第2話 月見の宴 卯月という神(二)
その夜、卯月は宴で賑わう境内を後にして、社の裏手にある荒神山へと向かっていた。
手には使い慣れた薙刀を持ち、服装はいつもの、巫女装束にも似た和装。
山歩きには全く向いていないはずの服装で、卯月はすいすいと山道を登る。
その途中、卯月はふと足を止め、登ってきた道を見返った。
草の揺れる音。
神使の誰かが言いつけを破ってついてきたのかと思ったが、木の間から見える影は、見知った神使の誰でもない。
目を細めて近付いてくるその影を見ていた卯月は、はたとその正体に気付いて目を開いた。
藤色の
「千草様」
娘――五宮神社の祭神の一柱・千草はちらりと目を上げて卯月を見た。
「動いていたのですか」
千草の赤い目が、鋭く卯月を射る。
「ええ。人の手には余りそうですし、見過ごしてもおかれませんから」
卯月が言ったそのときだった。
ざ、と生温い風が吹く。
茂みで鳴いていた虫の声がぴたりと止み、夜は眠っているはずの鳥が夜空に飛び立って梢を揺らす。
風に混ざる異様な気配を感じ取り、千草が顔をこわばらせる。
同じものを感じた卯月も眉をくもらせた。
「千草様は、戻られたほうがよろしいかと思いますが」
それを聞いて、むっとしたように千草が唇を尖らせる。
「私も行きます」
「……そうですか」
どうやら、千草に退く気はないらしい。
それと悟って、卯月は早々に説得を諦めた。
自分の神使なら命令もするが、千草が相手ではそれもできない。
卯月はどこか目指す場所があるようで、迷う様子もなく進んでいく。
道はといえば整備もされない獣道で、どう考えても和装で楽々歩けるような道ではないのだが、卯月も千草も平気な顔で歩いていく。
「岩屋へ行くのですか?」
「いいえ」
後ろから千草が問いを投げかけ、卯月が首を横にふる。
千草が言った岩屋とは、この山中にある洞穴のことである。
昔から“帰らずの岩屋”と言われ、巷では、入れば二度と帰ってこられない、と伝わっている。
この山に入ると神隠しに遭う、という言い伝えも、元はと言えばこの岩屋の話なのである。
「もうじきです」
卯月の言葉どおり、それから間もなく目の前が開けた。
池があった。
影になった木々が岸辺を縁取り、暗い
ざわざわと葉ずれの音が聞こえる。
「ああ――やはり、あそこですね」
岸辺の一ヶ所――大きく池に向かってせり出した場所――を見て、卯月が呟く。
何かがそこにいるのを、月明かりで千草もはっきりと認めた。
卯月はすたすたと岸を周り、その黒いモノへ近付く。千草もその後を追った。
「妖、ですか?」
「そのようです」
それは四つん這いになった人型のモノで、真っ黒い身体の中、顔らしい部分だけが白かった。
仮面でも貼り付けたような、つるりとした顔には、目と口を示すように、三つの黒い穴が穿たれている。
卯月が薙刀を、千草が鉄扇をかまえて妖と対峙する。
卯月が距離を詰めかけたとき、妖が顔を上げた。
呻くような声とともに、口からどっと黒い霧が吐き出される。
身体に絡んだ霧が、手足の自由を奪う。
(瘴気!?)
千草はきりりと歯を噛んだ。
穢れを含んだ気である瘴気は、神や神使にとっては毒に等しい。
大量に浴びればその身は穢れ、災厄をもたらすモノへと成り果てる。
ぎこちなく、卯月が千草のほうに顔を向ける。
「千草様、ごめんあそばせ」
ふわりと千草の身体が浮いた。間髪を入れず、勢いよく後方に飛ばされる。
「うわぁ!?」
一瞬の浮遊感のあと、そんな声と同時に抱き留められる。
「月葉!? なぜここに?」
「いや、なんだか妙な気を感じたからね。卯月が動いているだろうとは思ったけど、一応来てみたんだ。それより大丈夫かい?」
じわりと月葉の手が熱を持つ。
その熱が月葉の全身に広がり、すっと引いていく。
熱が引くと共に、千草に絡んでいた瘴気も晴れていた。
「ありがとうございます」
「うん。卯月は?」
「向こうに――」
そのとき、一帯に哄笑が響きわたった。
聞く者をどこか不安にさせる、そんな笑い声だった。
それを聞いて、月葉と千草は顔を見合わせた。
――卯月という神はの、あれは、
千草は何かの折に、同じ五宮神社の祭神・
――畏れ敬い、祀りあげれば加護を与えて災いを遠ざける。されど侮り軽んじて、その存在を忘れれば、自ら荒ぶり災厄をもたらす。あれはそういう神よ。もっとも祀られて代を重ねる間に、いくぶん大人しくなってはおるようだがの。だがその本性が変わったわけではない。どれほど大人しくなろうとも、禍津神である以上、あれが災厄に近しいことは変わらぬのよ。
呻き声にも聞こえる咆哮に混じって、再び笑い声が耳に届く。
やれやれ、と、日ごろの柔和な表情を消した月葉がため息混じりにこぼし、背に負った刀に手をかける。
妖に引き寄せられたものか、卯月に引き寄せられたものか、周囲には悪霊の影が見えた。
さっと引き抜かれた玉散る刃は、近付いてきた悪霊を二体、まとめて切り捨てた。
散り散りになって消えていく悪霊と入れ替わるように、すいと新手が現れる。
月葉が返す刀で悪霊を一閃し、その背後に寄ってきたモノは千草がすかさず鉄扇で打ちはらう。
あたりの悪霊が跡形もなく消え去るのに、さほど時はかからなかった。
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