第12話.穏やかな時間

 見てはいけないものを見てしまった様な心地に混乱を続けていたヒスイを、まったく何も起きなかったとでも言いたげな、静かにぬーんとした無表情で迎えに来たキャリコ。

 慣れない服装に緊張しながらも、つい彼女の尾骶骨辺りにちらちらと視線を送ってしまうヒスイであったが、何とか転ぶこともなく、導かれるままに一階の広間へとやって来た。


「!!」

「ヒスイ。お待たせしました」


 そこには平民が貴族の食卓と聞いて想像するような長すぎるテーブルは無く――いや、あったにはあったが、何故か端に押しやられていた――こじんまりと、言うなれば仲の良い二人が談笑しながら温かな食事を囲める様な四角いテーブルがあった。

 その上には赤い薔薇の花が飾られ、傍らに立っていたジェイドが嬉しそうに微笑んでヒスイを迎えた。


 さらりと流れる夜絹の髪がよく映える紺藍の衣装を纏い、胸元に控え目ながら職人の腕の良さが窺える白いジャボを飾っている。胸元と耳元で、まろく光を反射しているのは美しい翡翠だ。


「さあ、座ってください」

「え、ええ」


 ジェイドが引いてくれた椅子に緊張しながら座る。ヒスイはドレスのスカートを何度も気にして撫で付けながら、不安になってちらりとジェイドを窺った。


(何も言ってくれない……似合っていないのかしら……?)


 すると、向かいの席に腰を下ろした彼とばっちり目が合う。頬が紅潮するのを感じて、ヒスイは思わず目を伏せた。

 そこへ「すみません、ヒスイ」と申し訳なさそうな声が掛けられる。


「な、なにが……?」


 形の良い眉尻を下げて、ちら、とヒスイを見たジェイドは少しだけ頬を赤くして続けた。


「その、君が、あまりにも綺麗なので、咄嗟に……言葉が出てこなくて」

「え……」

「着飾ってくれた愛しい女性を褒められないなんて、私は恋人失格です……」


 その言葉の意味を理解して、ヒスイはボンッと首まで赤くなった。


「え、ええと……」

「失礼致します」


 そしてそんな甘酸っぱい空気の漂うテーブルへ、料理を載せたワゴンをごろごろ押してキャリコがやって来た。

 慌てて赤い頬を隠そうとするヒスイ、そして半眼になって溜め息を吐くジェイド。


「お食事でございます」


 しずしずと音もなく、手慣れた様子で食器を並べ始めるキャリコ。ちら、と彼女に視線を送ったジェイドは主人と使い魔の繋がりを通してヒスイには聞こえない言葉を呟く。


『キャリコ……』

『何か』

『……少し、空気を読んでくれても良いと思うのだが』

『ヒスイ様が限界のようでしたので』


 魔法契約の繋がりの上で言葉を交わしながら、キャリコはちらりと深い青色の目をヒスイに向けた。確かにヒスイは真っ赤になっており、美しい翠眼をぐるぐると落ち着かなく泳がせている。


『それに、私が来るまでそれなりの時間がございましたでしょう。その内にヒスイ様に真っ直ぐ言葉をお掛けになれなかったジェイド様の方が問題かと』


 本当に遠慮のない使い魔である。昔からこうだ、とジェイドはゆるゆると首を横に振った。向かいに座るヒスイはまだほわほわと落ち着かないので、聞こえない会話が聞こえなければ不審なはずの彼の動作に注意を払うことはなかった。


『……はぁ』

『私は協力は致しませんが、応援はしておりますので』


 決して動かぬ鉄面皮のまま、ぐっと拳を握って見せるキャリコ。まったくもって応援しているようには見えないが、これが彼女なりの悪戯っぽくニヤリとした顔であることをジェイドは知っている。


(まったく、可愛げのない)


 料理と食器を並べ終えたキャリコは一礼をして、またワゴンを押しながら去っていった。


 ふと視線をヒスイに戻すと、先程までふわふわしていた彼女はいつの間にか復活して卓上の料理をキラキラと見つめていた。

 その可愛らしい表情にジェイドはふっと微笑み「では食事にしましょう」と言って彼女がキラキラと見つめている料理たちを取り分け始めた。





「あー、美味しかった!」

「君の口にあって良かったです」


 食後のお茶を飲みながら、ヒスイは満足感ににこにこ笑っている。表面はパリッと中はジューシーに焼き上げられたメインの肉料理は勿論、引き立て役のサラダすらびっくりするほど美味しかったので、美味しいものが大好きなヒスイはたいへん満足した。

 硝子細工の様に繊細で夢の様に甘いスイーツも、年頃の女の子としてのヒスイの心を幸せに躍らせ、そして食後にキャリコが淹れてくれたお茶が現在進行形で彼女の心をギュッと掴んでいる。


「不思議。お茶なのに青くて、とても綺麗だわ」

「ブルーマロウティーと言います。ハーブティーの一種です」

「へぇ……」


 熱すぎない程よい温かさの魅力的な鮮やかな青色。キャリコは何故か三つ目のティーカップを用意して、先程そちらにも青いお茶を注いでいた。

 それを不思議に思ってちらちらそちらばかり見ていると、くすくすと笑ったジェイドに「手元を見てください」と言われる。

 小首を傾げて素直に自分のティーカップを見下ろしたヒスイは、そこにあった先程とは違う色に目を輝かせた。


「紫色になっているわ!」

「ブルーマロウのお茶は時間経過で色が変わるんですよ」


 少し前まで深海ふかみの青だったティーカップの中の水面みなもは、いつの間にか美しい紫色に変わっていたのである。


 すごいすごい、と喜ぶヒスイの肩を、キャリコの細い指が軽くつついた。見上げれば変わらぬ無表情。しかしヒスイはそこに悪戯っぽさを感じた。

 ヒスイの見つめる先で、キャリコは手元の小瓶から小さな匙で白っぽく濁った液体を掬い上げる。それをヒスイの口許に差し出して「どうぞ」と言った。


「えっ、ええと、これは何?」

「口に含めば分かります」

「わ、分かったわ」


 ジェイドが止めずにいるのだから危険物ではないはず。ヒスイは「女は度胸よ」と心の中で唱えて、小さな匙を口の中へ迎え入れた。


「ん……っ、すっぱい!!」


 白っぽく濁った液体は、搾りたてで新鮮なレモン汁である。きゅっと顔をしかめたヒスイは「ジェイド、分かってた、でしょっ……!」と文句を言った。


「すみません、つい」

「ふうぅ……びっくりしたんだからね……」


 口では謝りつつも、すっぱさにしかめられたヒスイの顔も可愛い、と笑顔になるのを止められないジェイドである。


「ヒスイ様、こちらをこう致します」


 眉をハの字にしたヒスイは、キャリコに声をかけられて彼女の手元に再び目をやった。

 新しい匙で再びレモン汁を掬ったキャリコは、それを三つ目のティーカップの美しい紫の上にポトリ、ポトリと落とす。


「あっ」


 その直後、紫色が突然ふわっと明るい桃色に変わった。それはまるで朝焼けの色の様で、驚きの変化にヒスイは思わず口許を押さえる。


「“夜明けのハーブ”、それがブルーマロウの別名です」


 キャリコはそう言って、桃色になったお茶に色の薄い蜂蜜をとろりと混ぜてヒスイに差し出した。朝焼けを飲む様な心地で、それは甘酸っぱく、とても美しかった。




―――――……




 鮮やかな陽光の様な金の髪を揺らす真昼の乙女と、夜の女神も嫉妬する様な黒藍の長髪を揺らす真夜中の主人である青年が、仲良さげに言葉を交わしながら連れ立って夜道を歩いている。

 それを遠く遠く、吸血鬼の真祖にも感じ取れないほどの遠くからじっと見ていた男はガリッと伸びた爪を噛んだ。


「ネフライティス……今更、自分だけ幸せになろうってかァ?」


 憎々しげに細められる片目は醜く潰れていた。銀月の目を持つ吸血鬼の真祖に怒りのままに抉られたのである。男は再びガリッと爪を噛んだ。


「オレ様の片目を奪っておいて……オレ様が増やしまくった人狼を片っ端から殺しておいて……今更自分だけェ?」


 男の全身の骨格が軋み、浅黒い肌が瞬く間に灰色の剛毛におおわれる。音に敏感な大きな耳と、ひゅるりと揺れた灰色の尾は狼のもの。


『殺してやるよォ……ネフライティス。その人間の女もろともなァ』


 月夜に灰色の巨狼が吼える。


 ギラギラと輝くのは右に一つだけの金色の瞳。燃える様な狂気の色を宿した危険な目であった。


 巨狼の顎が迫っていることを、聖女見習いと吸血鬼の真祖はまだ知らない。

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