姫君の宿敵05

 髪により締められている首から、骨がギシギシと軋む音が鳴る。神経が圧迫されて吐き気に近い不快感が込み上がる。

 生命活動の維持が困難だと、本能が訴えていた。無視すれば本当に命はない。

 しかし打開の手がない。

 思考を巡らせる。本能に問い掛ける。あらゆる方法で模索をしても、答えは得られない。四肢も尻尾も炎も封じられているのだから、答えなど出しようがない。

 このままでは、いよいよ本当に殺される。


「キャキャ! キャキャー!」


 そして少女の方はそれを躊躇うどころか、喜々としてやろうとしていた。

 万策尽きて最早これまでか? 人間ならば諦めの念が過り、身を任せてしまう者もいるだろう。

 されど、ナージャは諦めない。

 より正確に言うなら、諦めるという判断を持ち合わせていない。打開策がないからといって、どうして生存そのものを放棄する必要があるのか。『野生』を生きる彼女は、最後まで自らの生存を追求する。

 とはいえ諦めずに追求すれば生きられるほど、世界は優しくない。ましてや少女は必死というほどではないが、少なくとも本気でこちらを殺そうとしている。本気という事は、少女は諦めずにナージャを殺そうとしているという事。

 ナージャの首を締める髪は相変わらず強く、やはり解く事は出来そうになかった。


「キャーキャキャキャキャ!」


 それどころかこの無駄に等しい抵抗さえも封じるように、少女は笑いながら髪を伸ばす。

 これまで四本足のように束ねていたが、一本の髪自体は細く、何十万本と集まって足のようになっているだけ。分けようと思えば、いくらでも分けられるようだった。

 何十もの細い髪の束が、ナージャの四肢に巻き付く。束の一つ一つは、束ねている髪の数が少ないため大した力ではない。だがナージャの動きを阻むには十分であり、首に巻き付く髪を解くのを一層困難にする。


「キャハッ」


 勝利を確信したのだろうか。少女は口を開き、獰猛な笑みを浮かべた。口内には歯も舌もなく、がらんどうな空間が広がるだけ。

 上半身の外観は少女のそれでも、中身は怪物だという事がよく分かる。端から油断も恐怖もしていないナージャにとって大した情報ではないが、こちらを生かして帰すつもりがないという、絶対的な敵意はひしひしと感じられた。

 やはり逃げねば命がないようだが、火炎も四肢も封じられてはどうにも出来ない。

 最早、多少の『無茶』は仕方ない。


「グゥゥウゥウウゥ……!」


 唸り、力を高めるナージャ。その力を変換して体温を高めていくが、体表面には放出しない。ひたすら、内部の熱を高めていく。

 同時に、体表面に血液を溜め込んでいく。

 その体液を生み出した熱で温める。一般的な生物であれば、無理に体温を上げたところで体調を悪くするだけだが……ナージャの桁違いのエネルギーを用いれば、血を沸騰させる事など容易い。

 勿論血液の沸騰は、ナージャにとっても好ましい状態ではない。頑強な肉体や能力により体液の耐熱性は極めて高いが、あくまでもそれは恒常性を保つための仕組みだ。体液自体が沸騰すれば、エネルギーの循環が滞り、生命活動に危険が迫る。

 身体の悲鳴が苦痛となって駆け巡る。今すぐにでも止めたい気持ちも沸き立つ。だが、それを堪えてどんどん体液を沸騰させていく。


「キ? ……キィキャァ!」


 ここに至り少女もナージャが何かしていると勘付く。念のためとばかりに更に髪を伸ばし、手足をがっしりと縛る。首に巻き付く髪も圧を強めており、万が一にも口から炎が出ないように念を入れてきた。尻尾にも髪は巻き付き、力強く振るうのを妨げる。

 しかしそれはナージャにとって問題とはならない。

 何故ならナージャがこれから繰り出そうとしているのは、手足も尻尾も炎も使わない抵抗。沸騰させた体液、即ち水蒸気などの気泡が体表面でボコボコと血管のように浮き上がった。

 少女もこのような『反応』は想定外だったのか。笑ってばかりだった顔を、ほんの一瞬キョトンとしたものに変える。

 ナージャはこのチャンスを見逃さない。


「ガ、アアアアアアアアアア!」


 血を沸騰させてもまだ余りある熱量を、ここで一気に解き放つ!

 ただし外に向けてではない。ぐつぐつと今正に沸騰している、自分の血液に向けてだ。元々気体へ変化しつつあった血液は、この駄目押しにより瞬間的に気化する。

 物質は状態と共に体積が変化するもの。特に液体と気体の間には、極めて大きな体積差が存在している。ナージャの血液の主成分である水の場合、約一千七百倍の膨張率だ。

 ナージャの体表面に集められた血も、同じだけ膨張する。更に高熱になればなるほど体積は増していく。ナージャが生み出した熱により膨張した気体は、ナージャ自身の表皮の頑強さを上回り――――

 大量の水蒸気と共に、ナージャの皮膚を突き破った!


「キャアッ!? ウキャアァゥ!?」


 水蒸気を浴び、少女は驚いたのか。甲高い悲鳴を上げながら大きく仰け反る。余程嫌なのか、今までろくに動かさなかった手をバタバタと振るう有り様だ。

 ここまで嫌がるのはナージャにとっても想定外。だが、好ましい展開だ。『本命』の後の動きがやりやすくなる。

 表皮を突き破った水蒸気の圧が、ナージャを拘束する髪を吹き飛ばす。正確には少し浮かせる程度であるが、首を締める力が弱まれば十分。

 素早く髪と首の隙間に手を捩じ込み、渾身の力で押し広げる。少女が怯んでいた事もあって、頭が通る程度には広げられた。即座に抜け出し、腕や足を拘束していた髪も振り解く。

 我に返った少女は再びナージャに髪を伸ばすが、ナージャもまた再び水蒸気を身体から放出。自分の姿を白煙で覆い隠す。少女が白煙内に髪を伸ばすのを躊躇っているうちに、ナージャは大きく後退する。


「グウゥゥウゥ……!」


 どうにか首を握り潰される前に脱出する事が出来たナージャ。怒りと闘争心を露わにしながら、五メートルほど離れた位置で少女を睨む。

 ……闘争心は未だ衰えていない。

 恐怖心や絶望に至っては、欠片たりともナージャの心には存在しない。ナージャの心に怯えなどという『つまらない』感情は存在しないのだ。しかし、では勝てるかと言えばそれは否である。何しろ髪を炎で焼き尽くす事は出来ず、締め付けられれば簡単には解けないのだ。この状況で何処に勝ち目があるというのか。

 加えて、今や身体の傷が多過ぎる。

 殴り合いで受けた傷もそうだが、首絞めから脱出するための『水蒸気自爆』で大きなダメージを受けてしまった。全身のあちこちが裂け、赤黒い血が流れ出す。首や手首などの太い血管も破れ、全身血塗れといっても過言ではない。

 この程度で死ぬほど、ナージャの肉体は軟ではない。しかし消耗した肉体で『格上』の少女を倒せると思うほど、ナージャは楽観主義でも自信過剰でもないのだ。このまま戦っても殺されるのがオチだろう。

 ナージャは死を恐れない。だが結果的に死ぬのと、確実に死ぬ戦いに挑むのは全く別の話。

 この町の人間を守りたいなら、後退する訳にもいかないだろうが……ナージャにそんな気は微塵もない。ここは体勢を立て直すのが得策。逃げ出す事への羞恥といった、プライドもないため判断も迷わない。


「――――ガゥッ!」


 ナージャはくるりと踵を返し、全速力で逃走した。

 逃げ出したナージャを見るや、少女は躊躇いなく追ってくる。ナージャが戦略的撤退に踏み切った事を察知し、体勢の立て直しなど許さないつもりなのだ。

 もしも捕まれば、また首を締めてくるだろう。同じ方法水蒸気自爆でまた脱出出来るかも知れないが……少女とて一度見た手に簡単に引っ掛かるほど間抜けではあるまい。通じないと考えるのが妥当だ。仮に通じたとしても、血液を気化させる方法は身体が大きく傷付き、そして体力体液の消耗が激しい。一回だけなら走るだけの力も残るが、二回もやればろくに動けなくなるだろう。これでは拘束を解いたところで意味がない。

 再び捕まれば、今度こそ本当に手がなくなる。


「ウゥウウウッ……!」


 全身から血を流しながらナージャは全力で走る。一目散に、脇目も振らずに。

 逃げる先は人間達が暮らす大都市。戦いの場から離れれば、そこはまだ無事なビルが建ち並ぶ領域だ。何百メートルと走れば、避難する人間達の姿も見られるようになる。

 無論、ナージャは人間虫けらに助けを求める気など更々ない。複雑に入り組んだ人間の住処であれば、追手を翻弄しやすいとナージャは判断していた。加えてナージャの方が走る速さは上のようで、追い駆けてくる少女との距離は少しずつ開いていく。距離を開けた状態で分かれ道を適当に選んでいけば、問題なく振り切れるだろう。

 しかしナージャがそう思ったように、少女も同じ可能性を考えた筈である。このままナージャの思惑通り見逃してくれる訳がない。

 ナージャのその予想は正しい。


「キャァーッ!」


 少女は甲高く笑いながら、ナージャの行く手を遮ろうとしてきた。

 その行動は、大きく髪の束を横に振るう事。長さ三メートル泥土だった髪は少女の動きと呼応するように、細くなりながら伸びていく。

 瞬く間に数百メートルもの距離まで伸びた髪が狙うのは、逃げるナージャではない。その周りに建つ――――巨大なビル。

 細く束ねられた髪は、人類が叡智を結集させて作り上げた巨大建造物の壁を易々と粉砕。まるで雑草へと振るわれた鎌のように、あっさりと薙ぎ払う。

 土台を失ったビルは轟音を響かせながら崩落を始めた! そして少女の狙いは正確だ。ビルが倒れる先に、丁度ナージャがいるのだから。


「ガゥ!」


 とはいえビルが倒れるよりも、ナージャの足の方が速い。少し走る速さを上げれば、倒れるビルから逃れる事は容易い。ビルの中から、そして逃げる先から聞こえる無数の悲鳴に意識が向けば、足を止めたかも知れないが……ナージャはこんな『雑音』など気にも留めない。

 ビルの崩落から逃れたら、そのまま全力疾走。少女との距離を更に開ける。

 しかし少女も、こんな簡単に止められるとは端から期待していない筈だ。次は一体どうするのか、ナージャは意識を集中させ、周りを警戒する。

 もしそれをしなければ、きっと見逃していた。

 自分の真横を通り過ぎる、極めて細い何かの存在に。


「ッ!? ガゥッ!」


 ナージャの優れた視力は、それが一本の『髪の毛』である事を理解した。すぐに爪を振るうと、一本だけだからかあっさりと切れる。

 だが、油断は出来ない。

 一度気付けば見えてくる。自分の周りに、無数の髪が展開されていると。

 少女の髪の毛だ。後ろを振り返ると、少女は今二十メートルほど後方にいる。見る限り足のように束ねられている髪の長さは三メートルほどと元の長さに縮んでいた。しかし他にも極めて細い、人間の髪と同じぐらいの長さの髪も隠し持っていたらしい。それは数十メートルと伸び、ナージャを挟むように展開された。

 ただし髪がナージャを拘束してくる気配はない。ならば一体なんのために伸ばしてきたのか? 答えは、すぐに明らかとなる。

 髪の毛は一斉に動き出したのだ。そして狙いはナージャではなく、またしても建ち並ぶビル。それも近くにあるものではなく、遥か彼方にあるビルへと伸びていく。

 ビルの傍までいくと髪は素早く振るわれ、コンクリートの壁を切り裂いた。

 自重を支える壁の一部を失い、ビルが次々と倒れていく。何十という数のビルの中には、此処こそが安全だと信じて潜んでいた多くの人々がいる。崩落音と悲鳴が、辺りに響き渡る。

 とはいえこれだけなら、先程の攻撃と大差ない。

 真に重要なのは、倒れるビルがある位置。倒れたビルはどれも、ナージャの進行方向にあるものだった。しかもすぐ目の前ではなく、かなり遠く。

 距離があるため、全力疾走で駆け抜けても下を潜り抜けるのは間に合わず。ナージャの眼前でビルは倒れ、爆発と見紛うほどの粉塵を巻き上げる。人間一人ぐらい簡単に吹き飛ばしそうな衝撃波が押し寄せ、ナージャに襲い掛かったが……この程度なら足を止める必要すらない。ナージャは変わらず前進を続ける事が出来た。

 しかしこの状況、極めて不味い。

 ビルが倒れ、崩壊した事で巨大な瓦礫の山が生まれてしまった。高さはざっと五メートル。ナージャの身体の何倍もの高度を有す。

 これが少女の狙いだ。つまり大量の瓦礫で、ナージャの足止めを目論んでいるらしい。

 勿論ナージャの身体能力であれば、こんな高さを跳び超える事など造作もない。されど少女に追われている今、迂闊な方法を使う訳にはいかない。何分少女の足(厳密には束ねられた四つの髪だが)は極めて速く、ナージャと互角のスピードを発揮している。簡単には振り切れず、それどころか一瞬でも足を止めれば瞬く間に捕まってしまうだろう。

 しかしどうする?

 無論、そのまま登る、というのは論外だ。巨大な坂を登ろうとすれば、どうしても減速しなければならない。それは逃げねばならない少女との距離が縮む事を意味する。加えてあの少女は自由に稼働する髪で歩いているのだ。悪路の走破能力は、恐らく少女の方が上。わざわざ相手の得意なフィールドに足を踏み入れるのは愚行だろう。

 では跳び超えるべきか? 否である。跳躍のためには足に力を込めねばならない。巨大な瓦礫の山を超えるには相当大きな力が必要であり、故にほんの一瞬大地を踏み締めなければならない。その一瞬の間でも、足が止まれば少女は更に距離を詰めてくるだろう。近付かれたら捕まる可能性が高い。

 なら迂回するべきか? 却下だ。倒されたビルの数は膨大。右へ左へと逃げたところで、全ての方角に瓦礫の山は積み上がっている。回避出来るルートなどない。仮に逃げるルートがあったとしても、その時少女はまたビルを切り裂くだろう。状況は何も変わらない。

 普通に逃げるのでは現状を打開出来ない。ナージャは瞬時に三つの選択肢を否定し、四つ目の方法を採用する。

 ナージャが選んだのは、瓦礫の山をというものだった。


「ゥゥガアアアアアアアアアアアアッ!」


 猛り声と共に身体中の筋肉を痙攣させるように細かく動かし、大量の運動エネルギーを生成。即座にこれを熱に変換し、体表面で放出する。

 表皮が高熱を纏った状態で、ナージャは瓦礫の山に突っ込む! コンクリートで出来た巨大な山であるが、ナージャの高熱を受けてどろりと溶解。『壁』としての働きを失い、突撃してきたナージャは溶けたコンクリートの中へと潜航した。

 溶けたコンクリートの粘り気は、決して弱くない。熱さを無視したとしても、一般的な生命体の力であれば普通に瓦礫の山を登った方がずっと速く抜けられるだろう。だがナージャは瞬時にコンクリートを溶かすほどの熱を持つ。液化したコンクリートが体表に触れると気化し、その膨張した大気を上手く流せば……むしろ身体を押し出す風となる。

 熱風による加速を得て、ナージャは普通に走るよりも速く瓦礫の中を進む事が出来た。おまけに冷えたコンクリートは液化し、固体となって通ってきた道を塞ぐ。少女がナージャの後を追う事は出来ない。

 そして一度潜ってしまえば、外からナージャの動きはほぼ見えなくなる。


「キャアアッ!」


 少女が瓦礫の上に乗ったのだろうか。ズドンッと重みのある音と振動が、地下にいるナージャにも伝わってきた。

 次いで、何かを突き刺すような音、それと地面を進む振動も感じ取る。

 ナージャは即座に身体を捻り、進む向きを変更。すると今まで進んでいた場所を、正確に『何か』――――髪の束が通り過ぎていった。

 少女の攻撃だ。地下に潜り姿が見えなくなったナージャを、正確に狙っている。地面を掘り進む時の振動を感知し、居場所を特定したのだろう。潜った段階で油断していたら、此処で射抜かれていたかも知れない。

 しかし気付いてしまえば脅威ではない。振動が地上まで伝わるには、それなりの時間が必要だ。つまり少女が知っているナージャの位置は過去のもの。移動速度とルートから予測しているに過ぎない。頻繁に速度とルートを変えればほぼ当たらなくなる。


「ガゥ! ガゥウウウルルルッ!」


 更には念を入れて、ナージャは地下へと向かう。コンクリートと大地を溶かし、地中深くへと潜っていく。

 その深さ、凡そ五百メートル。離れればその分振動が伝わるまでの時間が伸び、こちらの動きを予測するのは困難となるだろう。

 ナージャは熱量の変化を感じ取る事で、遮蔽物越しにある物体の動きを多少把握出来るが……ここまで深く潜ると、流石に難しい。地上の様子を窺い知る事は出来ず、ナージャには少女の動きが分からない。


「キャキャ! キ……キィィイイイィイイイヤアアアアアアアアアアアア!」


 しかし少女の方が、わざわざ現状を教えてくれた。

 悔しさと苛立ちに塗れた雄叫び。何百メートルもの地下にまで響く大絶叫の後、地団駄を踏むように地上から激しい振動が轟く。恐らくナージャを見失い、苛立ちのまま大暴れしているのだろう。

 実にありがたい。このまま潜り続ければ、確実に逃げられると丁寧に教えてくれている。

 深く、深く、ナージャは地下深くへと潜り……少女が発する力から逃げていく。されどこのまま、遥か遠くの地まで行くつもりはない。

 向かうは、お気に入りのあの場所。

 『次』の戦いのために、今は身体を休めなければならないのだから――――

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