第3話 月見の宴 月夜の晩に
宮杜町の五宮神社。
月見の宴が開かれているため、夜だというのに参詣者は普段に輪をかけて多い。
人の話し声もあちこちで聞こえていたが、不意にその声がぴたりと止まった。
一瞬、境内は静まりかえったが、すぐにまたぽつぽつと話し声が聞こえはじめた。
人の目には何も見えなかっただろうが、それを見ていた神使は気付いただろう。
鳥居をくぐる若草色の袴をはいた黒髪の青年と、彼を鋭く睨みつける祭神・
木蘭の威圧に青年――卯月神社の祭神・卯月に仕える神使、
「卯月の使いですか?」
祭神・千草が訊ねると、はい、と樂はうなずいた。
「お借りしていた本を返しに来ました」
「……確かに、受け取りました」
携えていた包みを千草に渡し、樂は一礼して踵を返した。
五宮神社からの帰路、樂、と呼ぶ声に、彼は足を止めた。
「千草様」
渡した包みを持って、千草が歩いてくる。
「月葉神社まで行くのですが、同道しませんか」
千草にそう言われ、樂は目をしばたたいた。
「
答えに窮している樂を、千草がちらりと見やった。
「別に私と同道したところで、卯月はとやかく言わないでしょう。ついていらっしゃい」
はい、と答え、樂は先へ行きかけた千草を追いかけた。
道々話しかける千草へ、樂は短く――ほとんど一言で――返事をする。
歩きながら、千草がちらりと樂をふりかえった。
「何もそれほど気を張って歩まずともよいでしょう」
「……五宮神社の御祭神は……妖を厭うと、そう、うかがっています」
ようやく、ためらいがちではあるが、樂が一言でなく言葉をかえした。
「妖を嫌うのは、常磐様と木蘭様です。あのお二方はともかく、私は害意のある妖でもない、
「顔……ああ、昼に境内で揉め事が起きて、その仲裁で」
「あの神社で揉め事ですか。妖関係ですか?」
「いえ、この間裏山で見つかった子供の親が……」
――誰が子供を死なせろと願った、生かして返せ!
父親が神主の胸倉を掴んで殴りつけ、母親は止めようともせずにそれを見ていた。
それに気付いて止めようとした樂を、父親は躊躇なく殴りつけた。
どうにか周りが引き離してなだめたが、いっとき境内は騒然となっていた。
「なるほど。……卯月は何か言っていましたか?」
思い出したのか、ぞくりと樂が身を震わせる。
「……人を呪わば穴二つ、と」
――別に私が手を下したわけではないですが、言葉に出さずとも、あの母親がそうあれと願ったことが叶っただけの話。こちらが咎められるいわれはありません。だいいち、私にあんな願いをかけたなら、こうなることはあり得たというのに。
そう言って、光景を見ていた卯月はつと母親に近付いた。その
――人を呪わば穴二つ。
ぽつりと一言呟いて、ひどく冷ややかな目付きで両親を一瞥し、卯月は本殿へ戻って行ったのだった。
「その母親の項に、朱い紋が浮かんでいませんでしたか」
「そう、おっしゃると……はい、確かに」
「朱い紋は、印ですよ」
「印、ですか……?」
「
しかし、と千草は口には出さず、内心で密かに言葉を紡いだ。
祟り神ゆえの
朱い紋――祟りの印がついた以上、その母親は早晩報いを受けるだろう。もしかすれば、父親も。
そう思いながら、足を進めていたときだった。
「千草様」
不意に、それまでとは違う緊張がこもった樂の呼びかけに、千草は足を止めた。
どうしたのか、と樂に聞くまでもない。
眼前に溜まる闇。見回せば、そこここに黒い影のようなモノがいる。
「悪霊ですね。全く、こういうモノまで浮かれ出すのだから、月の夜は気が抜けない。樂、お前、武器は?」
「……普段は刀を持っていますが、五宮神社にうかがうときには、武器は持って行かないようにしているので……」
「……なら、離れていなさい。足手まといになりますから」
「いえ、大丈夫です。ただ……見なかったことにしていただけますか」
何を言うのかと、千草は樂を見返った。
樂はためらうことなく、自分の左腕に深々と歯を食いこませる。
流れ出た鮮血が、細い、朱い刀を形作る。
地を蹴って踏みこんだ樂が、一気に悪霊との距離を詰めて刀で斬りはらう。
一体、また一体、斬られる度に、悪霊は黒い塵となって消えていく。
樂の死角、背から回りこもうとするモノは、千草の鉄扇によるひと打ちで霧散する。
「三百年前と比べると、ずいぶん腕を上げましたね」
「あのときは、まだ子供でしたから」
言いつつ、樂が目の前にいた最後の悪霊を切り捨てる。
辺りにはもう悪霊の影はない。
ひとつ息を吐いて、樂は左腕の傷口を懐から出した布でしっかりと縛った。持っていた刀はいつの間にか消えている。
「千草様、お怪我は……」
「いいえ、大丈夫です」
再び歩き出す。
そこから月葉神社までは、さほど遠くなかった。
「やあ、珍しい組み合わせだね」
迎えた月葉が笑う。
その後ろで、
「あ」
丙と庚が並んで団子を食べていた。
「全く、見回りもせずにここで油を売って。他の神使に示しがつかないではありませんか」
「まあまあ。二人とも見回りはしていたよ。それに色々手伝ってもらったからね。そのお礼さ。ねえ、葛」
二人に茶を持ってきた葛が、黙って首を縦にふる。
「……あの二人を、あまり甘やかさないでください。すぐに調子に乗るんですから」
全く、と千草が溜息を吐く。
その横で葛が、樂の腕に巻かれた布に目を留めて眉を上げる。
「樂、怪我をしたんですか?」
「これくらい、たいしたことないよ」
「もう、ちゃんと手当しなくちゃ駄目でしょう。ほら、こっち来て」
ぐいと葛に引っ張られ、樂が本殿の方へ向かうのを、月葉がにこにこと見送っていた。
「そうそう、月葉。これ、読みたがっていた本です」
「ありがとう。君も少し休んでお行きよ。夜はまだ長いんだし」
もぐもぐと団子を頬張る自分の神使を見て、千草はもう一度、小さく溜息を吐いた。
「……そうですね。ならもう一杯、お茶をいただきましょうか」
どうぞ、と月葉が湯呑を渡す。
注がれた緑茶の面に、わずかに欠けた月が映りこんでいた。
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