第9話 廃ビルの主

 西埜にしのビルはしんと静まりかえっていた。暗闇に沈んだ廃ビルって怖いよな。ホラゲーのステージみたいでさ。

 俺は一度駐在所に戻って、先輩に事情を説明し、警戒されないよう私服に着替えてきていた。

 階段をゆっくり上っていく。ひどく埃っぽい。一歩進むたびに厚く積もっていた埃が舞い上がる。空気がくすんでいる。

 咳をこらえながら、朝木が偉そうに言ったことを思い出す。


「いいか。ターゲットと接触したらそいつを屋外へ、最低でも窓際まで誘導するんだ」

「もしも出来なかったら?」

「お前も呪われて、橘の呪いも解けなくて、二人揃ってめでたくジ・エンドだ」

「簡潔な説明に感謝する」

「どんな手を使ってもいい。なんなら、取っ組み合って窓からぶん投げてもいいくらいだ。そうしても死にゃしねぇよ。相手を人間だと思うな。仮に魔法使いだったとしても、悪魔に魂を売り飛ばしているような輩なんだから」


 朝木の口調は本気でそうしていいと言っていた。

 懐中電灯を握る手に力がこもる。

 注意点は“目を合わせないこと”。

 迷ったら“逃げる”。


「まぁ、ぶっちゃけ失敗してもどうにかすることは出来るから、気楽に行ってきてー」


 と、出る直前になって突然新保が肩を組んできて、俺の左肩を叩いた。ゆるふわ過ぎる。ちょっと緊張していたのが馬鹿らしくなって、俺は息を吐いたのだった。

 そんなことを思い出しながら、さらに階段を上る。

 がらんとした二階フロアに出る。当然と言えば当然だが、机も椅子も何一つないオフィス。窓の位置は外側から見て把握済み。台風か何かのせいで割れている窓があることも確認してある。あとは例の人物がいるかどうかだ。

 懐中電灯を奥に向けて、


「ストップストップ。その光、こっちに向けないで」


 柔らかな男の声に遮られた。

 出てきた。こいつだ。

 俺は懐中電灯を自分の足下に向けて、声のほうをそっと窺った。姿は見えない。

 声だけが闇の奥から届く。鼓膜をくすぐるようなしゃべり方を売りにしているユーチューバーみたいな声だ。


「ちょっと待って、今灯りを点けるから。せーの、えいっ」


 ぱんっ、と手を叩く音が一つ。

 すると、部屋全体が弱い橙色の光に満たされた。俺は動揺を隠すために余計なことを考える。なんだかテーマパークのアトラクションみたいだ。主人公になって物語の追体験をしよう、とかそういうタイプのやつ。


「これで見えるよね。それ、消してもらえる?」


 言われたとおり、懐中電灯のスイッチを切る。


「ああ、これでようやく落ち着いて話が出来る」


 と、男の薄い唇が笑みを作る。神経質そうな細い顎。青白い肌は蝋人形みたいだ。いよいよアトラクションじみてきた。吸血鬼の館、とかそういう感じ。

 遊びに重点を置いた大学生のような背格好。裾の長いワイシャツにラインの入ったベスト。胸元に金属製の羽根飾りのペンダント。指輪やブレスレットをいくつも着けている。背丈は俺よりやや低く、線が細い。長い黒髪を右耳の下でくくっている。

 やっぱり職業は判然としない。魔法使いと同じだ。

 ふふ、と面白そうに笑ったのが聞こえた。


「ずいぶんよく見るね」

「そういう性質たちなんだ。気に障ったなら謝るよ」

「弟くんの病室にいる間、周りの人間をずっと観察してたんだね」


 息を呑んだ。


「確かに、病院にはいろんな人間が来るよね。誰も自分や家族のことで手一杯だから、観察も簡単だし」


 ――待て。待ってくれ。なぜ、どうしてこいつがそのことを知っている? どこからばれた? 何から読み取られた? 俺は問題文を提示していたのか? いつ?

 口をきけない。考えることも出来ない。自分が今どこを見ているのかすら分からない。


「病室もちょうどいい位置にあったよね。出入りする人間を窓からずっと眺めていられる、最高のポジションだ。寝ている弟くんのすぐ傍から、ずっと人間を眺めていた……」


 そう、ずっと眺めていた。人を。歩くことのできる人を。笑うことのできる人を。時々しか目を覚まさない弟が、目を覚ましたとき寂しいと思わないように、ずっと傍らに座ったまま。

 病院のカーテンが翻る。

 ふと気が付くとすぐ目の前に男がいた。手をちょっと前に出せば触れられる位置。

 男が軽くかがみ込んで、俺の視界に割り込んできた。

 黒と金のオッドアイ。

 目が、合う。


「願い事は? ――ああ、ずいぶんと可愛らしいね。いいよ、叶えてあげる」


 男がにっこりと笑って、俺の左肩に手を置いた。

 瞬間、光に視界が潰された。

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