第2話 月見の宴 卯月という神(二)

 その夜、卯月は宴で賑わう境内を後にして、社の裏手にある荒神山へと向かっていた。

 手には使い慣れた薙刀を持ち、服装はいつもの、巫女装束にも似た和装。

 山歩きには全く向いていないはずの服装で、卯月はすいすいと山道を登る。

 その途中、卯月はふと足を止め、登ってきた道を見返った。

 草の揺れる音。

 神使の誰かが言いつけを破ってついてきたのかと思ったが、木の間から見える影は、見知った神使の誰でもない。

 目を細めて近付いてくるその影を見ていた卯月は、はたとその正体に気付いて目を開いた。

 藤色の小袿こうちぎ、黄の表着うわぎに赤い張袴はりばかま。平安時代の絵巻物から抜け出てきたような装束をまとうのは、白髪を右のひと房だけ残して肩のあたりで切りそろえた娘である。

「千草様」

 娘――五宮神社の祭神の一柱・千草はちらりと目を上げて卯月を見た。

「動いていたのですか」

 千草の赤い目が、鋭く卯月を射る。

「ええ。人の手には余りそうですし、見過ごしてもおかれませんから」

 卯月が言ったそのときだった。

 ざ、と生温い風が吹く。

 茂みで鳴いていた虫の声がぴたりと止み、夜は眠っているはずの鳥が夜空に飛び立って梢を揺らす。

 風に混ざる異様な気配を感じ取り、千草が顔をこわばらせる。

 同じものを感じた卯月も眉をくもらせた。

「千草様は、戻られたほうがよろしいかと思いますが」

 それを聞いて、むっとしたように千草が唇を尖らせる。

「私も行きます」

「……そうですか」

 どうやら、千草に退く気はないらしい。

 それと悟って、卯月は早々に説得を諦めた。

 自分の神使なら命令もするが、千草が相手ではそれもできない。

 卯月はどこか目指す場所があるようで、迷う様子もなく進んでいく。

 道はといえば整備もされない獣道で、どう考えても和装で楽々歩けるような道ではないのだが、卯月も千草も平気な顔で歩いていく。

「岩屋へ行くのですか?」

「いいえ」

 後ろから千草が問いを投げかけ、卯月が首を横にふる。

 千草が言った岩屋とは、この山中にある洞穴のことである。

 昔から“帰らずの岩屋”と言われ、巷では、入れば二度と帰ってこられない、と伝わっている。

 この山に入ると神隠しに遭う、という言い伝えも、元はと言えばこの岩屋の話なのである。

「もうじきです」

 卯月の言葉どおり、それから間もなく目の前が開けた。


 池があった。


 影になった木々が岸辺を縁取り、暗い水面みなもに満月が映っている。

 ざわざわと葉ずれの音が聞こえる。

「ああ――やはり、あそこですね」

 岸辺の一ヶ所――大きく池に向かってせり出した場所――を見て、卯月が呟く。

 何かがそこにいるのを、月明かりで千草もはっきりと認めた。

 卯月はすたすたと岸を周り、その黒いモノへ近付く。千草もその後を追った。

「妖、ですか?」

「そのようです」

 それは四つん這いになった人型のモノで、真っ黒い身体の中、顔らしい部分だけが白かった。

 仮面でも貼り付けたような、つるりとした顔には、目と口を示すように、三つの黒い穴が穿たれている。

 卯月が薙刀を、千草が鉄扇をかまえて妖と対峙する。

 卯月が距離を詰めかけたとき、妖が顔を上げた。

 呻くような声とともに、口からどっと黒い霧が吐き出される。

 身体に絡んだ霧が、手足の自由を奪う。

(瘴気!?)

 千草はきりりと歯を噛んだ。

 穢れを含んだ気である瘴気は、神や神使にとっては毒に等しい。

 大量に浴びればその身は穢れ、災厄をもたらすモノへと成り果てる。

 ぎこちなく、卯月が千草のほうに顔を向ける。

「千草様、ごめんあそばせ」

 ふわりと千草の身体が浮いた。間髪を入れず、勢いよく後方に飛ばされる。

「うわぁ!?」

 一瞬の浮遊感のあと、そんな声と同時に抱き留められる。

「月葉!? なぜここに?」

「いや、なんだか妙な気を感じたからね。卯月が動いているだろうとは思ったけど、一応来てみたんだ。それより大丈夫かい?」

 じわりと月葉の手が熱を持つ。

 その熱が月葉の全身に広がり、すっと引いていく。

 熱が引くと共に、千草に絡んでいた瘴気も晴れていた。

「ありがとうございます」

「うん。卯月は?」

「向こうに――」

 そのとき、一帯に哄笑が響きわたった。

 聞く者をどこか不安にさせる、そんな笑い声だった。

 それを聞いて、月葉と千草は顔を見合わせた。


――卯月という神はの、あれは、禍津神まがつかみよ。


 千草は何かの折に、同じ五宮神社の祭神・木蘭もくらんから聞いた話を思い出していた。


――畏れ敬い、祀りあげれば加護を与えて災いを遠ざける。されど侮り軽んじて、その存在を忘れれば、自ら荒ぶり災厄をもたらす。あれはそういう神よ。もっとも祀られて代を重ねる間に、いくぶん大人しくなってはおるようだがの。だがその本性が変わったわけではない。どれほど大人しくなろうとも、禍津神である以上、あれが災厄に近しいことは変わらぬのよ。


 呻き声にも聞こえる咆哮に混じって、再び笑い声が耳に届く。

 やれやれ、と、日ごろの柔和な表情を消した月葉がため息混じりにこぼし、背に負った刀に手をかける。

 妖に引き寄せられたものか、卯月に引き寄せられたものか、周囲には悪霊の影が見えた。

 さっと引き抜かれた玉散る刃は、近付いてきた悪霊を二体、まとめて切り捨てた。

 散り散りになって消えていく悪霊と入れ替わるように、すいと新手が現れる。

 月葉が返す刀で悪霊を一閃し、その背後に寄ってきたモノは千草がすかさず鉄扇で打ちはらう。

 あたりの悪霊が跡形もなく消え去るのに、さほど時はかからなかった。

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