第7話.疾走

「なんて、硬いの……」


 ぜぇはぁと荒い呼吸をしながら、ヒスイは持っていた椅子を床に戻した。一人掛けとは言え、明らかに高級なそれは素材からして重く、ずっと持って振り回すには向いていない。


 どう見ても薄いはずの窓ガラスは、その見た目を裏切って非常に頑丈で、ヒスイが椅子の足や背を何度か思いっきり叩き付けたのに、ヒビも入らなかった。


(ガラスに強化系の魔法でもかかっているのかしら……? とにかく、窓を割る作戦は失敗ね)


 ヒスイは溜め息を吐き、寝台にぽすんと腰掛ける。どうしたものかと腕を組んで、使えるものが無いか部屋の中のものに目を走らせた。


「君って結構やんちゃなんだねぇ」

「っ!!」


 再び、ヒスイを驚かせる様に急に投げかけられたアルトボイス。慌てて立ち上がり振り返れば、大きな寝台の向こう側に白皙の美少年が横たわってニコニコとヒスイを眺めていた。


「君がどう頑張ってもこの部屋からは出られないよ」

「……やってみなきゃ分からないでしょ」

「やってみても同じだよ」


 じっと睨むヒスイの視線は気にならない様で、少年は笑って身を起こす。


「でも一つだけ、出られる方法があるよ」

「…………」

「どんな方法、って訊かないの?」

「信用できないもの。それに、変な条件付きだったら困るわ」

「賢いねぇ。ま、関係無いけど」


 その言葉の直後、ぶわりと少年の魔力の威圧感が膨れ上がり部屋を満たした。あまりのことにヒスイは凍りつき、目の前で変わらず微笑んでいる少年を見つめていることしかできない。


「動かないでね? 君を今すぐ変えて・・・あげるから」

「っ、な、なに……」


 立ったまま固まっているヒスイに、少年はにんまりと笑った。柔らかな寝台の上に膝立ちになった少年が、ゆっくりとにじり寄ってくる。


「大丈夫、痛くしないから」

「いやっ……!」


 少年の細腕がするりとヒスイの首に回された。唇が触れ合ってしまいそうな距離で鮮やかな深紅の瞳が煌めいている。その中できゅっと細くなる瞳孔。少年は震えているヒスイの耳元で低く囁く。


「ボクはモルゲンロートの皇帝カタストローフェ。可愛い君を、ボクの駒にしてあげる」

「っ!!」


 そして艶かしい赤の口腔が開き、ちらりと覗いた白く鋭利な牙が、ヒスイの首筋に突き立てられた。



―――――……



 西の帝国モルゲンロートの夕暮れ、黄昏のやわく曖昧な闇の中を、黒い何かが恐ろしい速さで駆けている。


 塀の上で寝ていた白猫は、その何かが駆け抜けた後の一陣の風にぱちりと目を開けて、風の名残にふわりと漂う翡翠の粒の様な光を不思議そうに眺めた。

 緑光を乗せた風は、どうやら皇宮へ突き進んでいくらしい。建物や生き物の影の中を駆けていくものを青い目を丸くして見つめ、猫は大欠伸おおあくびをする。

 嫌な風ではなかった。ならばいいか、と猫らしい思考でもって白猫は再び目を閉じる。


 白猫が再び眠りの世界へ落ちていく短い間に、風を伴って駆ける黒いものは皇宮の門を荒々しく破壊して、見張りの兵士を吹き飛ばしていた。





(ヒスイ、どうか無事でいてください!)


 皇宮の敷地に勢いよく侵入し、ようやく地を這う影から飛び出したジェイドは、銀月の目を辺りに向けて必死にヒスイの気配を探った。

 ハルザーレを飛び出して、隣国モルゲンロートの都まで影の中を風より速く駆けてきたが、夕方になってしまった。


 駆けている間に心を掻き乱したヒスイへの想いは、そのまま“間に合わないかもしれない”という焦燥感に、そしてその焦りが“ヒスイが大切だ”という気持ちの再確認となって、ジェイドは自分の頭の中が滅茶苦茶になった様な気分であった。


「貴様ッ、ここをどこだと――ガッ!!」

「――黙れ」


 集まってきた衛兵の先頭で、ジェイドからしてみれば子供の玩具の様な柔い槍を突き付けてきた者の背後に一瞬で回り込み、すらりと長い足で蹴り飛ばす。

 靴の裏に背骨が砕ける感触が伝わってきた。しかし今までであったら気分が晴れたであろうその感触すら、今のジェイドには苛立たしかった。


「っひ、お助けっ……」


 蹴り飛ばされた男の姿を見たこと、そしてジェイドが怒りのままに放っている魔力の威圧によって、座り込んで後退りする衛兵たち。ちら、とそれを一瞥したジェイドは、一番近くにいた青年の頭を掴んだ。


 恐怖に目を見開き、言葉にならない音を口から漏らす青年に顔を近づけ、ジェイドは自分の両目に魔力を込める。

 下からざわりと深い緑色に変じる銀月。それに気づいて、青年が「す、翠眼の吸血鬼っ……」と引き攣る様な声を出した。


「答えろ。魔王は、カタストローフェはどこにいる?」

「し、しりませんっ……許してください、殺さないで……」

「――役立たずが」


 頭を掴んだ手に力を込め、苛立ちのまま石畳にそれを叩き付ける。白い石畳にパッと赤が散ったが、どうやら息はある。ジェイドは翡翠の色に染まった双眸をそのままに、他の衛兵の方を向いた。


「ここに、カタストローフェの居場所を知る者はいないのか」


 狂暴な深緑から放たれる魔力が衛兵たちの視神経を伝って脳へと流れ込んでいく。それは意識をぼやけさせ、思考を砕く魅了の魔眼、吸血鬼の真祖特有の技であった。

 それでも恐怖に固まったままでいる衛兵たちに、ジェイドは「時間の無駄だった」と歩き出そうとした。


「――に、西の」


 ぴたり、と足を止める。丁度吹いた風に黒藍の長髪を翻し、ジェイドは声のした方を振り返った。衛兵の一人が、真っ青な顔で震えながら口を動かしていた。壮年の男であった。


「西の暁天宮の、幽閉塔に、い、いらっしゃるはず、だ……」

「…………」


 その言葉を受け、ジェイドは顔を上げて皇宮の西側に目を向ける。三本ある塔のそれぞれを、限界まで力を込めた目で見据えた。


(……っ!!)


 真ん中の塔で、消えてしまいそうな白い炎が揺らめいた気がした。それを禍々しい黒赤色が包み込もうとしている。


「ヒスイ……!」


 間違いなく彼女だ。そして、魔王カタストローフェがそのそばにいる。


 そう確信した直後、ジェイドは石畳の地面を強く蹴った。

 一気に周囲の景色が溶け、次の瞬間には暁天宮の屋根に足が着く。そのままもう一度跳躍、強化魔法の掛かったガラス張りの窓を、宙で回転を掛けた蹴りで破った。


 砕け散るガラスの破片と共に塔の内部へ飛び込んだジェイドは、バッと顔を上げ、そして目の前の光景に言葉を失った。


「あれぇ? 遅かったねぇ、ジェイド」


 天蓋の白い布が開かれた寝台の上に、白皙の美少年が座っていた。完璧な微笑みを浮かべる口許は妖しく、濡れた様に紅い。


 その膝に頭を載せて、横たわる乙女の姿にジェイドの目は釘付けになった。


「っ、ヒスイ……」

「君が遅いから、もう、やっちゃった。くふふ、この子はどんなモノになるかな? 楽しみだねぇ」


 華奢な肩から寝台の上へ流れ落ちる鮮やかな金の髪。固く閉じられた目蓋、血の気の失せた頬。髪の合間に覗く白い首筋に、点々と二つの紅い小さな傷痕が見えた。


「っ、カタストローフェッ!!」


 怒りと共に叫んだジェイドは、冷気と闇の魔力を纏って少年に飛び掛かった。

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