第16話.前夜

 明日は人狼の男と共にジェイドのところへ行かなければならない約束の日である。


 教会の中に与えられた自室で、ベッドの上に座り込んだヒスイは聖女に渡された銀の神像を見つめた。

 手の中でひやりと冷たいそれは、創世神の一柱である光の神の姿を模したものである。すべての希望の光を納めた珠を抱いた麗しい女神の像であった。

 片手に収まるほどに小さいそれは、しかしジェイドの肌に触れるかもしれないと考えるだけで酷く重たく感じられる。


(……どうなるのかしら)


 コト、と銀の神像をベッドの傍らのテーブルに置いてヒスイは溜め息を吐いた。瞳の深い色と良く似た耳飾りに触れて、ベッドにぽふん、と横たわる。


 コツ、コツ。


 カーテンを閉めた窓が不意にそんな音を立てた。今夜は風も無いので不自然だと感じたヒスイは、可能な限り音を殺して身を起こす。


 コツ、コツ。


 そろり、と床に下りて窓に近づく。そしてヒスイはガバッとカーテンを引いた。


「あっ」

「こんばんは、ヒスイ」


 窓の向こうでは、ジェイドがにっこりと笑っていた。





「良かった、帰ってきたのね」

「はい。心配をかけましたか」


 窓を開けてジェイドを迎え入れたヒスイは、手早くお茶をいれて「キャリコさんほど上手くないけれど」と彼に手渡した。

 短く礼を言ってそれを受け取ったジェイドは一口飲んでふわりと笑む。


「もしかしたら君が狙われるかもしれないということで戻ってきました」

「私が……?」


 テーブルの上の銀の像をちらりと見たジェイドは一度視線を床に投げて、ゆるりと首を横に振ると「はい」と言葉を続けた。


「まずはあの人狼と私の話をしましょう」


 ヒスイは表情を固くして、ジェイドの銀の目を見つめる。頷いた彼は「どこから話しましょうか……」と過去の記憶を手繰り寄せた。


「あれは、二百年前のことです」


 渇いた荒野に、血に飢えた若い人狼がいた。ジェイドは溜め息を吐いて、そう話し始めた。



――――……



 その頃、そこら一体の夜闇は全て彼のものであった。翠眼の吸血鬼――今では呼ばれることもないネフライティスというもう一つの名前で、彼は夜を支配していた。


 彼の夜は静寂に満ちている。暗闇にとっぷりと満ちた静寂を切り裂く様な音を好まなかったからだ。

 しかしある夜から、彼の手中にあった街に悲鳴が響き渡って止まなくなった。獣の咆哮、それはただの獣ではなく人間が宿した獣性の叫びにも似ていた。


 それが気に入らなかった彼はある夜、その悲鳴の原因を探して街に降りた。


「……この街を荒らしているのはお前か」

『ん~? ああ、吸血鬼かァ。ここはお前の縄張りかィ?』


 地面に押し倒された青年の腕に噛みついていた荒れた毛並みの灰色の巨狼が、金色の目を彼に向けてそう訊いてきた。

 噛まれた青年は口の端から泡をふきながら、段々と人ならざる獣に姿を変えようとしていた。人狼か、と彼は目を細めて、次の瞬間にはその狼に飛び掛かった。


『ッ、いきなり何するんだ?!』

「私の領域を荒らすものに容赦はしない」

『くそォッ!!』


 灰色の狼は悔しそうに吐き捨てて地面を蹴ると闇に紛れる様に走り去った。

 あとには彼と、苦しそうに呻いている青年が残された。


「ぐっ、ガァッ、グゥ……」

「…………」


 一度人狼に噛まれれば二度と元には戻れない。満月の夜、理性を失って親しい人をその牙にかけることになるだろう。

 彼はそっと青年の首を折った。一瞬のことだったので、青年は苦しまなかっただろう。



 それから、彼は灰色の人狼を追った。狂暴で荒っぽく、そして若い人狼ははじめの内こそ逃げ回っていたがやがて彼と対峙する様になっていった。

 彼と人狼が戦い始めて三日目の夜は、人狼がその片目を失い、必死の命乞いによってモルゲンロートの端の打ち捨てられた荒野の岩窟に繋がれる夜となった。



―――――……



「……私が彼を岩窟に繋いだのは、彼を殺す価値もないと思ったからです。今思えば愚かでした」


 ジェイドはそう言って深い溜め息を吐きながら俯いた。黒藍の長髪がさらりと流れ落ちる。話を聞き終えたヒスイは少し考え、それから彼の冷たい手に触れた。


「……無駄に殺したくないと思うことは、決して間違っていないと思うの。その時のジェイドは“殺す価値もない”と言いながら、本当は“生かしてやりたい”と考えたんじゃないかしら?」

「そう、でしょうか」

「あなたは優しいもの。確かにあなたは魔王に求められる程冷酷な吸血鬼だったかもしれないけれど、今こうして私があなたを愛しいと思うのは、生まれた時から失くしていない優しさがあるからだわ」


 八の字眉の困り顔を上げるジェイド。不安そうな銀色の目が翡翠を上目遣いに見上げた。そんな彼に微笑みかけ、ヒスイはこくりと頷く。


「何とか平穏に乗り切ることができるように、策を立てましょう。そうすれば、私たちならきっと平気」


 本当はヒスイも不安だ。けれど、彼女は気丈にいつもの勝ち気な笑みを浮かべて見せた。

 ジェイドは、過去の自分の不始末でヒスイを巻き込んでしまったことに罪悪感を覚えているらしい。だからこそヒスイは、自分は平気だと態度に示してあげなければと思ったのである。


(彼は臆病。失うことを恐れている。なら私は、絶対に無事に乗り切らなきゃいけないわ)


 ヒスイの微笑みにジェイドは微かな笑みを返した。夜が溢した涙の一粒の様な、儚く切ない気配をしのばせた微笑みだった。


「私たちなら大丈夫」

「……はい。ありがとう、ヒスイ」


 ジェイドはそう言ってヒスイを抱き締めた。彼女の暖かなぬくもりが、彼を安心させた。

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