第8話.悠久の孤独
闇を纏ったジェイドの拳が、少年にあと少しというところで見えない何かに衝突した。
憤怒の形相でそこから更に拳を押し込もうと力を込めるジェイドに、見えない障壁の向こうで少年が「くふふ」と笑う。からかう様に、細い指先でヒスイの頬を
「君がボクのものになるなら、この子を助けてあげてもいいよ?」
さぁ、どうする? と小首を傾げる少年――カタストローフェに、ジェイドは顔を顰める。そして拳から障壁に魔力を叩きつけた。
見えない障壁が、彼の拳の触れている所からパキパキと氷に覆われていく。ジェイドが持つ冷たき麗氷の魔力だった。
「くふふ、ボクね、君の
「っ!!」
「でもやっぱりボクには敵わないよ」
直後押し寄せる津波の様な勢いの魔力。障壁を覆った氷ごと、ジェイドは後方に吹き飛ばされた。しかし宙でくるりと体勢を整えて、壁に両足を着いて一瞬止まる。
さやりと長髪が流れ、重力に従って肩から落ちていくまでの短い間、そこでカタストローフェを睨み付けた彼は、力を込めて壁を蹴り、再びカタストローフェに襲い掛かった。
ジェイドの中で膨れ上がった魔力が、今度は闇色になって右手に纏う。優美な指先から、吸血鬼の獣性を表す様な爪が伸びて黒く染まった。そのままその爪でジェイドはカタストローフェの障壁を破る。
「わっ、怒ってるからかな? 相変わらず惚れ惚れする魔力だねぇ」
少年はふざけるように言って、ふらりとのけ反ってジェイドの爪を避けた。
「……あれ?」
その直後、両膝から重みが消えて、カタストローフェは首を傾げ、のけ反りから体勢を戻す。見れば膝の上にヒスイの姿がない。
振り返れば、カタストローフェの上を通過してその後方へ着地したはずのジェイドが、前方でヒスイを横抱きにして立っていた。なるほど、一瞬のすれ違いで奪われたらしい。
「速いね。流石だ」
ジェイドは青褪めたヒスイの顔を覗き込み、まだ
(思ったより進行が遅い。これなら助けられる)
そう考えて、彼はカタストローフェに目を向ける。これでもう焦りはない。
恐らくヒスイの中の退魔に特化した魔力が身体を作り替えようとするカタストローフェの魔力に対抗しているのだろう。運が良かったとしか言いようがない。本当に、幸運だった。
そしてジェイドは薄く微笑んだ。
「この手段では、私がどちらを選んでも貴方の望むものは得られないでしょう、魔王カタストローフェ」
意味が分からない、とカタストローフェは深紅の目を細める。そんな彼に、ジェイドは続けた。
「私が彼女を見捨てれば、私は貴方の手に落ちず、かと言って私がヒスイのために貴方の
そう言われて、カタストローフェは目を見開いた。それから「くふふ、ふふ、あはははっ」と笑い始める。
ひとしきり笑って、不意に天井を見上げた彼は大きく息を吐いて「なるほどね」と呟いた。
「……つまんないの」
ふらり、とカタストローフェが視線をジェイドに戻す。
「ボクは君が欲しいだけなのに」
「お断りです」
「……そう」
直後、ざわりと少年の影が広がって爽やかな白とミントグリーンで統一された部屋を覆い尽くした。
生物的な気配がある黒々とした影は、息づく様にざわざわと黒の表面を蠢かせている。それに見覚えのあるジェイドは、身を固くしてヒスイを抱く腕に力を込めた。
「ここで、その子ごと、君を呑んでしまおうかなぁ……」
この黒は、魔王の本性である。大いなる神々が地上を去り、人の世が始まった頃に勇者によって封じられた邪神の力を取り込み、人でありながら人ではないものになった魔王の、強大で禍々しい、人ならざる力の発露であった。
カタストローフェは、この力によって西の大帝国モルゲンロートを建て、人から在り方を歪めて作った魔物を、影に忍ぶ手駒にして悠久の時を生きているのである。
その生の始まりから、冷酷な夜闇の王たる吸血鬼の真祖であったジェイドを、カタストローフェは昔から手元に置きたがっていた。
それは恐らく、悠久の時を生きる――終わりのない、独り残されるばかりの生を歩む者としての寂しさゆえでもあったのだろう。
その誘いを、ジェイドはこれまでずっと断り続けてきた。闇を友に、夜に憩い、月光に浴する吸血鬼としての生活は、彼にとって決して寂しいものではなかったし、丁寧な物腰の裏に攻撃的で誇り高い性格を宿していた彼は誰かの下につき、従うということを良しとしなかったのである。
(しかし今は……)
両腕に
自分の魔力によって歪んだ空間に迷っていた少女との出会いが、これほど自分に変化をもたらすとは。
彼女の微笑みが、ここまで愛しいものに感じるようになるとは思わなかった。
(ヒスイ、君の声が聞きたい。だから必ず、助けて、ハルザーレに戻ります)
そんな相手に、永遠と言う名の時間の牢に囚われる生をもたらしたくなかった。そして、たとえそれが散る火花の如し短い
(離したくない)
ジェイドは覚悟を決め、真剣な色を帯びた銀の双眸で魔王の虚ろな目を見据えた。
それを受け、カタストローフェは、ふっと目を伏せる。
「どうせ、その子も君を置いていくのに」
その声に、いつかの魔王が叫んだ“置いていかないで”という声が重なって聞こえた。
だから、だからこそジェイドは薄く微笑んで見せた。有明の月が最期に降らす光の様に、儚く美しい、柔らかな微笑であった。
「……残されることは、恐ろしく
「馬鹿なの」
「……ええ、そうかもしれませんね」
ざわり、と影が引き潮の様に魔王の下へ戻っていく。同時に、肺腑を圧迫するような威圧感も去っていった。ジェイドはこっそりと詰めていた息を吐く。
「君が、人間相手にそんなこと、言う日が来るなんて」
「私も予想していませんでしたよ」
「……勝手にしなよ。久しぶりに、疲れた」
そう言ってカタストローフェは立ち上がると、憂鬱な表情のままふらふらと歩いて部屋を出ていった。ばたん、と扉が閉じる音が部屋に残された。
危機は去った。短く安堵の息を吐いたジェイドは、寝台にヒスイをそっと寝かせて腕を組んだ。
青褪めた白い顔を囲むふわりとした柔らかな金髪。その毛先が、微かに淡く銀色に変じている。
(他の人間より魔王の毒に耐性があるとは言え、少しずつ変化が現れている。ハルザーレまで戻る余裕はなさそうだ……ここで処置をしていくべきでしょうか)
そう考えたジェイドは、横たわるヒスイの上にゆっくりと上体を屈めた。流れる様にこぼれ落ちる長髪を優美な指先で耳に掛け、吐息の触れ合う距離へ。
注ぎ込まれた毒は、すぐに排出せねば身体を変化させる。ヒスイの魔力が体内で燃えているのを感じるので、恐らく自力で少しは毒を殺しているはずだ。
(ならば問題ない)
白い柔肌に点々と付いた紅い痕。魔王の毒牙が突き刺さったことを示すそれに、ジェイドは労る様に触れた。
血中に混ざり、体内を駆け巡る毒を排出するには、この場で特殊な魔力をもって血液ごと吸い出すしかない。そして常人には無理であろうその方法は、吸血鬼であるジェイドにとって造作もない行為である。
(できることなら、君を噛みたくはないのですが……許してください、ヒスイ。私は、また、君の美しい翠眼を見たい)
そう思いながらヒスイを見つめる彼の髪が、不意にさらりと一筋こぼれてヒスイの頬を
「ん、くすぐっ、たい……」
「!!」
長いまつ毛に縁取られた目蓋が震える。そしてゆっくりと持ち上がったその後ろから、ジェイドが焦がれた至高の翡翠の色が姿を現した。
ぼんやりとした表情のまま、ヒスイはしばらく視線をさ迷わせていたが、やがて何度か瞬きを繰り返した目の焦点がジェイドの双眸に定まった。
「……ジェイド?」
「っ、ヒスイ……」
そして、再び何度かぱちぱちと瞬きを繰り返したヒスイは気づいた。
(えっ、私どうして……いいえ、それより何故ジェイドが、覆い、被さって……)
状況を把握した彼女は、目の前で嬉しそうに目を細めた美貌の青年を見つめ返して固まり、そしてかぁぁと赤くなった。
「ま、まって……」
ぷしゅー、と頭が限界を迎え、ヒスイはぐったりと目を閉じた。まったくどうしてこうなっているか分からないが、起き抜けに彼の美貌が目の前にあるのは心臓にとても悪いし、体内で魔力がぐるぐる回転しているのもあって、とても疲れてしまった。
「ヒスイ……? 大丈夫ですか? やはり毒の影響でしょう、早く取り除かなければ……」
真っ赤になって再び目を閉じてしまったヒスイに困り顔をしていたジェイドは、言ってからはたと気がついた。
(今処置をしたら、ヒスイに、私の正体がバレてしまう……!)
さぁぁぁ、と青白い顔を更に青褪めさせて、しかし彼は「それでも」と首を振ってから頷いた。
「――……ヒスイ、私の嘘を許してください」
「えっ……?」
そして彼は、薄く開いた唇で懺悔する様にヒスイの白い肌にキスを落とし、彼女が反応する余裕を与えずに口を開いて、その首筋に噛み付いた。
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