第18話.白き光炎の奇跡
見たこともない様な量の白い炎がヒスイの心を写した様に溢れ出て、ジェイドの背後でヴォルフを焼いた。それでも、ヴォルフは嗤い続けている。
「ネフライティスは死んだっ!! 銀の杭が心臓を穿った!! オレ様の、勝ちだァッ!!」
許しはしない、そんな思いによって灰色の人狼は浄化の白い炎に焼かれて消えた。
確かに杭はジェイドの心臓の真ん中を貫いていた。彼自身も、もう自分は助からないだろうと思う。
ジェイドは、ぼろぼろと涙を溢すヒスイの頬に、どうしても微かに震えてしまう手を添える。
「ジェイドッ、いや、いやよ……だめ、死なないで!」
「ヒスイ、私を見てください……」
「杭を抜かなきゃ、早く、手当てを……」
「ヒスイ」
取り乱して、現実を拒むように言葉を紡ぎ続けるヒスイを呼び、正面から目を合わせた。動きを止め、唇を引き結んで涙でいっぱいの翠眼を見開いた彼女は、ジェイドの銀の双眸を見つめ返して弱々しく首を振る。
「愛しています。たとえこの身が滅びて、魂だけになったとしても」
「ジェイド、いやよ、私も、あなたを愛しているの。お願い、ひとりにしないで」
「きっといつかまた、会えるはずです」
「私は、あなたと今を生きたいの!」
そう言われてジェイドは儚く笑んだ。自分には無縁だったその言葉が、泣いている彼女には申し訳ないがとても嬉しかった。
その直後、彼の身体はぐらりと傾いでヒスイに支えられながら天井を仰ぐ体勢になる。夜絹の長髪が瓦礫だらけの床に流れ落ちた。
「この私が、誰かに、そう言われる日が、来るとは……」
見送ることなく、愛する人の膝の上で死んでいくことは幸福だと思っていた。けれど。
「それが、こんなに苦しいとは、思いもしませんでした……」
彼は手を伸ばして、涙に濡れるヒスイの頬を撫でる。視界が歪むのは、溢れてきた涙のせいだ。
「私も君と、有限を、生きたかった……」
ジェイドの手に、ヒスイの暖かな手が重ねられた。巡り続ける命の暖かさ、夜を生きてきた彼には手に入れられないもの。
(やはり私は、君が愛しくてたまらない)
ヒスイは必死に涙をこらえて、ジェイドの穏やかな顔を見つめていた。
(ジェイドが死んでしまう。そんなの嫌だわ、耐えられない。どうしよう、誰か、誰か……)
助けを求めても答えるものはいない。頬に触れるジェイドの手を、半ば縋りつく様に握りながら涙を溢すことしかできないでいる。
(どうして私には、彼を助けることのできる力がないの?)
どうしたら、と歯を食い縛る。その時、ヒスイの脳裏に今は亡き祖母の声が柔らかく響いた。
――ヒスイ、お前はわたしの光炎を継ぐ孫娘でしょう。しっかりおし――
ハッと顔を上げる。宙に散る涙の粒が細やかに煌めいた。ヒスイの髪が鮮やかに艶めいたのを見たジェイドは、窓が砕けて陽光が差し込んでいることに気づく。
迫り来る時間に追われながら、ヒスイは必死に祖母の言葉を思い返した。
(……これなら、彼を助けられるかも)
そして彼女は膝元で切なく愛しげに自分を見上げるジェイドに視線を戻した。その目には、彼女の常である折れぬ光が灯っていた。
「――ジェイド、私を信じてくれる?」
ジェイドは彼女の突然の言葉に不思議そうに目を瞬いたが、すぐに緩やかに微笑んで頷く。
「ええ。私は、愛しい君を信じています」
ヒスイも頷き返した。
「私も、あなたを愛している。だから、この先、あなたの罪を共に背負います」
そう宣言して、彼女は頭の中に響く祖母の声をなぞるように言葉を音にしていく。
「……私の白き手は、すべてを包み、
ふわりと、春の芽吹きのような柔らかさで溢れる白い炎が二人を包む。ジェイドは驚いた様子を見せたが、痛みに顔を顰めて身体の力を抜いた。
「私の白き声は、すべてを震わせ、生まれ変わらせる再生の炎」
祈るように、ヒスイは言葉を続ける。そんな彼女の姿に、思わずと言った様子でジェイドの眦から涙がこぼれ落ちた。
「罪を分け、支え、寄り添う。私の光炎のすべてによって、私は今、奇跡を
そう言ってヒスイは穏やかな微笑みを宿した顔でジェイドを見つめた。頬で重ねられた手を離し、彼の長髪をそっと耳に掛ける。
「……翠眼の吸血鬼、ネフライティス」
「……はい」
「私は、あなたの罪を赦します」
何よりも穏やかな白い光と炎が二人を包み、荒れた広間をその輝きが柔く満たしていく。
目蓋をくすぐった暖かな光に、やっと意識を取り戻してうっすらと目を開けたキャリコは、白い炎がジェイドとヒスイを包み込んでいくのを見ていた。
(ああ……なんて、美しいのでしょう)
キャリコ自身も、緩やかに光の中に取り込まれていく。じんわりと染み入る様な暖かさに、彼女は深い青の瞳を閉じた。
――――――……
ヒスイ、忘れてはいけないよ。
お前に、どうしても叶えたい願いがあったら、わたしの力を後世に継いでいくことは考えなくていい。
わたしが東の果てからこの地に運んできたのは、白い火の神がくれた一欠片の奇跡なんだ。
その奇跡は、お前の中にもちゃんと存在している。感じるだろう、暖かな光炎を。
だからね、わたしの可愛い孫娘よ。
その奇跡を使う時が来たら、すべてを信じなさい。そしてお前を信じる者に心を預けなさい。
そうすれば、必ず奇跡は起きるからね。
代償はその白い光炎さ。お前は退魔の魔力を失うだろう。
そうなったとしても、お前はわたしの自慢の孫さ。不安な顔をするんじゃないよ。
お前が幸せになること以上に、大切なことなんてこの世にあるもんかい。
――――――……
爽やかな風が吹き抜ける。季節は春。ジプソフィラ邸の庭に咲く花々がくすぐったそうに身をよじった。
「お帰りなさい、あなた」
「ただいま戻りました」
麗らかな春風に黒藍の長髪を翻し、長身の青年が屋敷に戻ってくる。それを迎えたのは柔らかな金の髪に、至高の翡翠の様な瞳をした乙女。青年の銀の瞳が穏やかに細められる。
「にゃ~お」
「ああ。戻りましたよ、キャリコ」
若い夫婦の足元で、可愛らしいのにひどく無表情な三毛猫が鳴き、青年に抱き上げられた。鮮やかな深い青色の瞳が、キラキラと青年を見上げる。
「ふふ、キャリコさんったら、今日はどこからか魚を獲ってきたのよ」
「そうですか」
三毛猫は無表情にまた一言「にゃ~お」と鳴いて身をよじると青年の腕から逃げ出してどこかへと駆けていった。
それを微笑みで見送って、乙女がくすくすと笑い声を漏らす。
「あなたが村で活躍しているから、あちこちで褒められるわ。良くできた旦那さんねって」
ついでに格好いいとも言われたわ、と彼女は言って青年に柔らかく抱きついた。
「君のお陰です、ヒスイ。何もかも、私を信じてくれた君がいたから」
「ジェイド、あなたも私を信じてくれたでしょう。だからこそ、奇跡は成ったのよ」
そうですね、と微笑んでジェイドはヒスイを抱きしめた。
お互いの愛と信頼によって、ヒスイの魔力のすべてをかけた奇跡は成功した。
結果として、ヒスイは退魔の力のすべてを失ったが、ジェイドは死の淵から引き戻され、そして――――
翠眼の吸血鬼ネフライティスは、彼が犯した罪と共に、赦され、消滅した。
そこに残ったのは、魔力を持つただの人間のジェイドと、魔力を失った人間のヒスイ。それから主人の変化に伴い、使い魔という存在に揺らぎが出て、猫の姿に戻ったキャリコだけだった。
魔力がなくなったのでヒスイは戦う聖女の道を諦めた。その代わり、ジェイドが村を守ると言ったのである。
「君と、君の故郷に帰りたい」
「ここに比べたら、何もない田舎よ?」
苦笑してそう言ったヒスイに、ジェイドは首をゆるゆると振って、腕に抱いていたキャリコの背を優しく撫でて答えた。
「君がいれば、私はどこにいようと幸せです」
穏やかな微笑み。ゆるりと細められた銀月の瞳。触れ合う手は暖かかった。
「どうか、私に、君の残りの人生すべてをくれませんか」
少し不安そうにしながら、しかし真っ直ぐヒスイの目を見つめて彼はそう言った。
その言葉の意味を正しく理解したヒスイは、次の瞬間ぼふんっと赤くなった。
「ジェ、ジェイド、そ、それって」
「ええ、プロポーズです」
「あっ、わた、わたし、えっと」
真っ赤になって慌てるヒスイに、ジェイドは分かりやすくしょんぼりした顔をして見せる。奇跡によって人となっても、その美貌は相変わらず。むしろ、命の暖かみが宿ったために以前よりヒスイの心への訴求力が高くなっていた。
「その、君が嫌でしたら、いいのですが……」
「いえっ、そんなことないわ! 私はあなたが大好きだもの!! あの、喜んで、お受けいたし、ます」
ヒスイはそう答えて、更に赤くなりながらジェイドにゆるゆると抱きついた。顔を見られるのが急に恥ずかしくなったからである。二人に挟まれたキャリコは短く鳴いて逃げた。
「ふふ、ありがとう、ヒスイ」
ジェイドは微笑んでヒスイを抱きしめかえす。間違いなく触れている暖かさにほっと安堵しながら、ヒスイはモゴモゴ「あのね」と口を開いた。
「だから、あなたの残りの人生も、私にちょうだい」
顔を隠したヒスイの言葉に、ジェイドはたまらなく込み上げる喜びを耐えきれず、彼女を抱き上げた。
「ええ、勿論です。二人で、生きていきましょう」
「うふふ、そうね」
そうして二人は、光神教会にヒスイが魔力を失った経緯を――吸血鬼云々のことは伏せて――簡潔に伝え、残念そうにしつつ二人のことを信じると言ってくれた教会の面々に祝福されつつ、彼女の故郷であるカーラ村に居を構えることとなった。
ジェイドは以前のオルテンシアという姓を捨て、長く生きていた中で少しの間だけ使用したことがあるというジプソフィラの姓を選んでヒスイを妻に迎えた。
猫の姿から変身することができなくなってしまったキャリコは、そこで飼い猫としてすごすことになったのだが、彼女はどうやらあまり気にしていないようで、変わらぬ無表情で村を闊歩している。
元が猫だったからだろう、とジェイドは言った。
ジェイドは、吸血鬼として犯してきた罪の償いに、カーラ村を魔物から守り、人の手助けをして暮らしている。
その冷艶な美貌は村の女性陣を虜にしたが、彼はヒスイ一筋であった。
聖女になる、と村を出ていった娘が美貌の青年を夫として連れ帰ってきたことに、母のコハクはかなり驚いていたが、白い光炎の奇跡の話を聞いて納得し、二人の結婚を認めた。
今では、カーラ村の若きジプソフィラ夫妻は近隣の村でも仲睦まじい夫婦として有名である。
こうして、吸血鬼と聖女見習いの物語は幕を閉じた。代わりに始まった青年と乙女の物語は彼らの命の終わりまで、幸せに続いていくことだろう。
暖かに巡る、限りある命を共に。
終わりののちに巡り、いつかまた、出会えるように。
いつか、翡翠の燃えたその先に ふとんねこ @Futon-Neko
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