第6話.西の帝国

 不意に鼻腔をくすぐった甘やかな香りにヒスイは目を覚ました。ぼんやりと白い天蓋を見上げて、それから意識を失う前のことを思い出した彼女は飛び起きる。


(ここはっ……あれからどのくらい経ったの?)


 ヒスイは身を起こしながら、 自分が女性神官見習いとしての黒の衣装ではなく、上質な白のネグリジェを着ていることに気づいた。

 ここはどうやら天蓋付きの大きなベッドの上らしい。天蓋用にしてはやけに重々しい布が全面を覆っているので外の様子は窺えなかった。

 ゆっくりと音を立てない様にベッドの上を移動して、ヒスイは天蓋の布をそっと少しだけ捲る。


(もう夜が明けているわ……日は、かなり高い。昼近いわね……)


 清潔感のある白とミントグリーンで統一された室内。窓から差し込む陽光の様子から大体の時間を把握する。

 部屋の中にある調度品はどれも田舎育ちのヒスイが見ても一目で高級と分かるものばかり。貴族の令嬢に与えられる部屋のようである。

 ここからでは扉を見つけることはできなかった。ヒスイは他人の気配も無かったので恐る恐るベッドから出て、天蓋の外へ踏み出した。


 毛足の長い絨毯が素足を優しく受け止める。その感触に「逃げる時のために靴が欲しい」と考えながら、ヒスイは素早く扉を見つけるとドアノブに飛び付いた。


「……やっぱり開かないわよね」


 軟禁状態であることを理解して、彼女は大きく溜め息を吐く。


「何かでこじ開けよう……」

「可愛い顔して、なかなかたくましいねぇ」

「!!」


 背後から掛けられた聞き覚えのある楽しげなアルトボイスに、ヒスイはガバッと振り返った。


 先程まで誰も座っていなかったはずの一人掛けのソファーに、銀髪紅眼の少年がすらりとした細い足を組んで座っていた。

 月がこぼした涙を集めて紡いだ様な完璧な銀色の髪。神の心臓の如く何よりも紅い目の中に、猫のものを連想させる縦に細い瞳孔が見える。

 硝子ガラス細工の危うい儚さ、薔薇の肉厚な花弁と濃密な魅香に似た気配を持つ白皙の美少年であった。


「くふふっ。おはようヒスイ。よく眠れたみたいだね」

「あなたは、何者なの」

「まだ秘密。君が変わったら・・・・・教えてあげる」


 意味の分からない言葉の真意を探ろうと少年の目を見つめるヒスイに、ただ愉しそうに微笑みかける少年。


「……ここはどこなの?」


 沈黙に耐えかねたヒスイが漏らした疑問に、少年は笑みを深めて答えた。


「西の帝国モルゲンロートの皇宮だよ」


 ヒスイがいたハルザーレから、遠く離れた隣国の名前であった。



――――……



 にわかには信じ難い話に、呆然としてしまったヒスイをそのまま放置して、少年は現れた時と同じように一瞬で姿を消した。


(ここはモルゲンロートなの……? 嘘だという可能性は……いいえ、嘘をつくメリットが無いもの。有り得ないわ)


 つまり本当にここは故国から遠い西の大陸の、魔王が支配すると言われる暁の名を冠する大帝国モルゲンロートなのだ。

 ヒスイはずるずるとその場に座り込んで膝を抱えた。何も分からないままに、遠い異国の地に連れてこられて、ひとり囚われているのである。


(泣いては駄目、泣いては駄目よ……)


 熱くなる目を膝に押し付けて必死に涙を堪える。一人きりで泣いてしまったら、きっともう立ち上がれない。


(おばあちゃん、私に力を貸して……)


 ヒスイの白炎では、この場から逃れることは叶わない。あれは退魔の力しか持たない、人間や無機物相手にはまったく攻撃力を発揮しない魔力なのだ。それでも、心の中で祖母に言われた言葉を繰り返す。


(真っ直ぐ進めば、必ず光は見えてくる。だから大丈夫。諦めさえしなければ、大丈夫なのよ)


 その言葉が胸の内で温かな炎となる。どんな相手であれ、この炎を失わなければ大丈夫だと感じるそれは、祖母から母へ、そしてヒスイに受け継がれた東の果ての希望の光だ。命を懸けて願えば、奇跡を成すと謳われる白。


「負けないわよ。私は必ずハルザーレに帰る。そして聖女になって、母さんのところへ帰るんだから」


 そう言ってヒスイは立ち上がった。その目に涙の揺らめきは無く、ひたすらに真っ直ぐな輝きがたたえられている。


「よし。まずは……」


 ヒスイはちらりと窓を見た。


「窓を割ってみましょう」


 負けるものかと宣言したヒスイという少女は、なかなかに行動的であった。



――――……



 その頃ハルザーレ。

 王宮がある王都の中心部に近しい地区には貴族の邸宅がいくつか並んでいる。これらは基本的に別邸であり、本邸はそれぞれの領地に構えられている。


 その内の一つに、ローレル伯爵と呼ばれる男の邸宅があった。正体不明、いつの間にかこの国に現れた謎の伯爵。明らかに怪しい。


 しかし彼に敵対すると不幸が降りかかること、伯爵位を得ていても政治には関心がないことから『まつろわぬ伯爵』と呼ばれ、社交の場にも出てこないので誰も彼のことを知らなかった。



 そんなローレル伯爵――銀眼の青年ジェイドは、カーテンを閉めきって差し込む白い陽光を遮った薄暗い部屋の中、大きな寝台の上に横たわっていた。


 眠ってはいないが、銀月の様な両目は閉じられている。長いまつ毛が白い頬に微かな影を落とし、額に掛かる黒藍の髪がその硬質な美貌に何とも言えない色香を醸し出させていた。

 白いゆったりとした服の襟元に覗く鎖骨から胸元へのラインは完璧で、巨匠の手による神をかたどった彫刻も敵わないであろう美しさである。

 そして肩から背へ、胸元へと流れ落ちる黒藍の長髪。夜の女神も嫉妬するであろう艶やかな宵闇の色は、乱れる一筋すら妖しく艶然としていた。


 玉容と言っても差し支えない、いやそれではたとえるに足りないほどの麗質。真の意味で人ならざる彼に相応しい、血の気の無い白皙の美貌であった。



 凄絶なまでの玉貌が、不意にきゅっと不満げに眉根を寄せる。そしてうっすらと開かれる銀月の瞳。その射る様な視線の先には分厚いカーテンに覆われた窓があった。


「…………」


 ジェイドは無言で身を起こした。さらさらと重力に従ってその肩を滑る髪が悩ましい。


「……出てきなさい」


 彼がおもむろに発した言葉を受け取る者はいないかと思われたが、しばらくの間を置いて、カーテンの裏から一匹の蝙蝠こうもりが飛び出てきた。

 やけに紅い瞳をした黒い蝙蝠である。パタパタと独特な動きで飛んできたそれは寝台の上、ジェイドの隣に降り立った。


『やあジェイド。元気?』


 そして蝙蝠の口から、軽やかで愉しげなアルトボイスが飛び出した。それを聞いてジェイドは驚くでもなく、しかし少しばかり不快そうに眉をひそめる。


「……変わりありませんよ」

『そーなの? くふふ、本当に?』

「勧誘でしたら何度も言っていますがお断りします。私は、貴方の手駒になる気はありません」


 ざわりと魔力を蠢かせて、ジェイドは低く威嚇した。それでもその口調は静かであり、感情を露にする気配がない。

 蝙蝠の口を借りて語る少年――魔王は、ジェイドのそんな反応を気にする様子もなく『くふふ、つれなーい』と笑っている。


『ボクね、ジェイドがボクのところに来てくれないから色々考えたんだけどさー』


 小さな蝙蝠は身体を左右に揺らし、合間に蝙蝠そのものの声でヂィヂィ鳴いた。


『ジェイドが好きなものを同じ・・にすれば、ジェイド、嬉しいよね?』

「……何のことです」


 ジェイドは蝙蝠を見下ろした。紅い目をにんまり細めて、笑うはずのない小動物がニヤリとわらっている。


『聖女見習いがボクたちと同じ・・になったら、どうなるかな?』


 ジェイドは目を見開いた。




 直後、蝙蝠の小さな身体はジェイドの右手に握られていた。


「どういうことだ……まさか、彼女に手を出したのか」

『くふふっ。そういう反応するってことはやっぱり好きなんだね? かーわいい』

「答えろ」

『そう焦っちゃダメだよ? 大丈夫、すぐに君と同じ・・にしてあげるからね』

「っ、待て!!」


 愉しげに告げられた恐ろしい話にジェイドはそう叫んだが、その時には魔王の意識は蝙蝠の身体を抜け出ていて、彼の手の中ではただの蝙蝠がヂィヂィ抗議の声を上げているだけだった。


「……ヒスイ、すぐに助けます」


 この焦燥感、そして恐怖によってジェイドは確信した。


 どうやら自分は、あの少女をいつの間にかかなり好いていたらしい。

 翠眼の吸血鬼ネフライティスとして長年に渡り人々に恐れられた自分が、ただの人間の少女を。


(やはり私はどうかしてしまったのだ)


 そう思いながら、ジェイドは急いで部屋を飛び出した。向かう先は隣国。暁の名を冠する大帝国モルゲンロートだ。

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