第5話 月見の宴 祟り神
吹きすぎる風が、肌を冷やす。
弓形の細い月が、夜天に昇っている。
月の位置から考えて、時刻は深夜か。日付はもう変わっただろう。
夜道を一人歩く卯月を、見とがめる者は誰もいない。
街中にある、十階建てのマンション。
卯月が向かっていたのは、そこだった。
硝子張りの自動ドアをくぐり、風除室に入る。
このマンションは管理人が常駐しているうえ、オートロックが設置されており、部外者は入れないようになっている。
オートロックに手をかざす。
小さな電子音とともに、鍵が開いた。
行くべき部屋はわかっている。
中に入り、まっすぐに六階の角部屋へ向かう。
鉄製の、重い扉の上には『六〇五』と部屋番号が書かれた金属製のプレートが留められている。
卯月が扉に近付くと、扉はまるで卯月を迎え入れるように自然に開いた。
かすかに衣擦れの音を立てて、卯月は部屋に足を踏み入れた。
部屋の中には、子供服や玩具、小さな食器が乱雑に詰めこまれたごみ袋が三つほど、無造作に放り出されている。
奥の部屋から、話し声が聞こえてくる。
女の声だ。
話し声の合間に、笑い声も耳に届いた。
明るい笑い声。
数日前に子供の葬儀をすませた両親の住む部屋で聞くには、ずいぶん場違いとも思える声だ。
声が聞こえた、奥の部屋をのぞく。
照明で煌々と照らされた部屋の中で、女が誰かと通話していた。
電話の相手はどうやら男――この女の夫ではない、別の男――らしい。
二人がいわゆる不倫関係にあることも、卯月は女の言葉から察した。
最も、彼女がどういう生活をして、誰と関係を結んでいたとしても、そんなことは卯月の知ったことではない。
卯月にとって大切なことは、この女が、口には出さずとも、子供の命を奪ってほしいと願ったこと、そして自分の“祟り”の対象であること。それだけだ。
人を呪わば穴二つ。
誰かの破滅を願い、それが成就したのなら、その対価を求めなければならない。
もっとも、“祟り”を成すのは別の理由だ。
彼女は神域――神社の境内――で不敬をはたらいた。
夫をそそのかし、自らの闇を伏せて、境内で神主ばかりでなく、彼女の神使に対しても、暴力沙汰を起こさせた。
その不敬と、破滅の代償は、“対価”に値する。
ちかちかと、天井の照明が点滅する。
「あれ、何か電波悪いかも……」
卯月がすぐ後ろに立っているとも知らず、女が通話を続ける。
その
じわりと卯月の指先が熱を持った。
「あ、痛っ」
女が片手で項を押さえる。
その手は卯月の
どうした? と電話相手の声が聞こえる。
「ううん、何か引っかかったみたい。あ、旦那帰ってきたみたいだから、切るね」
玄関が開く音。
疲れた顔の夫に、女はお帰りなさい、と声をかける。
その夫の項にも、卯月は軽く指を触れさせた。
男が少し顔をしかめる。
「ん? おい、どうしたんだよ?」
「え? なに?」
「顔! どうしたんだよ! 鏡見てこいよ!」
怪訝な顔で洗面所に行き、女が悲鳴をあげる。
女の顔は、風船のように腫れあがっていた。
マンションの前に救急車が止まる。
女が運ばれていくときには、既にその腫れは全身におよんでいた。
女だけでなく、夫である男もまた、妻ほどではないにせよ、顔が赤く腫れていた。
サイレンを鳴らして闇夜に消える救急車を見送って、卯月はマンションを出た。
祟りを起こしたのは数年ぶりだった。
数年前に祟ったのは、町の高校生のグループだった。夜の神社に忍びこみ、面白半分で賽銭泥棒をしたうえ、拝殿に入りこんで騒いでいたのだ。
結果的に一人――グループのリーダー格の少年――は数日後に自宅が火事になり、全身に大火傷を負って、運びこまれた病院で命を落とした。他の四人も命は助かったが、程度の差こそあれ、事故に巻きこまれたり、本来ならありえないような不注意で怪我をしたりした。
今では、生き残った少年たちは一人を残して町を離れている。残る一人も、近く町を離れると風の噂に聞いた。
この数年間、少年もその家族も、針のむしろだったようだが、それも自分の蒔いた種なのだ。
行きよりも少し傾いた月を見上げる。
災厄を司る祟り神。
祀られていれば禍を抑え、そうでなければ逆に禍をもたらす禍津神。
それが自分であり、卯月という神だ。
帰り道。
「あ……」
「波津。帰るのですか?」
「はい。お世話になりました」
卯月神社のほうから歩いてきた藤色の小袖をまとった女――波津が、卯月を見て頭を下げる。
「次に顔を見るのは来年、ですか?」
「そうですね……」
うなずいた波津が、何かに気付いて一瞬顔を凍らせた。
「留守にしたのは悪かったですね」
「いえ……何かとお忙しいのでしょうから、お気になさらず」
「……神社で何かありましたか?」
どこか動揺しているような波津の様子に、卯月はふと思い至って問いかけてみた。
「いえ、何でも……」
「……樂と会ったのですか?」
波津が言葉をつまらせ、うなだれる。
「会うつもりでは、なかったのです……本当に」
「……全く、樂の生真面目さは貴方譲りなのでしょうね。別に会ったからと言って責めませんよ」
「私が決めたことですから。それに、私に会うことで、私のことを思い出してしまったら……あの子に危険が及ばないとは言えませんから」
「……あのときの妖は、討ったはずですが」
「ええ、期波は討たれています。しかし残党がいないとも言い切れません。ですから樂にとって私は、見知らぬ人でいるべきなのです」
そうですか、と卯月は感情のこもらぬ相槌を打った。
「
「はい。よくわかっております。それでは卯月様、失礼いたします」
深く頭を下げ、波津が山へと歩いていく。
それを見送って、卯月も石の階に足をかけた。
鳥居をくぐるとき、ちり、とわずかな刺激があった。
(あ……)
右手を見る。
右手の指先、桜色だったはずの爪が、墨を塗ったような黒に染まっていた。
そっと左手を重ねる。
手を離したとき、爪はもとの桜色に戻っていた。
月見の宴が終わって数日後、街に出た五宮神社の神使、
――知ってる? K――マンションのカンザキさん、奥さん亡くなったんだって。
――あ、聞いた聞いた。全身腫れ上がってたんだって?
――そうそう。しかも旦那さんも、やっぱり顔中腫れちゃって、今も入院してるらしいよ。しかもそれさ、祟りらしいよ。
――まさか。祟りなんてあるわけないじゃん。
――でもあの旦那さん、卯月神社で暴れてたらしいよ? 奥さんも止めなかったみたいだし。しかも卯月神社の神様、昔からよく祟るって言うじゃん。ずっと前にも忍びこんで祟られた人たちがいたって聞くし。
流石に声をひそめてささやきあいながら、横を通り過ぎた若い女の二人連れを、庚は思わず見返った。
「兄ちゃん、どう思う?」
「あの卯月様だろ? あり得るんじゃないの?」
二人とも、卯月がどういう神か、くらいはわきまえている。
「千草様に言うべき?」
「一応言っておいたほうがいいんじゃない?」
小声で会話を交わしながら、双子の神使は商店街を歩いていった。
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