第9話.吸血鬼の涙
ジェイドの唇が、軽く首筋の肌を撫でる様な感触の後、唐突に濡れた温かいものが肌を覆って、鋭利な何かがそこにつぷりと突き刺さった。
それは、気を失う前にカタストローフェにされた行為に似ていて、ヒスイは咄嗟に逃れようと身をよじった。
しかし、ヒスイの両手はジェイドの大きな手にしっかりと掴まれて、柔らかなベッドに押し付けられている。
「ジェイドッ……」
「申し訳ありません、ですが、必要なことなのです」
「何言って……っ、ひゃ!」
拒むように放たれた名前に、一瞬顔を上げたジェイドがそう答え、再び首筋に顔を埋める。その
(なんで、どうして、ジェイドは何をしているの?!)
ヒスイは混乱して、ベッドの天蓋を見上げていたが、静寂に満ちた部屋に時折響く様々な音がやけに大きく聞こえてしまい、真っ赤になって目をぎゅっと閉じた。
首元でジェイドが時折短い息を漏らす。近すぎるその音に耳を擽られ、ヒスイはビクッと肩を揺らした。
やがて、何かを吸い出される不思議な感覚は心地好い痺れに変わっていく。ヒスイはぼんやりして、薄く唇を開くと短く息を吐いた。
(何かしら……逃げたいとか、思わなくなってきたわ……変ね、ぼんやり、して……)
そう思った時、ジェイドが首筋から離れた。ゆっくりと上体を起こし、柔らかな銀月の瞳でヒスイを見下ろす。ぺろり、と唇を舐めた舌の赤さが何とも言えない妖しい艶かしさで、ヒスイはこれ以上は赤くなるまいと思えるほどにまで顔を紅潮させた。
(吸血鬼、だわ……)
羞恥心と、切ない心持ちの中、ヒスイはそう確信した。悲しいとは思わなかったし恐怖心も覚えない。ただひたすらに……と彼女はゆっくりと手を差し伸べた。
「……綺麗、ね」
頬に触れたヒスイの手と、目を細めて告げられた言葉にジェイドは目を見開いた。
それから、顔を苦しげに歪めた彼は頬に触れているヒスイの手に自分の手を重ねて泣きそうな声で「ヒスイ……」と呼ぶ。
「私は、嘘をつきました」
「……ええ」
「ハルザーレの吸血鬼は、私です」
「そうみたいね……」
「私は、君の敵に、なりたくないっ……」
ついに、耐えきれなくなった一滴がヒスイの頬に落ちてぱら、と砕けた。
(吸血鬼の涙も、温かくて透き通っているのね)
罪を告白するように、震える手で自分の手に触れているジェイドを見上げながら、ヒスイは困ったように微笑んだ。
今までにどんな罪を犯してきた吸血鬼だろうと、自分は、こうして震えながら涙する青年が愛おしい。孤独に誰よりも近く、死から誰よりも遠い。それなのに拒絶されることを恐れているその目は、まだ、人と同じ光を宿している。
「私も同じ。あなたの敵に、なりたくないわ」
「っ……」
「どうしてか、あなたが好きでたまらないの。聖女見習い失格かしら?」
苦笑して見せると、ジェイドはついにくしゃりと顔を歪めて、涙をこぼしながらヒスイの上に突っ伏した。その背に腕を回して、優しく
「大好きよ、ジェイド。あなたが何だろうと、構わないくらいに」
「私も、君が好きです、ヒスイ……たまらなく、どうしようもなく、君のことが愛おしいんです」
そうしてジェイドはしばらくヒスイの上で泣いた。ヒスイは彼の背を、彼が泣き止むまで優しく
―――――……
モルゲンロートへ移動した時と同じように――唯一違うのはヒスイが一緒ということ――影の中を駆けたジェイドは、すっかり日が暮れて夜になったハルザーレに戻ってきた。
黒々とした影からザバッと、まるで水から上がる様に飛び出して、ジェイドは自分にしがみついていたヒスイを見下ろす。
「ヒスイ、着きましたよ」
「ほ、ほんとう?」
「ええ、本当です」
何故か自分の胸元に顔を埋めたままおずおずと問うヒスイに、ジェイドはその肩を優しく撫でながら答えた。
どうやら影の中を駆けるのは彼女にとって少し怖いことだったようである。ジェイドは決して落とさない、と約束したが、駆けている間、彼女は絶対に外を見ないようジェイドにしがみついていた。
眉をハの字にして自分を見上げるヒスイの姿に、申し訳なく思いつつも「可愛らしい」と頬が緩んでしまう。そんな思いのままに彼女の額に軽く触れるだけのキスを落とすと、その顔は分かりやすく真っ赤になった。
「ジェ、ジェイド……」
「何ですか、ヒスイ」
ぷるぷると震え出したヒスイに、微笑んだまま問いを返すジェイド。震える様も小鹿の様で大変可愛らしく、ジェイドの機嫌は最高に良くなっていく。
「きゅ、急にそういうことしちゃ駄目……」
ヒスイはそう言ってぱたりと力尽き、ジェイドの胸に顔を埋めた。ぱちくり、と驚いて目を瞬いたジェイドは、やがてその美貌に
「それは無理です。私は君が愛おしくてたまらない。君が可愛いから仕方がありません」
「うぅぅ~……」
ジェイドが抱擁を解いてもヒスイはその胸に引っ付いて離れなかった。彼が示してくれる愛情が嬉しく、しかし照れてしまって顔を上げられないのである。
(ど、どうしよう)
紳士的な彼はヒスイを無理矢理引き剥がすようなことはしないが、いつまでもこうしてはいられないだろう。
「ヒスイ」
「ま、待って。あと少し」
「そうですか……しかし、教会の皆さんが心配していると思いますよ」
「あっ!」
そう言えば自分は昨夜の討伐の最中に拐われたのだと思い出したヒスイは、ガバッと顔を上げてしまった。そして真上からにこにこと見下ろしてくるジェイドとの距離に赤面した。
「そう、そうよね。帰らなきゃ……」
「はい。送っていきます」
「ありがとう」
自然に手を握られ、ヒスイは唇をギザギザに引き結んで真っ赤になったまま歩き出した。
二人が教会に到着すると、西区ハルザーレだけでなく王都全域を駆け回ってヒスイを探していた戦士たち、聖女がちょうど悲痛な表情で作戦会議をしていて、ヒスイは聖女に抱き締められ、ザックに持ち上げられて皆に泣かれた。
あの強敵から(彼らが知らないだけであれは魔王である)ヒスイを取り戻したとして、ジェイドの力量に感動したザックが教会戦士に勧誘していたが、彼は吸血鬼なので困り顔で「他にすべきことが」と断っていた。
「また来いよー!」
「ヒスイが喜ぶからなー!」
「そうだぞー!」
「ちょっと、皆変なこと言わないで!」
笑顔の教会戦士たちに見送られ、帰路につくジェイドと並んで歩くヒスイは冷やかしの声に振り返り抗議した。
ふん、と可愛らしく鼻を鳴らして前を向くヒスイに、ジェイドは小首を傾げて訊ねる。
「私がここへ来ても、君は嬉しくありませんか?」
「えっ、あっ、あれは違うの。そんなことはないわ! むしろ嬉しくてたまらな……」
慌てて否定したヒスイは言いながらジェイドを見上げて、その
(つい全力で正直に言っちゃった! しかもジェイド、笑ってるし。恥ずかしい……)
むしろ誘導尋問にも似た問いだったのだが、ヒスイは目の前の照れと羞恥に頬を染めていて気づかない。
勿論そのつもりで訊ねたジェイドはにこにことご機嫌だ。吸血鬼なのに、これは本当に教会に通いかねない様子である。
「……だ、だから。き、来てくれたら、歓迎する、から」
「ふふ、ありがとうヒスイ」
華やかな美貌に花がほころぶ様な柔らかい笑みが浮かんでいると、その威力は凄まじく、何でも頷いてしまいそうになる。
「そう言えば、君を一度私の屋敷に招待したいのですが」
「お屋敷?」
「ええ、ハルザーレの貴族邸宅街に」
「わぁ、すごい……」
「……来て、くれますか?」
ヒスイはすぐにこくりと頷いて、勿論と答えたのであった。
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