第17話.最後の戦い

 太陽が天頂に昇る少し前、ヒスイは光神教会の女性神官見習いとして、白襟の黒いワンピースに青い石のブローチを留め、白いケープを羽織った服装でローレル伯爵邸の前に立っていた。


 緊張からか、彼女の白い頬は微かに青褪めている。それでも深い翠色の目は真っ直ぐ前を向いていた。


 そんなヒスイの隣に、ぼさぼさの灰色の髪をした男が立っている。

 肌寒い冬だというのに、浅黒い肌に纏うのは草臥くたびれた服一枚。左目は潰れており、残る黄金色の右目には深い淵の様な憎悪の炎が揺れていた。

 ジェイドを憎む人狼の青年、先程ヒスイに向けて告げた名はヴォルフ。自身の正体を自らの口でヒスイに明かしたわけではないが、それはそのまま“狼”を意味する。


 ヒスイは、ジェイドと三人きりの状態になるまでは彼を人狼だとは知らない聖女見習いとしてここに立っていなければならない。

 表向き、お互い人狼など知らないという顔でいなければならないと言うのは少しつらかった。

 そんな状況で告げられた本名か偽名かも分からない名前に、ヒスイは背筋に悪寒を感じたのである。


 危険そのもののヴォルフの隣に立っているという状況、そして腰のポーチに入れた銀の神像の精神的な重みに、すでに疲れてヴォルフを気にすることでいっぱいいっぱいだったヒスイの意識を、屋敷の扉が開かれる音が引き戻した。


「キャリコさん……」


 扉を開けたのは、メイド服に身を包んだキャリコであった。

 相変わらずの無表情だが、ヴォルフを見た時に深い青の瞳の温度が下がる。彼女は気を取り直すようにヒスイに顔を向けた。


「……お入りください。ご主人様がお待ちです」


 ヒスイは微かに顎を引いて頷き、ヴォルフに目を向けると「行きましょうか」と促す。

 ヴォルフはヒスイに目を向けることもなくじっと前を睨み、小さく「ネフライティス……」とジェイドのかつての名を呟いて歩き出した。



―――――……



 キャリコに案内され、ヒスイとヴォルフは屋敷の中を歩く。向かう先は、ヒスイとジェイドが穏やかな時間を共にした一階の広間であった。


(……ジェイドは、どうするつもりなのかしら?)


 昨夜、ジェイドと話し合いをしたとは言え、やはり拭いきれぬ不安はつのる。胸の内で、まるで勇気づけるかの様に揺らめいている白炎の気配に心落ち着けながら、ヒスイは一歩一歩進んでいった。





「こちらです」


 広間の前で立ち止まり、キャリコが扉を開けた。

 ヴォルフが待ちきれないと言った風情で勢いよく広間に踏み込んでいく。ヒスイはキャリコに視線を向け、無言で頷き合ってから彼に続いた。


 以前は様々な調度で品良くととのえられていた広間は綺麗さっぱり片付けられており家具は一つも置かれていない。

 そんな広間の真ん中に、深く上品な黒の衣装を纏ったジェイドが佇んでいた。


「久しぶりですね、灰色の人狼」


 冷たい印象を受ける白皙の美貌には何の感情も窺えず、銀月の双眸は静かな魔力を込められて鮮やかな翠緑に染まっていた。

 ヴォルフは答えずにじっとジェイドを睨み付けている。彼は荒れ狂う激情を感じさせる表情をしていた。


「ヒスイ、こちらへ」

「……ええ」


 呼ばれて、ヒスイはジェイドの隣へ向かう。ブーツの踵が立てる微かな音すら響いた仕方がないように錯覚してしまうほどの静寂が広間を満たしている。

 その実、しんしんと雪を満たされた様なその静寂の中には激しい牽制の魔力のぶつかり合いで絶え間なく空気の揺らぎが生じているのだった。


 人ならざる者たちの魔力のぶつかり合いで生まれる揺らぎは、人であるヒスイにとって軽い酩酊の様な頭を揺らされる感じに似た感覚を与える。

 結果、元から青褪めていた彼女の美貌がジェイドの隣につく頃には真っ白になっており、そんな彼女をジェイドは小声で謝って支えた。


(あ……でも、ジェイドの隣に来たら温かくなってきたわ)


 彼の魔力が濃く満ちている場所に来たため、ヒスイの顔色はすぐに元の青褪め具合に戻った。彼女の持つ陽光の様な元気さは完全には戻らなかったが、心に満ちる安堵感は先程よりよっぽどマシである。


 その時、ずっと黙っていたヴォルフがようやく口を開いた。


「……よくも、オレ様を、あんな牢獄に閉じ込めてくれたなァ」

「……そうされるだけのことをしたのはお前でしょう」

「ガァッ! 言いやがってェ……気に入らねぇ、気に入らねェッ!!」


 ヴォルフが吼えた。直後膨れ上がる魔力の気配。彼の浅黒い肌が灰色の剛毛で被われていく。両腕が前肢になり床につく頃には、その姿は灰色の巨狼に変じていた。


『お前だけ、今更幸せに、なんて都合のいいこと、許すわけがないだろォ!!』


 巨狼はそう叫んで床を蹴る。灰色の身体はしなやかに、そして素早くジェイドに接近した。鋭い牙と爪が襲いかかる。


「……仕方がありません」


 溜め息をこぼしたジェイドは、冷静にヒスイを引き寄せて一歩後方へ飛び退った。


「キャリコ!!」

「はい、こちらに」


 着地した先でジェイドがキャリコを呼んだ。応えて、どこからともなく無表情の使い魔が現れる。言葉もなく、しかし繋がりを通して命令は届けられたのかキャリコがヒスイを受け取った。


「っ、ジェイド、気を付けて!!」

「分かっています」


 飛び掛かってくるヴォルフの姿にヒスイが叫んだ言葉に、ジェイドは落ち着いて答えると左腕に魔力を纏わせて振り向き様に魔法の氷柱を放った。


『ッ!』


 大きく開いた赤い口腔に氷柱が突き刺さる。ヴォルフは顔を顰めながらそれを噛み砕いて着地した。滑らかな象牙色の石の床に四肢の爪が当たってカチャリと微かな音が鳴る。

 そこへジェイドの追撃。床一面に魔力が展開し、大量の魔法陣が床を埋め尽くすように描かれた。彼の形の良い指がパチンッと軽やかに弾かれ、それを合図に全ての魔法陣から大きな氷柱と闇の縄が飛び出す。

 広間を駆け回り、捕らえようとしてくる闇の縄を避けるヴォルフ。ジェイドはそちらに手を向けて魔力を注ぎ続け、捕獲に意識を向けている。


『グォアァッ! うざいことしやがってェッ!!』


 ヴォルフが駆けながら吼えた。その口の前に煌々と銀色に光る魔法陣が展開する。


 そして――――


『ガァァァ!!!』


 咆哮。魔力を乗せられた音の波が広間に勢いよく広がった。立ち並んでいた氷柱は全て粉々に破壊され、闇の縄は千々に打ち払われる。

 ジェイドはその咆哮を食らっても平然としていた。ヒスイはキャリコが張った結界に守られて、それでも鼓膜を刺す用な音に耳を塞いでいる。


(なんて音量なのっ……耳が破けそう!)


 直後、再びヴォルフが吼えた。次に広間を満たしたのは目映い閃光であった。


「っ!!」


 これには流石のジェイドも目を覆い、光を消そうと魔力を展開する。


「ぐっ?!」


 しかし、そんな中ヒスイの隣を何かが風を伴って通りすぎ、次いでキャリコのくぐもった声が聞こえた。結界の割れる気配、ヒスイの背を駆け下りる嫌な予感。


 それからようやくジェイドの魔力に払われた光が収まってくる。


「っ、キャリコさん!!」


 ヒスイが慌てて振り返ると、キャリコが背後の壁に打ち付けられてぐったりしていた。その口から溢れた血が白い顎を濡らしている。

 その傍らに灰色の巨狼が立っていた。今にもキャリコの喉を噛み裂こうと言わんばかりの、残忍な表情で口を開いている。


「やめてっ!!」


 ヒスイは叫んで右手から白い光炎を放った。忌々しげな顔をしたヴォルフはそれを避けてキャリコの側を離れる。


「キャリコ……」


 ジェイドが顔を歪めて呟いた。直後、彼の身体から立ち上る怒気と激しい魔力の波動。


『ヒヒ、怒ったァ……随分と、甘くなっちまったんだなァ、ネフライティス』


 ゆらゆらと灰色の巨体を揺らして嗤うヴォルフ。次の瞬間、その頬を白い槍の様な氷柱が抉って背後の壁に突き刺さった。


『なっ……』


 この場の誰の目にも捉えられない速度で氷の魔法を放ったのは、双眸を怒りの魔力で沈み込みそうなほどの深い翠に染めたジェイドであった。

 遅れて生まれた風がジェイドの長髪を翻し、ヴォルフの体毛をそよがせる。


 いつの間にかヴォルフに向けられていたジェイドの白い手が、ぐっと握り込まれ、そして開かれた。

 冬の大地を凍えさせる北風のような冷たい魔力が駆ける。再びヴォルフの身を掠める白槍。鋭さに赤を散らせば、何とも色鮮やかで映えること。


『っ、見え、ねェッ……ぐぁっ!!』


 氷柱が駆け回るヴォルフの左足の腿を貫いた。一瞬跳ねて、埃を散らしながら床を滑るように転がる巨狼。


『くそォ……こんなところで……』

「私に勝てると思っていたのですか」


 カツン、とジェイドは歩を進めた。荒い呼吸を繰り返しながら、瓦礫まみれの床に転がっているヴォルフを見下ろす。

 少しも乱れていない彼の呼吸に、ヴォルフは悔しげに呻いた。灰色の巨体がみるみるうちに縮まっていく。やがてそこには左足から血を流す、痩せた長身の男が転がっているのみ。


「すべてを忘れてしまいなさい、灰色の人狼。自分の名前も、牙の欲望も、その存在さえも」


 そう言ってジェイドはそっと右手を上げた。そこに灯る翡翠色の魔力の火。込められたのは忘却の魔法で、見上げたヴォルフが苦笑した。


「オレ様は、全部、忘れちまうのか……」

「ええ。そのすべてが真白になれば、生きているとは言えなくなります」

「そうかよ……」


 ジェイドは膝を折り、全てを無に帰す忘却の火をヴォルフの頭に近づけた。







「なら、冥土の土産にお前の宝石を貰っていくぜ」


 床に伏して、ぐったりと弱っていたはずのヴォルフが、倒れた状態のまま右足で床を蹴り、ジェイドの手の下から風のように抜け出した。


「っ、ヴォルフ!!」


 蒼白な顔で立ち上がり、何かを握り締めてヒスイの元へ向かうヴォルフを追うジェイド。

 キャリコを介抱していたヒスイは、美しい翠眼を見開いてヴォルフを見ていた。その手が退魔の白炎を宿すものの、きっと、間に合わない。


 ヴォルフの手には聖銀の杭が握られている。聖なる銀に触れて、闇の者である人狼がただで済むはずもなく、その手は激しく焼ける音を立てながら徐々にただれていった。


(私を殺すために持っていたのか……! また私は余計な心をあれにかけた。なんたる無様、何故化け物らしく、残虐になれないのか! そのせいで、私は、ヒスイをっ!!)


 不甲斐なさに涙が出そうだ。両足に全力を込める。振り下ろされる銀の一閃より少しだけ早くヒスイの身体に触れて、守るために、必死に両腕の中に掻き抱く。




 ジェイドの身体に深々と突き刺さる銀の杭。ぞっとするような冷たさと、神罰のように苛烈な激痛が彼を襲う。


 腕の中で、ヒスイが泣き叫んでいる。


(ああ……泣かないで、私のヒスイ)


 どうか、お願いだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る