第15話.不安と焦燥

 静かな声でキャリコが告げた、不気味な男の正体に、ヒスイは深い翠色の目を見開き、そして考え込む様に瞑目した。


「人狼……? じゃあ、襲われていたのは自作自演なのね?」

「はい。しかもかなり強い。私の擬態を意図も容易く見破っておりました」


 なるほど、だからキャリコを睨んでいたのかと納得しながらヒスイは首を傾げる。


「わざわざ自作自演までして、吸血鬼に……ジェイドに会おうとしている理由は何なのかしら……?」

「そこまでは。ただ、ご主人様が苦戦する相手ではないと感じます」

「……そうだったとしても、会わせて平気なの?」


 男が人狼だと教会の皆に言ってしまいたい、とヒスイは思った。しかしそれでは何故見抜けたのかという話になってしまいキャリコに迷惑がかかるかもしれない。ヒスイはゆるゆると頭を振る。長い金糸の髪がさらりと揺れた。


「……ご主人様は今、西の帝国モルゲンロートへ行っているのです」


 ぽつり、とキャリコが漏らした言葉にヒスイは肩を揺らした。ヒスイは、モルゲンロートに良い印象を持っていない。

 かの帝国の皇帝――魔王カタストローフェは、ジェイド欲しさにヒスイを誘拐し、その毒によって彼女を魔物に変えようとした恐ろしい相手である。


「ご安心を、ご主人様に危険が及ぶような案件ではありませんので」

「……そう、なら良かった」


 ヒスイの顔に分かりやすく浮かんだ不安に反応して、キャリコが即座に安心させる言葉を付け加えた。その言葉に、一応安堵はしつつも落ち着かないヒスイは運ばれてきたお茶に口をつける。


「先日、魔王から手紙が来たのです『牙に気を付けろ』と。ご主人様は詳しいことはお話にならず、ただ“確認しなければならないことがある”とだけ仰られ、出ていかれました」

「……牙」

「ええ。この状況を見る限り、あの人狼のことでしょう」


 キャリコは深い青色の目を伏せ、そう言った。


(ジェイドは、あの男のことを知っているのかしら。確認したいことって、それは人狼に関わることよね……?)


 両手で包み込んだティーカップの熱で心を落ち着かせながらヒスイは考える。西の帝国に、ジェイドは一体何を確認しに行っているのだろうか。

 今更ながら、あの男をジェイドに会わせることがとても不安になってきた。背を這い回る様な、不気味で嫌な予感がする。


 震えそうになるのを、ティーカップをぎゅっと握ることで誤魔化そうとするヒスイの手を、キャリコの手がそっと包んだ。

 その手は少しひやりとしていたが、ジェイドの手に似たその冷たさが、かえってヒスイを安心させたのであった。



―――――……



 場所は変わり、西の帝国モルゲンロートの端、打ち捨てられた荒野と呼ばれる場所に一人、場違いに美しい青年――ジェイドが立っていた。


 飢えた牙の様な荒さで駆け抜ける乾いた風が、夜闇から微笑む様な色を湛えた長髪を揺らしている。麗しの銀月の双眸は、微かな焦燥の色を乗せて、果てなく広い荒野を見渡していた。何かを、探しているようである。


(……やはり、あれの気配がない)


 彼が探していた気配は、やはりこの荒野にはなかった。それを確信した彼は次に荒野の端にある剥き出しの岩窟群へと足を運んだ。

 乾いた大地に無理矢理埋めようとして端が飛び出た様な姿をした巨岩の群。そのいくつかにはぽっかりと暗い穴が口を開けており、魔王を恐れてモルゲンロートから逃げてきた魔物たちの巣窟となっている。


 その内の一つ、傷ついた獣の臭いと憎悪に震えた魔力の残滓が漂う岩窟へ、ジェイドは躊躇いなく足を踏み入れた。

 薄暗い岩窟の冷たく湿った地面には、灰色の剛毛が散らばっている。それから、すっかり乾ききって今では黒い砂利と見分けのつかない血液の塊。そして――破壊された銀の足枷が二つ、傷んだ鎖と共に転がっていた。

 吹き込む風が、ここに繋がれていたものの怨嗟の声を繰り返し蘇らせる様に不気味な音を奏でている。


「……私を殺そうと言うのですか」

「だろうねぇ」


 ジェイドが溜め息混じりに吐き出した言葉に答える声が一つ。無邪気な黒を秘めた軽やかなアルトボイス。振り返れば暗がりで煌めく紅緑柱石レッド・ベリルの双眸が、喩え様の無い蠱惑を湛えてジェイドを見つめていた。


「カタストローフェ……」

「逃がしたのはボクじゃないよ? あの子ったら、君への憎悪だけでついに銀の枷を破壊したんだ。すごいよねぇ。二百年だっけ? それだけの間、枯れない憎悪をよく持ち続けたものだよ」

「……あれは私の敵ではありません。また私に挑むと言うのなら……今度は、情けはかけません」


 ジェイドの言葉に、少年の姿をした魔王は愉しげに笑った。立ち上がったジェイドにゆらりと近づいてきて、ほぼ真下から彼の顔を見上げる。


「どうかなぁ、案外分からないかも」


 白蝋細工の様な華奢で繊細な手がするりと伸びてきて、ジェイドの胸の辺りをトンと叩く。心臓、銀の杭を打ち込まれれば真祖とて命を失う危険がある吸血鬼の弱点。


「ここを晒す様な愚かなことは……」

「違うよお馬鹿さん、くふふ」


 胸元から上ってきた手がジェイドの長髪に触れながら首筋を辿り耳元へ。そこに揺れるまろく輝く翡翠の粒を爪先で軽くはじいた。


「今の君にはもう一つ、心臓があるじゃない?」

「っ!!」


 思わず少年の手を払い、数歩後ずさったジェイドの姿を見て、払われた手をふらふら振りながらカタストローフェは嗤う。


「早く帰ったら? あの子が待ってるよ」


 ジェイドはしばらく顔を顰めてカタストローフェを見ていたが、やがて彼の横をすり抜けて岩窟を出ていった。今夜には居を構えるハルザーレに戻るだろう。




「可愛いあの子はどうするかなぁ? 可愛くないあの子はきっと頑張ってジェイドに会おうとするよねぇ……」


 一人残されたカタストローフェは、地面に転がる銀の足枷をつついて呟く。


「殺されちゃうかなぁ。死んじゃうとしたら、ずるいなぁ、ジェイドは」


 命を懸けるほど愛した人を、涙で霞んで仕方がない目で看取ることなく、逆に、愛した人の涙を愛の証と浴して死ぬなんて。


「ボクも、そうしたかったよ」


 孤独な魔王は独り、日が暮れるまでそこに佇んでいた。

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