第4話.近づく距離

 それからと言うもの、ヒスイとジェイドはお互いにその偶然に苦笑するほど、昼間からよく遭遇することになった。


 買い出しに行けば、散歩をしに来たと言うジェイドに出会い、魔物の討伐が早く済んだ夕方に街を散策していれば噴水のある広場で猫をこねるジェイドに会い……

 会う度に会話やら、買い物やら、少しの時間を共にすることが増え、二人の仲は自然と深まっていった。


「私たち、びっくりするぐらい会うわね。ハルザーレは決して狭くないはずなんだけど……」


 十回に届こうとしている邂逅によってお互いに慣れて、敬語は必要ない、と言われたヒスイはそう呟いた。ここはハルザーレの中心部、いくつかの大通りに繋がる公園である。


「そうですね……ふふ、可愛らしい」


 対して、彼の常の口調として敬語の取れないジェイドが適当な返答を寄越す。それも仕方がない。彼は今、芝の上に堂々と身を横たえる大きな黒猫をこね回すのに必死だからだ。


 そんな彼へ、夕日の茜を映したみどりの瞳を向けたヒスイは「聞いてる?」と訊ねた。


「勿論聞いていますよ。ほら、ヒスイ。御覧なさい、この素晴らしいふわふわを」


 ジェイドは、しっとりと落ち着いた大人の色気がある声音で子供っぽいことを言いながら、黒猫の両脇に手を差し入れて持ち上げ、ヒスイに向けて差し出した。


「……ふふ」


 毛艶が良い。痩せていないからきっとどこかの家の飼い猫か、はたまた通い猫であろう。丸い瞳は煌めく黄金色。忍び寄る夜の気配に、瞳孔はくるりと丸い。

 ヒスイは手を出して黒猫を受け取る。大人しく抱かれた黒猫はふわふわしていてとても温かかった。


「いい子ね……ふふ、可愛い」

「でしょう」


 猫を褒めたのに、何故かジェイドが得意気に笑ったので、ヒスイもつい声を出して笑ってしまった。


「あなたといると、猫がよく寄ってきて嬉しいわ」

「私は猫に好かれるんです。それで君が喜んでくれるのなら幸いですね」


 穏やかに微笑むジェイドを見上げる。黒猫を見つめている銀月の瞳に、ふわりと舞った翡翠色の魔力の燐光が映って翠眼と見紛いそうになった。


(ジェイドは、何か嬉しいことがあるとこうして無意識に具現化するこの魔力を放つのよね……大人っぽく、いつも余裕の顔をしているから、分かりやすくていいわ)


 見つめていたらジェイドがヒスイの視線に気づく。何か、と問われて、ヒスイは首を横に振った。本人が気づいていないのなら秘密にしておいた方がいい。


「そう言えば……最近ハルザーレには吸血鬼が現れるらしいの」


 教会でザックが部下たちと話していたことを思い出して、ヒスイは何の気なしに呟いた。それを聞いて、ジェイドがピクリと肩を揺らしたので「どうしたの?」と訊く。


「……いいえ、何でもありませんよ」

「そう? こう言う話が苦手なら、別のにするけど……」

「……構いません。それで、ヒスイはその吸血鬼のことを、どう思うんですか?」


 訊かれたヒスイは少し首を傾げた。実際に遭遇したことはないし、単なる噂だから本当に存在するのかもよく分からない。


 吸血鬼は、魔物の中でも悪魔に並ぶ上位の存在である。人に擬態し血を啜り、その牙によって仲間を増やしていくそうだ。

 日光に当たると灰になると言われているが、それは人から吸血鬼になった者のみであり、真祖と呼ばれる元から吸血鬼として生まれた者は普通に日の光の下を歩けるらしい。

 ハルザーレにいると言われる吸血鬼の被害報告は上がっていない。けれど、もし実在するなら人命にかかわる。


「……もし、その吸血鬼が、ここで人を死なせるのなら、私はいずれ対峙しなきゃならなくなる、かな。怖いから、そうならないのが一番なんだけどね」

「そうですか……」


 この話題になってからジェイドの顔が暗い。憂いを帯びた白皙の美貌は、それはそれで眺めていて芸術品の様で飽きないが、話し相手が暗い顔をしているのにこの話題を続けるのもどうかと思う。


「ねえ、ジェイド」


 顔を上げたジェイドに、ヒスイは勝ち気な笑みを向けて言った。


「お腹空いてない?」


 目を丸くした彼を連れて、ヒスイはプローストへ向かった。



―――――……



「まさかあんなに冷やかされるなんてっ、ナナリさん、ひどいっ」

「とても美味しかったです」


 マイペースにのたまうジェイドを、ヒスイは唇を尖らせ、ジトッと睨んだ。


 彼はヒスイイチオシのミートパイを大変美味しそうに平らげるのに夢中で、ヒスイの顔を知る常連客や、若い女性らしくそういう話題が大好きなナナリに色々と言われても全然答えずにひたすらモグモグやっていたのである。

 確かにあのミートパイは悪魔的に美味だ。それはヒスイも認める。だが、大衆食堂に似合わぬ美貌の青年に、常連客や店の従業員たちは沸き立って、彼がミートパイに夢中なのをいいことにヒスイを質問攻めにしたのだった。


「ジェイドは、気に、ならなかったの」

「何がですか?」

「冷やかされたじゃない。二人は、こ、ここ、恋人なのかって……」


 何でもないはずの言葉に頬が熱くなる。ヒスイは隣を歩くジェイドの顔を見ることができず、もにゅもにゅと唇を動かした。

 考え込むような沈黙が降る。短いはずのその時間すら居たたまれない。ヒスイは無駄に瞬きを繰り返した。


「君はどうやら恥ずかしがっているようですが、それは、私と恋人であると誤解されるのが嫌だから、ですか?」


 言外に含まれる「私が嫌いか」というニュアンスを敏感に察したヒスイはガバッと勢いよく顔を上げた。

 しかし、少しばかりヒスイに向けて身を屈めていたジェイドの美貌が思ったより近くにあって、勢いに任せようとしていた言葉が喉に絡まる。


「あっ、えと……」


 銀月が翡翠を映す。翠と混ざりあった曖昧な銀色に見つめられて、ヒスイは言葉にならない声を漏らし、口を開いたり閉じたりした。


「ヒスイ」


 少しかすれたその声に、胸の奥に甘やかな痺れをもたらすその声に。ヒスイは衝動で彼の手を握り締めた。


「嫌じゃないっ! でもっ、相手が私なんかじゃ……ジェイドが、迷惑じゃないかって……」


 勢いよく始まり、結局尻すぼみになった言葉と共にヒスイは俯いた。顔に熱が集まるのが分かる。

 それでも、握ったひやりと冷たい彼の手は何故だか放せなかった。身体の震えが、激しい鼓動が、その手から伝わってしまうと思うと、ますます俯きたくなる。


「……君は、不思議な人だ」


 するりとヒスイの手から逃れたジェイドの右手が、そっと彼女の頬に添えられた。優美なのに確かに男の手である。そのまま俯いていた顔を優しく上げさせられて、ヒスイの目とジェイドの目が合った。


「……こんな気持ちになったのは久しぶりです。私は、君が――」


 途中で止まったその言葉の奥の真意を探ろうと、ヒスイは銀月の目をじっと見つめる。しかしジェイドの中にも戸惑いの色が窺えた。


「……今日は、帰ります。ではまた」

「あっ」


 そうこうしているうちにジェイドがヒスイから離れて身を翻して歩き出す。追おうにも引き留めようにも、そのためにふさわしい言葉を持ち合わせていなかったヒスイは、物寂しい気持ちで彼を見送るしかなかった。



―――――……



 ジェイドは困惑していた。カツカツと靴音を夕闇に沈む街に響かせながら、硬質な美貌を物憂げなものにしてかなりの速さで歩いていく。


(まさか私は……“愛おしい”と、言うつもりだったのか……? 彼女に会ってから、私は何かがおかしい)


 自分が猫のもふもふに歓喜したことで周囲に散らしてしまった魔力によって空間の歪みのまよい子となっていた彼女。

 その鮮やかな翡翠の瞳の煌めきに、彼は胸を打たれた。彼女から薫る神聖な白い炎と光の気配は、それと対をなす宵闇にいこう彼にとって眩しすぎるものであったが、それでも心奪われたのである。


 溜め息。直後石畳を蹴って、彼はひらりと民家の屋根の上へ移動する。人にはできない芸当、夕闇の後に現れた夜闇に紛れる人ならざる完璧すぎる美貌。


(彼女は聖女見習いだ。彼女自身が未熟だろうがその背後には教会が付いている。無用心に近づくのは危険だ)


 再び溜め息を漏らしたなまめかしく紅い口に覗く白い牙。夜の気配に針の如く細くなる瞳孔。夜風は彼に遠慮してさやりと弱くなる。


 彼は夜闇の主人。銀月の瞳を持つ、吸血鬼の真祖の一人であった。


 今まで彼の胸に訪れたことのない曖昧で奇妙な感覚に、ジェイドは3度目の重々しい溜め息を吐く。

 自分の後ろ姿を影の中から小さな蝙蝠コウモリがじっと見ていることに、ジェイドは気づかなかった。


「……ヒスイ」


 だから、彼が思わず呟いてしまった少女の名をしっかり聞いて、蝙蝠がパタパタと西へ飛んでいくことにも気づかなかった。



―――――……



 蝙蝠の目を、耳を通して、ジェイドの様子を探っていた人物は、その小柄な身体に不釣り合いな大きい一人掛けの椅子に身を沈めてクツクツと愉しげに笑っていた。


「あのジェイドに、気になる人間ねぇ……」


 孤高の吸血鬼、手元に欲しくてたまらない優秀な駒。


「ジェイドと同じにしてやったら、喜んでボクのとこに来てくれるかなぁ?」


 目を切り替えて・・・・・・・建物の陰に隠れた猫の目から観察するのは、ヒスイと言う名の少女の姿。教会で夕飯の仕度を手伝う金髪の美少女。その名を冠する通りの鮮やかな翠眼をしている。


「げぇっ、聖女見習いじゃん! ジェイドったら趣味悪いんだー」


 まあ美人だけど、と付け加え、その人物は「ちょっと」と丁度そこを通りかかった仕事中の側近を呼び止めた。


「ボク出かけるから。留守番よろしくね」

「はっ?! ちょっ、魔王様っ!!」


 苦労性の側近の悲鳴を後ろに、ひらりと城の塔の窓から飛び降りた――少年の姿をしているが見た目通りの年齢ではないことは明らかだ――魔王と呼ばれる西の帝国の専制君主は、鼻唄を歌いながら滑空する。


「待っててねー、ジェイド」


 気になる人間を同じ・・にしてあげる、とにんまり笑って、魔物を統べることが可能なほどに強大な魔力を持つ人間は空を飛んでいた。

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