第11話 契約更新


「わっ!」


 男の驚いた声が響いて、俺ははたと我に返った。


「痛かったぁ。なんなの、それ?」


 数歩向こうに飛び退いた彼が、痺れを払うように右手を振っている。俺の左肩が熱を持っていた。何か妙な香りもする。

 すべてを察した。

 新保が何か仕込んでいたのだろう。

 ――そしてこれが、おそらく唯一の隙だ。

 腰を落としてタックルをかける。倒すのではなく持ち上げる。細い体躯を肩に担いでそのまま走る。


「うわわわわっ、何?!」

「おりゃあっ!」


 割れていた窓から外へ、思い切り放り投げる。そうして夜闇に男の姿が吸い込まれていくのを見送った――つもりだった。

 ふいに俺の体勢が崩れた。男にシャツを掴まれている。投げ終えた直後で踏ん張りがきかない。ガラスの破片を触った手が本能的に引っ込む。

 駄目だ、落ちる。

 浮遊感が内臓に。二階から落ちたときの怪我ってどの程度のものだろう。骨折で済めば上等か? 周囲は土だったからコンクリよりはマシなはず――


「フローティング!」


 新保の声と同時、目の前に金色の光が一瞬だけ舞った。

 そして落下が止まる。いや、完全に止まってはいない。急激に遅くなっただけだ。

 男のほうはそのまま落ちていく。シャツから手が離れる。

 ふいに風切り音がして、


「よっ、と。ほい、これで完了だ」


 朝木の軽い声。

 それを聞いたときには、俺は穏やかに着地していて、そのまま地面に座り込んでいた。

 朝木の尖った視線がちらりとこちらを向く。


「てめぇまで落ちてこいとは一言も言ってねぇんだけどな」

「悪い、勢い余った」


 尻を払いながら立ち上がる。心臓が早鐘を打っていた。――どちらのせいかは分からないが。今が夜でよかった。見せられる顔色ではない気がする。

 地面に倒れ伏した男は、朝木に胸元を踏まれた上、刀を突きつけられていた。どこにあんな刀を隠し持っていたのだろう。俺の視線をうるさく思ったのか、朝木が再びこちらを睨んだ。

 新保と橘さんが連れ立ってやってくる。


「平気だったー?」

「おかげさまで」


 俺がそう言うと、新保は何も分かっていないようなゆるゆるの顔で「それはよかった」と笑った。


「さぁて、それじゃあ、橘。返すモン返せ」

「は、はい」


 朝木の命令を受けて、橘さんはおずおずとブレスレットを外した。


「あの、これ、返します。私には必要ありません。……必要ない、って分かりました。ありがとうございました」


 お礼を添えるのは筋違いな気もしたが、なんとも彼女らしい。

 朝木が刀をわずかに動かした。


「契約を破棄しろ。今すぐ」

「……仕方ないなぁ」


 男はあまり堪えていないような調子だった。橘さんの差し出したブレスレットを受け取る。朝木はすぐに手を振って、橘さんを下がらせた。新保と俺で彼女の前に立つ。


「こいつから受け取ったキーホルダーは?」

「ボクの胸ポケット」

「ナルナ」

「はいはーい」


 新保が傍らに膝をつき、男の胸ポケットを探る。


「見つけた。いいよー」

「よし、これで完璧に済んだな。じゃああとは拘束して――」

三番目の子・・・・・は大変だね」


 不意を突くように男が言った。

 朝木の動きがピタリと止まる。

 その隙を男は逃さなかった。ぱんっ。手を打ち鳴らす音が響いて、新保が驚きの声を上げる。案の定、視界を潰されたらしい。

 あらかじめ目を瞑って・・・・・・・・・・いた・・俺にも分かるほどまぶしかったのだから、直接見たら相当だったろう。

 こうなると思っていた。

 俺はパッと目を開ける。男は朝木の足の下から這い出たところだ。立ち上がってこちらに背を向ける。走り出す。男の足は決して速くなかった。充分追いつける。


「逃がすか!」


 朝木が何か言っていたような気がしたが、構ってなどいられない。

 後ろから押し倒して腕をねじり上げた。

 ――その腕のあまりの細さに一瞬思考が止まる。膝で押さえつけた体の小ささに息が詰まる。明らかにおかしい。さっきまで見ていた成人男性のものではない。

 男の姿が変わっていた。

 十二歳くらいの少年に。

 少年が地面に頬を擦り付けて、甲高い声で叫ぶ。


「痛いよ! 助けて兄ちゃん・・・・!」

「っ!」


 咄嗟に手を離して飛び退いていた。その拍子に足がもつれて尻餅をつく。

 少年が素早く起き上がる。涸れ井戸の底のような黒い瞳と、怪しく光る金色の瞳が、同時に俺を見る。見透かす。小さな手が伸ばされる。俺の頬に触れる。


「その願い、叶えてあげるね」


 少年が俺の眼鏡を取った。視界が霞み、俺は意識を失う。

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