第8話 百鬼夜行 深夜の見回り
五時を知らせるサイレンが聞こえてきた。
流れる唱歌『冬景色』の、どこか物悲しい、寂しげな旋律に耳を傾けていた月葉の目の前では、境内で遊んでいた子供たちが、それぞれ帰途につきかける。
「マコちゃん、バイバイ! また明日ね!」
「うん、また明日ね!」
月葉神社の神主・
それを見ながら、月葉は手の空いている神使に子供たちの護衛を頼んだ。
最近、妖に人間が襲われることが増えている。警戒して損はない。
足元にじゃれつく子犬や子猫をかまいつつ、境内の様子を見て歩く。
(変わったところはない、かな)
最も、祭神が居る神社の境内で、何か荒事を起こそうとする妖などいるまい。
さくさくと土を踏んで、敷地内にある大弐の家のほうへ向かう。
屋内からは、かすかに楽しげな談笑が聞こえてくる。
目を細め、ぱたぱたと小さく尻尾をふって、月葉はしばらくそこに佇んでいた。
やがてその場を離れ、ゆっくりと境内を一巡する。
本殿へ戻ってから、
「葛」
呼ぶと間もなく、はい、と神使・葛が顔を出した。
「見回りに行くよ」
「はい」
朱色の袴に矛を持った葛と、薄青い、神職が着るような狩衣姿で刀を負った月葉は、並んで神社を出た。
月葉神社の近隣には、住宅街と学校がある。
部活帰りの学生や、帰りが遅くなった会社員などが、ここ数日、妖に襲われていた。
中学校から住宅街への道をたどる。
部活が終わって帰る途中らしい中学生が、月葉と葛の横を通り過ぎていく。他愛のない雑談をかわしながら。
「それにしても、これくらいの時間のほうが、人が襲われそうですけど……。ちょうど、逢魔が時ですし」
「逆に騒ぎになって、僕らがすぐに動くとでも思ったのかもね。実際、こうして動いているわけだし。そういえば、妖は奪った魂をどこかに運んでいるんだって?」
「そのようです。昨日、このあたりで妖と戦った者が、妖がそんなことを話していたのを聞いたとか」
「それなら上手く後をつけられれば、黒幕もわかるかもしれないね。そしたらそいつを叩けば解決すると思うんだけど」
「そう上手くいくでしょうか」
「難しいかな。僕が今一番心配なのはね、黒幕が運ばれた魂を食っていた、なんてことになりはしないか、ってことなんだよね」
葛が思わず顔をしかめる。
「縁起でもないことを言わないでください」
魂を奪われて昏倒しても、身体が死を迎える前に、魂を身体に戻すことができれば問題はない。
しかし、妖に食われでもして、魂が失われてしまえば――正確には、身体と魂をつなぐ糸が絶ち切られてしまえば――身体はもう、緩やかに死ぬしかない。
しかしこのときの見回りは、主従にとってははずれだった。人が襲われていない、という意味では良かったが、妖怪退治はできていない。
「まあ、仕方がないか。こんな日もあるよ」
こともなげに言いつつ、月葉はわずかに唇を尖らせていた。
神社に戻ってから、ゆっくり休みなよ、と葛に声をかけ、月葉も本殿の自室へ引っこんだ。
しばらくして、
「月葉様」
廊下からの声に、文机に向かっていた月葉は顔を上げた。
「葛、何だい?」
「お茶でも、いかがですか?」
「そうだね。もらおうかな」
いれたばかりの茶を乗せた盆を持って、葛が入ってくる。
どうぞ、と差し出された湯呑を受け取り、熱い茶を口に含む。
「そうだ、ちょっと」
手招かれ、葛は文机に近寄った。
机上には、何か書かれた紙が広げられている。
どうやら、紙は神社周辺の地図らしい。いくつかの場所には印がつけられている。
「人が襲われた場所を書き出してたんだけど、この他にあったかな」
「ええと、そうですね……。あ、ここと、このあたりでも被害があったはずです」
葛が示した場所へ印を書きこみ、月葉が眉を寄せて考えこむ。
「月葉様?」
「うん、なにか規則性でもあればと思ったんだけど……そんなことはなさそうだね」
「そうですね……やはり、人の多い場所で被害が多いということはわかりますけど」
葛も首を傾げたところへ。
「月葉様!」
焦った調子で、別の神使が駆けてくる。
「どうしたのかな?」
落ち着いて訊ねる月葉に、その神使もいくらか平静を取り戻したらしい。
「け、境内に、変なやつが……!」
「変なやつ? 特に何も感じなかったけど……うん、ちょっと見てみようか」
外に出ると、雨が降り出していた。
「あれです」
神使が指差す先を見る。
石畳の上に、影が立っていた。
影法師がそのまま実体化したような――向こうがぼんやり見える程度には薄いが――それは、どうやら月葉のほうに顔を向けているようだった。
(妖……じゃないな)
影に駆け寄って
「月葉様!」
「大丈夫、大丈夫。二人とも、そこにいるんだよ」
にこにこ笑って葛に答え、影に近付く。
「誰かな」
笑みを作って問いかける。
影は小さく、ゆらゆらと揺らいだ。
何か言いたげに見えるが、何も聞こえてこない。
むせかえるような、花のような甘い香りが鼻を刺激する。
視界が一変する。
白黒の風景。
水に囲まれた建物。
その庭を埋め尽くすほど、花が植えられている。
その中に一株、際立って大きなものがあった。
(これは……)
不意に、ぽつりと、視界に黒点が浮く。
その黒は、あっという間に視界一面に広がった。
「月葉様!」
悲鳴のような葛の叫び声に、月葉ははたと我に返った。
気付けば影は消え、代わりに葛が、必死の形相で立っていた。
「どうかしたかな」
「どうかしたかな、じゃありません! さっきからずっと呼んでいたのに返事をされなくて、どれだけ心配したと思ってるんですか!」
「……ああ、うん、ごめん」
「御祭神に何かあったら、ここがどうなるとお思いなんですか!」
毛を逆立てて怒る葛に謝り、ようやく葛も怒りをおさめる。
「葛、もう一回、見回りに行こうか」
「……わかりました。でも月葉様――」
「わかってる。無茶はしないよ」
疑わしげな目を向けたものの、葛はひとつうなずいた。
雨の中、神社を出る。
雨は強まっていたが、どちらもそれを気にする様子はない。
「妖怪退治には、ちょうどいいかもしれないね。雨や曇りのときには、妖怪が出やすいとも言うし」
「そうですね」
先の見回りの道筋を、今度は逆にたどる。
夜も遅くなり、人通りもだいぶ減っている。
ときおり、会社帰りらしい人間をちらほら見かけるくらいだ。
二度目の見回りも何もなく、神社の近くまで戻ってきたときだった。
不意に、悲鳴が聞こえた。
一瞬顔を見合わせ、まず月葉が、続いて葛が夜道を駆け出した。
細い路地の奥、薄暗がりに複数の影がある。
人型の影がひとつ。それを囲んで、子鬼や獣の影が複数、それに子供のような影。
「退きなさい!」
月葉の前に走り出た葛が、手にした矛で子鬼と獣を一匹薙ぎはらう。
「あ……」
人影――若い女が顔を上げる。
すがるように葛を見る、その視線に、月葉はどこか違和感を覚えた。
(確か、葛は――)
さっと、月葉の背筋に冷たいものが走る。
「葛! 下がれ!」
月葉が叫んだのと、大きく飛び
「葛っ!」
「だ、大丈夫です」
葛の胸元は浅く裂け、肌の上には点々と、紅い雫が浮いていた。
「葛、神社に戻って。早く」
有無を言わせぬ月葉に、葛が黙って踵を返す。
その足音が遠ざかるのを聞きながら、月葉は背に負った刀をすらりと引き抜いた。
鼻にしわを寄せ、月葉はそこに居並ぶ妖怪を順に睨みつける。
その顔に、いつもの柔和な笑みはない。
「この先には行かせないよ」
ふわりと、ごくかすかに、甘い、花のような香りが鼻孔を刺激する。
短く息を吐いて、一歩踏みこむと同時、月葉は玉散る刃を大きく横にはらった。
女型の妖怪――腕が刀に変じ、ぽつりと血がついていた――が、胴をほとんど両断されて崩れ消える。
背後から飛びかかった子鬼二匹が、その爪の一撃を月葉に届かせることもできず、数歩走ってふりかえった月葉に切り捨てられる。
間髪を入れず、うなりながら襲いかかった獣をひらりとかわす。
その獣の陰から、細い、尖ったものが突き出される。
少年の姿をした妖怪が、手から生み出したものだった。
しかし、その得物はあっさりと叩き落され――というよりも、半ばでへし折られ――獣も地に足を付けるやいなや、月葉に両断される。
返す刀で少年の妖もばっさりと袈裟斬りに切り下ろし、他に妖怪がいないことを確かめて、月葉は刀を鞘に収めた。
「ただいま」
のんびりとした調子で、月葉が鳥居をくぐる。
「月葉様!」
葛が駆け寄る。
「月葉様、お怪我は……?」
「うん、大丈夫。葛は?」
「大丈夫です」
どうやら葛は、傷を神通力で癒したらしい。
大丈夫だと言いつつ、葛は面目なげに面を伏せていた。
その頭を優しく撫でる。
「気にしないで。怪我も大したことがなくて良かったよ」
にこにこと神使をねぎらう月葉は、いつもどおりの穏やかな祭神だった。
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