第4話 月見の宴 丑三つの客人

 夜の山中を、ただひたすら、転がるように駆ける。

 下生えや石に足をとられて転ぶたび、背後の気配が徐々に近付いてくる。

 それがひと息に距離を詰めてこないのは、できないからではない。あえてしてこないのだ。

 ちょうど、猫が、獲った鼠をいたぶるように。

 ざわざわ。

 枝が鳴る。

 ひいひいと、喉から笛のような音が出る。

 息がうまくできない。

 横腹がずきずきと痛む。

 それでも、必死で足を動かして、走り続ける。

 前へ。先へ。

 止まってはいけない。

 わずかでも足を止めれば、今度こそ――襲われる。

 頭ではわかっていた。しかし。

 足がもつれた。

 手を前に出すことさえできず、顔から地面に倒れこむ。

 起き上がろうとした途端、殺気とともに、背に熱と激痛が走った。



 はっと息を吸って、樂は布団の上に身を起こした。

 全身が冷たい汗に濡れている。

 全力で走った後のように、息がひどく乱れていた。

 心臓が痛む。

 汗で、寝巻が肌にぴたりと張りついている。

 背中の古傷が、疼くような気がした。

 とにかく着替えようと、片肌を脱ぎかけ、手が止まる。

 脳裏をよぎった想像。

 鮮血に染まった、白い寝巻。

(――いや)

 あれは夢だ。背の傷だって、とっくの昔に治っている。

 そう自分に言い聞かせ、着物を着替えたものの、すっかり目が冴えてしまった。

 外の空気でも吸えば、少しは眠気も戻ってくるだろうか。

 そう思い、着流し姿でふらりと外へ出る。

 十月の夜気は思っていたより冷たく、樂は思わずぞくりと身体を震わせた。

 細くなった月が、夜天に輝いている。

(そろそろ丑三つ時、か)

 妖にとっては、最も活発に動ける時間。

 昼は参詣者で混み合っていた境内にも、流石にこの時間は人影がない。

 かわりに幾人かの神使が、酒盛りに興じている。

(やれやれ)

 少しばかり呆れた表情を浮かべたものの、樂は彼らを咎めようとはしなかった。

 馬鹿騒ぎがこうじて、墓場でもないのに運動会でも始めたと言うならともかく、ささやかな酒宴くらいなら、何も目くじらを立てるにはおよばない。卯月がここにいたとしても、同じことを言うだろう。

「お、樂。この酒、卯月様にもらったんだ。お前も一杯――って、どうした? 顔色悪いぞ?」

 樂に気付いた神使の一人が、清酒の注がれた猪口を差し出し、目をぱちくりさせる。

「なんでもないよ」

 首をふって、差し出された猪口を受け取る。

 澄んだ酒を飲みながら、交わされる話に耳を傾ける。

 神社で供される宴の料理の感想や、町の噂など、他愛のない話が続くなか、

「あ、ねえ、誰か来てる」

 たまたま鳥居のほうに顔を向けた神使が、不審そうな声をあげる。

 樂がふりかえると、確かに小柄な人影が鳥居のすぐ傍に立っている。

(人間?)

 時刻は深夜。人間が出歩くような時間ではない。

 そんな時間に神社まで来る人間は、たいていよくない目的を持っている。

(丑の刻参りでもやろうっていうんじゃないだろうな)

「ちょっと、見てくるよ」

 そう言い置いて、樂は立ち上がった。



 そこに佇んでいたのは、藤色の小袖をまとった女だった。

 どこか儚げな、それでいて凛とした佇まいの女。

 手には何も持っておらず、参詣に来たというよりは、人でも待っているような風であった。

「どうしました?」

 とがめるような語調ではなく、あくまで穏やかに声をかける。

 女はぎくりとしたように顔を上げ、目の前に立ったのが樂だと知って、その白いおもてを凍りつかせた。

 女が髪に挿す花飾りが小さく揺れた。

 赤い瞳がじっと樂を見る。

 朱唇がわなないていた。

 不意に、奇妙な懐かしさが樂をとらえた。

 女からただよう、涼やかに甘い香り。

(……白檀びゃくだんだ)

 ちりちりと、頭の奥が痛む。

 人の記憶を最も呼び起こすものは、香りだという。

 しかし、白檀の香が紐づく記憶に、心当たりはない。

 ないはず、なのに。

(なぜ――)

 懐かしいと、思ったのだろうか。

 香りだけでなく、目の前の女にも覚えはないというのに。

「ええと……こんな時間に、神社に何かご用ですか?」

「いえ、その……卯月様にご挨拶を、と思ったのですけれど……こんな時間になってしまいましたし、もう行かなくてはなりませんから、失礼いたします。お騒がせしてすみませんでした」

 綺麗に一礼して、女が踵を返す。

 その姿が視界から消えるまで、樂は鳥居の傍に立っていた。

 何事か呼びかけようとするかのように、わずかに口を開き、女を引き止めるように手を上げて。

 背後から肩を叩かれ、はっと我に返る。

「どうしたんだよ、ぼんやりして」

「え……いや、何でもないよ」

「何だったんだ? こんな時間に」

「さあ……? 卯月様の知り合いみたいだったけど……」

 誰だったのだろうかと首を傾げる樂とは逆に、彼を呼びに来た神使のほうは、さして気にしていない様子である。

「卯月様、結構顔広いもんな。どっかで知り合ったんじゃないか? それより呑もうぜ、ほら。夜はまだ長いんだしさ」

 誘われて、樂は思わず微苦笑を浮かべた。

「あと一杯くらいは付き合うけど、あんまり飲みすぎるなよ。明日もあるんだからな」

 はーい、と調子のいい、しかし聞いているのかいないのかわからない答えに、樂は呆れ混じりの溜息を吐いた。

 それでも彼の口元には、その態度とは裏腹に、かすかではあるが、苦味の消えた微笑が浮かんでいた。

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