第13話.不気味な男
ヒスイは今、教会戦士たちと共に夜のハルザーレを見回っている。未だ冬の寒さは厳しく、吐く息は凍りつく様に白い。それでも耳元に揺れる翡翠の粒だけは暖かい気がして、ヒスイはジェイドのことを思い出しながら薄く微笑んだ。
その時、遠くから「助けてくれーっ!」と男の悲鳴が聞こえてくる。ハッと顔を見合わせた光神教会の者たちは次の瞬間には駆け出して、声のする方へ向かった。
細い抜け道をいくつか越えた先に、薄暗い通りがある。そこに漂う嫌な気配は魔物のものだ。
先陣をきって大剣を構えたザックが飛び出す。その後ろに両手に白い炎を纏わせたヒスイが続く。
ヒスイたちの目に、黒い身体に赤い目をした狼に似た魔物が三頭、破壊された木箱の隣に
「待ちやがれっ!」
「させないわよ!!」
ザックの大剣が、男の足を狙っていた魔物を斬り払い、ヒスイの炎が残りの二頭を焼く。悲鳴を上げる魔物へ「神はあなたの罪を赦すでしょう」といつもの台詞を呟いて、ヒスイは蹲る男に目を向けた。
自分自身を守る様に丸めた身体は細く骨張っている。しかし所々に野生的な筋肉のすじが窺えた。ぼさぼさに乱れた髪は艶のない灰色で、浅黒い肌には細かい擦り傷が沢山付いている。
「大丈夫ですか?」
怯えさせない様にそっと身を屈めて声をかけるヒスイ。魔物に襲われた人を落ち着かせるのも聖女の仕事である。見習いの内から人を落ち着かせる上手な話し方を覚えなければならない。
ヒスイの声に男が怯えた様にガバッと顔を上げた。珍しい金色の目が一つ、左目は大きな傷跡になっており潰れている。見た限り古傷なので、ヒスイは動揺しないよう努めて「魔物はもう討伐しました」と言った。
男の右目がきょろ、きょろ、と左右を窺う。そして魔物の姿が無いこと、教会戦士たちが大勢いることに気づいたのか小さくホッと息を吐き、そしてまた息を詰めた。
「あ、あいつは……?」
ヒスイは目を瞬いて首を傾げた。
(“あいつ”? もしかしてまだ魔物が?)
そう考えた彼女はザックを振り返る。その視線を受けて、ザックは頷くと数名の教会戦士を周囲の警戒に向かわせた。
ヒスイが男に向き直ると、また怯えた様に辺りを見渡しながら彼は言葉を続けた。
「あ、あれは、ま、魔物どもを操ってた! 吸血鬼だ……牙が光ってて、長い髪の、男の吸血鬼だった……!」
「「!!」」
ザックが後ろで驚きに息を呑む気配を感じ取りながら、ヒスイは別の意味で息を呑んだ。彼女の脳裏にジェイドの笑顔が浮かぶ。無意識に耳元に伸びる手に触れる翡翠の粒。
(どういうことなの……?)
新たな吸血鬼だとしたら、そしてそれが無差別に人を襲う吸血鬼だとしたら。そんなことはしないジェイドにも
ザックが厳しい声で「まずいな……」と呟くのを聞きながら、ヒスイは手をぎゅっと握り締めていた。
――――――……
吸血鬼が操る魔物に襲われた、と言った男を助けてから数日。光神教会の者たちは全員でその吸血鬼について考えていた。
「最近ハルザーレに出るのは狼型の魔物ばかりよ。南区寄りと北区寄りの教会にも訊いてみたけれど、やっぱり狼型ばかりみたいなの。変だわ」
聖女がそう言って、机に広げた地図に黒い点を書き込んでいく。それを見ながらザックが首を傾げた。
「妙だな……吸血鬼なら他の魔物も操れるだろうし、何より吸血被害が出てねぇ……それに貴族邸宅街にはまったくと言って良いほど被害が出てないな」
「狼型の魔物の使役に牙なら、人狼ってことも考えられませんか?」
ヒスイは学んだことを思い出しながら訊いてみる。聖女とザックは頷いた。
「ただ……それだと噛まれた人の被害報告が上がらないと不思議なのよね。勿論誰も噛まれないに越したことはないのだけれど」
「そうですよね……家畜が殺されたり、そういう被害も出るはずです」
「何か目的をもって動いているのかもな」
聖女は地図を睨み、ザックは腕を組んで天井を仰ぐ。ヒスイは地図の中の貴族邸宅街をじっと見つめていた。その中に佇むローレル伯爵邸。ジェイドの住む屋敷だ。
(ジェイド……どうしよう。ハルザーレに何が起きているの……?)
引き続き毎夜の見回りを、と言うことになり聖女とザックが自室に戻っても、ヒスイは揺れる蝋燭の明かりの下でじっと地図を見つめていた。
(……やっぱり明日、ジェイドに会いに行こう)
彼が人を襲うはずはない。しかし、彼ならば何か知っているかもしれない。ヒスイはそう考えながら部屋に戻り、不安の中で眠りについた。
――――――……
昼間、快晴の中ヒスイはハルザーレの貴族邸宅街にやって来た。やっと道を覚えたので地図無しでローレル伯爵邸まで行くことができる。
人が多く、わいわいと賑わっている大通りや住宅街と違って、貴族邸宅街はいつも静かであった。
(よし、ここだわ)
見慣れた屋敷の見慣れた門扉に安心して頷き、ヒスイは正門をくぐろうとした。
「だ、駄目だ、聖女さん!」
「きゃっ?!」
そんなヒスイの手を突然誰かが掴んで走り始めた。彼女が制止の声を上げても止まらず、引きずられそうになりながらついていくしかなかった。
大通りに出るとようやく足が止まる。ヒスイは「何なの……?」と顔を上げて、自分の手を引いている者の顔を見上げた。
「あっ、あなたは……」
「おーい、ヒスイー、忘れ物だぞ!」
そこへ遠くからザックが走ってきた。その手には何やら紙袋を持っていた。瞬く間に距離を詰めた彼はヒスイの手を掴まえたままの男に目を向けて「ああ、あんたか」と言う。
男は――先日「吸血鬼」のことを言った男は、金色の右の目を細めて「驚かせて、す、すいません」とヒスイに謝った。
「いいえ……でも、急にどうしたの?」
「そ、その……」
ヒスイがそう問いかけると男は言い
「ロ、ローレル伯爵が、吸血鬼です!!」
「はぁ?!」
その言葉に大きな疑問符を浮かべたのはザックだった。彼はジェイドがローレル伯爵であると知っている。そしてジェイドのことを信頼しているのだ。
「お前、何を根拠にそんなこと言ってやがるんだ?!」
つい声が大きくなったザックに、男は肩をびくつかせて「す、すいませんっ」と訳もなく謝る。
ごほん、と咳払いをしたザックは「……でかい声出して悪かったよ」とバツが悪そうな顔をした。それを上目遣いに見た男はきょろ、と左右を見てから戸惑っている二人に視線を戻した。
「昨晩、見たんです、ローレル伯爵が屋敷から出てくるとこを……その、その顔が、あの夜のあいつと同じで……」
「お前なぁ、それだけで……て言うか、何で夜に貴族邸宅街になんていたんだ。下手したら不審者って言われて取っ捕まるぞ」
「うっ……その、貴族邸宅街には、あまり魔物が出ないと聞いて……」
確かに、と頷くヒスイ。この男は、身なりからして住み処の無い浮浪者だろう。ならば夜は貴族邸宅街にいた方が危険が少ないかもしれない。
だがなぁ、とザックは言う。
「お前の記憶の中の顔だけじゃあとても証拠にはならねぇよ。確かにあいつ……ローレル伯爵は、話に聞く吸血鬼みてぇに綺麗な奴だがな」
「ロ、ローレル伯爵と、知り合いなんですか……?」
「おうよ。あいつぁ、ヒスイの――」
「ごほんっ! とにかく、私は有り得ないと思うわ!!」
ヒスイは咳払いしながらザックの脇腹を小突く。他人に関係の無い話をするな、ということだ。小突かれたザックは苦笑して口を閉じる。
「…………」
二人の言葉に男は卑屈そうな上目遣いでしばらく黙っていたが、やがて「……なら」と口を開いた。
「あいつに、銀を握らせてくださいよ」
恐ろしく凪いだ声だった。全ての感情を排した様な冷たい声。ヒスイはその声に獣の牙の迫る様な不気味さを感じて少し震えた。
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