第3話.謎の美青年

 ヒスイが王都へやって来て、西区ハルザーレで暮らすようになってから三ヶ月が経つ。道にも慣れてきた頃だ。


(特に教会とプローストの行き来はかなり慣れたはずなのに!!)


 端的に言おう。

 ヒスイは道に迷っていた。


(いつも通り歩いたはずなのに!)


 元々王都の道はどこも似通っていて、名前の付いた大通りでない限り、両側に並ぶのはどれも同じような民家ばかり。個性溢れる家々が点々と建つカーラ村出身のヒスイは最初かなり混乱した。


 焦りと寒さで身体の熱が引いていく。薄暗い真夜中、民家から漏れてくる灯りの量も少ない。


(落ち着くのよ、ちゃんと観察すれば見慣れたものが見つかるはずだから……)


 冷たい風が金糸の髪を揺らす中、自分に言い聞かせるように念じて、ヒスイはゆっくりと慎重に歩き始めた。



――――……



(お、おかしい……)


 見慣れたものを発見し、それを手懸かりに歩いていたはずなのに、気づくと見知ったものがふらりと揺らいで知らないものに変わっている。


 そんなことが何度か続いて、ヒスイは呆然とした面持ちで立ち止まった。


「どういうことなの……?」


 明らかに異常だ。ヒスイは大きく息を吐いて集中力を研ぎ澄ます。自分から放たれている微量の魔力によって辺りの様子を探るのだ。


(魔物がいるかもしれない。しかも、空間を歪める様な、強力なのが……)


 緊張から出た冷や汗が白い頬を伝い落ちていく。初冬の風がもたらすものとは違った嫌な寒気だ。

 音も無く吐き出された細い息は薄氷うすらいの如く白く儚い。風に流されて瞬きの後にはあったことすら忘れられる。


「…………っ!」


 その時、ヒスイの視界の端に、淡い緑色の何かが映る。一瞬であったが、その鮮やかさはヒスイの目に鮮烈な印象を残した。

 バッと勢いよくそちらを向く。警戒心が魔力に作用して、ちらりとこぼれた白い炎が風花かざはなの様に風に舞った。


「……何も、いない」


 しかしヒスイは安心できなかった。彼女はゆっくりと、ほぼ摺り足の様にして歩を進め、淡い緑色のものが見えた方へ近づいていく。

 その先は曲がり角である。何が潜んでいるか分からない。

 緊張に息を呑んだその直後、曲がり角の向こうから何やらボソボソと声が聞こえてきた。


(え……?)


 もう少し近づいて耳を澄ませてみる。


「……は……ですね……ふふ……」

(男の人の、声……? なんだか、とても嬉しそうだわ)


 警戒心が瞬く間に好奇心へと塗り替えられていく。ヒスイは更に一歩踏み出した。


「素晴らしい毛並みですね……可愛い、たまりません……もう少し触っていてもよろしいですか?」

(ん?!)


 しっかりと聞き取れた内容に、ヒスイは耳を疑った。いったいこの曲がり角の向こうで何が行われていると言うのか。

 最後の警戒心は不思議すぎる台詞に吹き飛ばされ、攻撃的な魔物特有の嫌な気配もしなかったことから、ヒスイは意を決して曲がり角の向こう側へと飛び出した。


「「!?」」

(どういうこと?!)


 途端目が合った相手と、恐らく同時に同じことを思いながら、ヒスイは先程見た淡い緑色のものの正体を知った。


 薄暗い石畳の路地にふわふわと漂う、砕いた翡翠の粒の様な淡い光の粒子。しっかりと見ればそれが――ヒスイが時折散らす白い炎の一片ひとひらと同じ――身体から自然に発せられている魔力の姿であると分かる。


 そしてそれを散らしている者は、路地に跪いて、喉を低く鳴らしながらご機嫌よく横たわる長毛種の猫の腹に両手を突っ込んだままヒスイを振り返って固まっていた。


(綺麗な人……)


 ヒスイは相手が薄暗い路地で猫をもふっている不審者であることを一時忘れて、その美貌に見入ってしまった。


 年頃の少女として、嫉妬を覚えるほどに綺麗な白磁の様な肌。長いまつ毛が頬に影を落とす、宝石の美しさに似た硬質な白皙の美貌は、銀月を閉じ込めた様な切れ長の目も相まって、あまりにも人間離れしていた。


 腰まで真っ直ぐに流れ落ちる長髪は、丁度今日の様な冬の夜空を紡いだのかと思うほどに美しい、黒に近い深みのある藍色である。

 艶のある髪の合間から覗いた耳には、滅多に見ることができないであろう完璧に澄んだ翡翠の涙の粒が揺れていた。


 ヒスイと青年は、お互いに目を見開いたまましばらく見つめあっていたが、やがてハッとした青年が猫の腹から手を離し、スッと立ち上がったことでヒスイもようやく我に返る。


(やだ私ったら、初対面の人をまじまじと見つめちゃって……)


 寒さ以外の理由で頬が赤くなった。ヒスイはふるふると誤魔化すように首を振る。


 正面から向き合った青年はすらりと背が高く、繊細でシンプルな銀の装飾が為された黒い上等な衣装を纏っていた。

 この状況への困惑を窺わせる表情でヒスイを見た彼は、爪先まで完璧に整えられた指で、夜色の長髪を耳に掛ける。それからその手を拳にして口元へやると小さく咳払いをした。


「……いくら教会の聖女見習いと言えど、こんな夜更けに、一人で出歩くものではありませんよ」


 ヒスイは思わず自分の服の胸元を見下ろした。確かにそこには白いリボンと共に青いブローチが光っている。ああ、と納得。

 知っている者が見れば、持ち主が光神教会の女性神官見習いだと一目で分かるようになっているので、彼が一目でヒスイの身分を言い当てても驚くべきことではなかった。


「仕事のあとの、ご飯の帰りで。いつもは道に迷わないのに、今日は何故か迷ってしまったんです」


 そう答えながら、ヒスイは「あなたこそ何故こんな夜更けに薄暗い路地で猫をもふもふしていたんですか」と聞きたくてたまらないのをこらえていた。

 彼女の答えに、青年は何を思ったのか突然溜め息を吐く。ヒスイが怪訝な顔で首を傾げると、その心中を察したのか彼は「ああ、すみません」と謝罪した。


「恐らく私のせいです。歪みはしばらく戻らないものなので、私が責任をもって君を教会まで送りましょう」

「え? あ、お願いします……」

(“私のせい”ってどう言うこと?)


 理由にあたる部分の内容が全く呑み込めないまま、一応無事に帰ることができると言うことでそう返答したヒスイ。

 混乱はあるが、青年の態度は紳士的なので、突然の危険に襲われることは無さそうだと判断する。


 青年は名残惜しげに猫を見下ろし「ここでお別れです」と話しかけていた。そんな変な状況でも、憂いを帯びた美貌のお陰で意外とサマになっている。


「さて、行きましょうか」

「は、はい、よろしくお願いします!」


 青年が差し出した手を、ヒスイは躊躇いながらも握った。段々とこの状況に緊張してきた彼女の、窺う様な翡翠の瞳を見つめ返し、銀月の目は細まる。


「そんなに固くならずとも、何もしませんから安心してください」

「へっ?!」


 唇をぎざぎざに引き結んで、頬を更に赤くしたヒスイの様子に、青年は喉を鳴らして笑った。



――――……



「君は、とても可愛らしい人ですね」

「それ、からかってますか?」

「いいえ?」


 薄暗い路地に、二人分の靴音と話し声が響いている。最初こそ慣れない体験に固くなっていたヒスイであったが、会話が続くうちに次第に慣れて落ち着いてきた。


「……猫、お好きなんですか?」


 そして彼女はついに、本当に訊きたかったことの一部を訊くことができた。

 青年は少し目を見開き、少し瞬きを繰り返すと「あぁ……」とヒスイから目をそらして咳払いをする。その白い頬は少し赤らんでおり、彼は曖昧にはにかんで眉尻を少し下げた。


「ふわふわしているものを見ると、つい、我慢がきかなくなってしまいまして……」

「私もふわふわしているもの、大好きですよ。触りたくなりますよね」


 ヒスイは前を向いたまま話す青年の整った横顔を見上げながらそう言った。ふ、と銀月の瞳がヒスイを見る。


「……猫と犬、どちらが好きですか」


 すごく真剣な色味を帯びた目で、何を言い出すのかと思ったらこれである。ヒスイは目を見開き、そして「ふふふ」と堪えきれなかった笑い声を漏らした。


「猫です」


 歩きながら、ようやく青年がヒスイに向き直る。風に流されて、黒藍の長髪がさやりと揺れていた。その艶は夜空に煌めく星の帯のようで、とても美しい。


「……私も、猫を一番好みます」

「同じですね」


 お互いに顔を見合わせてくすくすと笑い合う。


 そんなふうに、穏やかに言葉を交わしているうちに、見慣れた教会が近づいてきていた。ヒスイはそれに気づいて顔を輝かせる。


「良かった……」

「ここまで来ればもう平気でしょう」


 繋いでいた手がするりと離れた。途端掌に外気の冷たさが触れ、ヒスイは今まで感じたことのない寂しさを覚えた。


「ありがとうございました、ええと……」


 そう言えば名前が、と思って言葉に詰まる。そんな視線を受け、青年は困ったように苦笑した。


「名乗るような者ではないのですが……」

「今度ハルザーレの中で見かけた時、声を掛けづらいじゃないですか」

(あれ? これって、もう一度会ったら話しかけたいってことに……わ、私ったら何を言ってるの?!)


 ヒスイは言ってから一人で赤くなった。

 そんな彼女の様子を見ていた青年は、しばらく黙考していたがやがて「では……」と口を開く。


「君の名前も、教えてくれるのなら」


 その言葉にヒスイはバッと赤くなっている顔を上げ、少し潤んで艶めく翡翠の瞳で青年を見上げて「じゃあ……」と答えた。


「私は、ヒスイ。ヒスイ・ヒペリカムです」


 銀月の目が細くなって、受け取った彼女の名前を転がすようにその唇が「ヒスイ」と動く。


「美しい名ですね。ヒスイ、君の瞳の色です」

「ありがとう」

「では、私も名乗りましょう。私はジェイド・オルテンシア。このハルザーレに居を構えていますから、会うこともあるでしょう」

「ジェイド……」


 その名を吐息の様に呟く。ジェイド、翡翠を意味する名前だ。音は違えど意味は同じお互いの名に、二人は漠然と運命的なものを感じた。


 それでは、と黒藍の長髪を風に翻し、ジェイドは去っていった。その背を、見えなくなるまで見送る感情は、ヒスイが初めていだく甘酸っぱい、不思議なものであった。


 こうしてヒスイとジェイドは出会った。宵闇に紛れた風花かざはなの白の様な小さなえにしは、やがて燃え上がる白炎の如く激動する運命へと姿を変えていくのだが、今宵の二人がそれを知るはずもなかった。

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