った動きだった。
とはいえ、葛もむざむざ懐に入られるような腕ではない。
くるりと手元で矛を回し、石突を樂に向けて突き出した。
胸を勢いよく突かれる寸前で、樂が刀で石突をはらい、大きく後ろへ跳ぶ。
雨水がはねる。
息つく暇もなく、今度は葛が突きかかった。
穂先での攻撃ばかりでなく、石突での突きも織り交ぜているが、樂もそれらを全てさばいている。
本殿から出てきた卯月も、二人の模擬戦を興味深そうに眺めていた。
雨脚が強まる。
踏みこんで穂先で突く、と見せかけ、葛が手の中で柄を滑らせた。
樂の視界から穂先が消え、死角から勢いの乗った石突が迫る。
はっとした樂が、とっさに身体をひねった。ふりぬかれた石突が、樂の鼻先をかすめる。
見ていた卯月が、朱唇に笑みを刻む。
「二人とも、そろそろ切り上げなさいな。雨も強くなってきましたから」
卯月の姿を認め、葛が一瞬毛を逆立てる。
「卯月様」
「冷えてしまいますから、こちらへいらっしゃい」
本殿の縁側で、卯月が二人に温かい茶を出す。
「月葉様にはお変わりありませんか?」
「はい。あ、でもこの前――」
「――影、ですか」
葛の話を聞いて、卯月が小首をかしげる。
「何か、お心あたりが?」
樂が訊ねかけたが、卯月はゆるりと首を横にふった。
「……いえ、今はまだ、何かを言える段階ではありませんね」
「でも、なにか知っていらっしゃるのではありませんか?」
「仮に知っていても、まだ何も言えない、ということですよ、葛」
変わらず笑みを浮かべる卯月。不満げな葛を、樂が目顔で制する。
「あと三十分もすれば雨も止むでしょうから、それから帰りなさいな。樂、月葉神社まで、葛を送っていきなさい」
「はい」
さらさらと衣擦れの音を立てながら、卯月が縁を去る。
「やっぱり、なにかご存知なんじゃ……」
むっと唇を尖らせた葛に、樂が肩をすくめる。
「おっしゃらないと思うよ」
「それはわかっていますけれど、こういう場合なんですから、なにか言ってくださっていいでしょうに」
「言えるようになったら、すぐに話してもらえるよ」
答える樂は落ち着いていた。不満顔で茶をすすりつつ、やがて葛は仕方がない、と言いたげにため息をついた。
卯月の言葉どおり、およそ三十分も経つころには、雨は止んで星がちらほら見えだした。
二人そろって卯月神社を出る。
もともと模擬戦を目的に矛を携えていた葛と同じように、樂も得物としている日本刀を腰に差していた。
妖が人の魂を奪うばかりでなく、神使を排除のために襲う例が増えたためである。
深夜ということもあって、道を歩いている人間はいない。
「そういえば、ひとつ気になっていることがあるのですが」
「うん?」
「魂を抜き取る、という能力は、どの妖でも持っているものではないですよね?」
「だと思う。俺はもちろんそんなことできないし、卯月神社の神使にも、そんなことができるようなやつは……いなかったはずだ」
「ですよね。
それなのになぜ、と葛が言いかけたとき。
「そンなの、力をもらったからに決まってンじゃん」
この場には不釣り合いなほど、底抜けに明るい少年の声が、二人の後ろから聞こえてきた。
ぱっとふりかえった二人の目に、小柄な少年の姿が映る。
一部が白い、黒い髪はあちこちに跳ね、黒い目がぎらついている。
二人を見て、にい、と笑った口は、ざっくりと耳まで裂けていた。
どうにか和服とわかるぼろぼろの装束は、かろうじて袴の浅葱色が見分けられた。
少年を見た樂は赤い目を大きく見張り、葛も、
「
信じられないと言いたげに、小さく息を呑んだ。
「久しぶり、葛様。ああ。樂様も」
耳障りな、金物がこすれるような声。
「もらった、って、一体誰に……。いえ、そもそもあなた――」
「そンなこと、言うだけ時間の無駄だよ」
だって、どっちもこれから死ぬンだものね。
玄斗の右手から、刃が伸びる。
月明かりで見えるその刃は、異様に黒ずんでいた。
樂の背に、ぞくりと冷たいものが走る。
地を蹴った次の瞬間には、玄斗は二人の眼前に迫っていた。
考えている暇などなかった。
とっさに葛の前に出た樂が、肩から胸にかけて、深々と切り下げられた。
同時に、樂の傷口から流れ出た血が、槍を形作って玄斗の腹を貫く。
「妖嫌いが、妖になるとは皮肉だな」
ぜいぜいと荒く息をし、口の端から血を流しながらも、樂が冷ややかに嗤う。
槍が消え、地面に血溜まりが広がる。
「何とでも言えばいいさ。どうせ樂様はもうすぐ死ぬ。これには毒がたっぷり塗ってあるンだもの。……でも、どうしようかな。……ウン、やっぱりこうしよう。樂様、こっち側につけば……
腹を貫かれながらもけろりとして、玄斗が、懐から取り出した小瓶を二人に見せつける。
その右肩に、血溜まりから伸びた棘が突き刺さった。
怒声をあげた玄斗が、手中の刃で樂の左肩を深く抉った。
左肩から背中へ、刃が突き抜ける。
顔を歪めた樂が、苦鳴をあげた。
「樂!?」
「だ、大丈夫……。誰が、期波なんかに……。第一、卯月様を侮辱するような奴の口車になんか、乗るもんか」
「大口叩いたって、本当は怖いくせに。顔、引きつってるよ?」
樂が殺気をこめて玄斗を睨みつける。
「月葉様――いえ、卯月様に報せに――」
「葛様、今動いたら、樂様を殺すよ」
いつしか樂の首筋には、小刀が押しあてられていた。
皮膚が切れ、血がひと筋こぼれ落ちる。
きりりと葛が唇を噛んだ。
「葛様も、そういう顔するンだね」
底意地の悪そうな笑みが、玄斗の
「葛……」
蒼白な顔で、呻くように樂が呟く。
「早く、報せに……。どうせ、こいつは俺を……」
「へえ、まだ喋れるンだ。さすが妖。でもこのあたり、僕の手下がざっと二十は――」
不意に、玄斗の鼻先に青白い鬼火が現れた。
ぎょっとした玄斗が小刀を取り落とす。すかさず葛がそれを蹴り飛ばし、崩れ落ちた樂へ駆け寄った。
「誰だ!?」
「手下ってのは、あの雑魚どもか? 数に頼って他愛もねえ、闇稽古の相手にもならなかったぞ」
呆れた声が近付いてくる。
鬼火はその数を増やし、玄斗をぐるりと取り囲んだ。
怯んだ玄斗が飛びあがったとき、闇を裂いて飛んできた
ぎゃっと悲鳴をあげて、玄斗が路上に転がる。
だっと走りこんできた男が、二人を庇うように立ちはだかった。
黒い髪を総髪に結った、濃紺の着流し姿。時代劇にでも出てきそうな佇まいの男である。
鬼火がふわりと男のもとに戻る。
「何だ、お前は!」
「成れの果てさ」
男の腰間から、光芒が滑り出る。
ぱっと飛び
ぎろりと男を睨みつけ、玄斗がよろめきながら逃げ去った。
「おい、聞こえるか?」
ぐったりと倒れこむ樂の傍にかがみ、男が声をかける。
その呼びかけが聞こえたのか、樂はうっすらと目を開けた。
「よし、いいか、気をしっかり持てよ」
男が慣れた手付きで血止めにかかる。
そこへ、菊を描いた提灯を提げた、振袖姿の少女が歩いてきた。
血塗れで倒れている樂を見て、少女は眉をくもらせる。
「大丈夫ですか?」
「ああ、まだ息はある。店に運ぶぞ」
「
「店が一番近い」
樂を背負った男が、すたすたと歩き出す。
「あ、ちょっと!」
男に続いて歩き出した童女を、葛は慌てて追いかけた。
唇に小さな椀があてがわれたのを、樂はぼんやりと感じた。
半ば眠っているような状態で、少しずつ口に含まされる水を飲みこむ。
(甘い……)
おぼろな頭でそう思ったのを最後に、樂の意識はゆっくりと沈んでいった。
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