姫君の宿敵04
現れた人物の『身長』は百五十センチぐらいか。ナージャよりも少し背丈は高く、大まかな輪郭は人型、その中でも少女と呼べる形をしている。顔は髪で隠れているが、薄気味悪い笑みを浮かべている点を除けば、端正で愛らしい顔立ちをしていた。
しかし人間とは到底言えない。
何故ならその姿は異形めいているのだから。服を着ていないその身体は、頭や胴体など上半身は中肉中背程度の太さだと言うのに、腰から下が異様に細い。骨と皮しかない、というのを通り越して骨が欠けているように見えるほどだ。
頭部からは髪の毛が生えているが、極めて長く、凡そ三メートルはあるだろう。その髪はただ長いだけでなく四つの束となり、さながら節足動物の足のように地面に突き立てられていた。強度と力も『足』並にはあるらしく、髪を伸ばしている身体は宙にぷらぷらと浮いている。
そして背中からは、黒く大きな背ビレが生えていた。背ビレの先は鋭く、刃物のように見えるだろう。背ビレが作り物でない事は、露出している肌の肉が背ビレに張り付いている事から明らかだ。
「……キ、キキキキキキキ」
少女は口から、笑い声染みた鳴き声を出す。不気味で不快な声に、ナージャはただでさえ鋭くしていた眼差しを更に細める。
ただしナージャの顔に浮かぶのは、不快感による苛立ちなどではない。純粋な怒りと闘争心を滾らせた表情だ。
ナージャは知らない。目の前にいる『生き物』がなんであるのかなど。しかし本能が叫んでいる。コイツは敵であり、倒さねばならない存在だと。
コイツに何かされた記憶はない。だが本能がそう言うのであれば、ナージャは躊躇わない。
「ガアアアアアアッ!」
雄叫びと共に、ナージャは少女目掛けて走り出す!
身体を前に押し出すために地面を蹴れば、その度に大地が揺れた。揺さぶられた瓦礫から粉塵が吹き出し、バランスの悪い箇所は崩れ落ちる。
人間ならば見るだけで恐怖する光景だが、少女は一歩として後退しない。身体が強張っている様子もなく、ケタケタと笑いながら待っていた。速過ぎて見えていない訳ではない。見た上で、恐怖せず待ち構えているのだ。
不遜な態度であるが、お陰でナージャは少女と難なく肉薄。手足の射程圏内に収めた。
最初にお見舞いするは、全身全霊の力を込めて振り上げた拳。握り締めていないものの、鋭い爪を突き立てる形での一撃だ。
その威力たるや、金属の装甲さえも容易く切り裂く。
だが、さながら腕を構えるように動かした少女の『髪』は、この爪を正面から受け止めた。まるで金属同士がぶつかったかのような甲高い音を鳴らし、ナージャの爪と鍔迫り合いを行う。
ナージャは渾身の力を込めていたが、少女が構える髪はびくともしない。少女自身にも疲労の色は見えず、これを続けても相手を押し倒すのは困難と判断。
「グ、ゥガァッ!」
ならばと自由な足を用い、思いっきり胸を蹴り飛ばす。蹴りは拳の三倍の威力を持つと言われており、これには少女も大きく仰け反る。尤も崩れた体勢は、骨格も何もない、柔軟な髪によりすぐ立て直されたが。
しかし少女の闘争心に火を付ける程度には、痛みを与えたらしい。
「キァッ!」
不気味な声と共に、少女は足のようにしていた髪を力強く振るう。
たかが髪の束……しかしその強度はナージャの爪でも傷が付かないほどの代物。殴り付ければナージャを突き飛ばす程度の威力を持つ。
それでいて腕よりも柔軟で素早い。殴られて体勢を崩したナージャの首に、髪は素早く巻き付く事さえも易々とやってみせる。
「ガ!? グゥ……!」
巻き付いた髪を解こうとするナージャだが、爪の一撃を受けても切れなかったものだ。どれだけ引っ掻いても、千切れそうにない。指を捻じ込んで引っ張っても、やはり微動だにせず。
首を締められる事の一番の問題は、窒息だろう。これに関して言うなら、ナージャにとっては大した問題ではない。ナージャの身体は熱を直接エネルギーとして使う事が出来るため、呼吸が出来なくてもしばらく……それこそ数千年程度は活動可能だ。
しかし、落ち着いて一旦作戦を練ろうと思えるほどの時間的余裕はない。
巻き付いた髪はどんどん力を増している。ナージャが持つ運動エネルギーと熱エネルギーの操作でも無力化しきれない、驚異的な怪力だ。髪の束だというのに、そのパワーは先日戦った大男の力を遥かに上回っている。
このままだと気道の圧迫どころか、首の骨を粉砕してくるだろう。流石に首の骨、正確にはその中にある神経を傷付けられたら、ナージャといえども命はない。そしてその時は、遠からぬうちに訪れそうだ。
どうにか振り解かねばならないが、爪は通じない。ならば火を吐こうかと思っても、首を締められた状態では生み出した炎が喉で詰まるだけだ。無理に吐いても体内に逆流し、内側から自分を焼くだけになってしまう。
取れる選択肢は二つ。
自分の力で振り解くか、或いはこの少女に自発的に解かせるか。
ナージャが選んだのは、自発的に解かせる方。
「グ、ウゥウウウウ!」
唸り、身体に力を込める。その込めた力を自らの体質により熱へと変換。体表面に蓄積させていく。
大男相手に見せた、体表面の発熱だ。ナージャが持つ強大な力は莫大な熱へと生まれ変わり、その表皮は瞬く間に数百度を超え、周りにある金属……戦車の残骸が溶解するほどの熱量を生み出す。ビルの残骸であるコンクリートに至っては沸騰し、辺りが白煙に包まれる。
物陰から戦いを見ていたエルメス達もこれは危険だと感じたようで、大慌てで逃げ出した。大男も、危うく自分が殺されるところだった攻撃の予兆を前にして、エルメス達と共に走る。難を逃れた虫やトカゲ、鳥のような小さな生き物も死力を尽くして逃げていく。
逃げなかったのは、一番離れて欲しかった少女のみ。
「キキキキキキキキャーッ!」
少女は上機嫌に笑いながら、更にナージャの首を髪で締めてくる。苦しむどころかむしろ楽しげな有り様だ。
どうやら渾身の熱攻撃は、この少女には全く通じていないらしい。それどころか元気になっているのはどういう事か。
自慢の技が通じなくてショック……等という精神的動揺は、ナージャにはない。攻撃が通じないのであれば、別の方法を用いるまでの事。
例えば自慢の尾で、その生意気な顔面に殴り付ける!
「グガァッ!」
身体をしならせながら、ナージャは全力で尾を振るう。
大男との戦いの後に就いた眠りの中で、ナージャは自らの身体を鍛え直していた。たった一日の休眠では僅かなものだが、大男との戦いさえも上回るパワーを取り戻している。今ならこの尾の一撃で、人間達が作り上げた巨大なビルを纏めて数棟粉砕出来るだろう。
しかしこの少女は、顔面に尾の一撃を受けても砕けぬどころか、大した傷さえ負わさなかった。自慢の一撃でも砕けない相手に、ナージャも少なからず驚く。
とはいえ、流石にダメージがない訳ではない。少女の身体は大きく仰け反り、ナージャの首に巻き付いていた髪の毛の力が弱まる。
「ガアアアァッ!」
その隙にナージャは首と髪の間に指を突っ込み、しっかり掴んだ上で引っ張る。この時ばかりは少女の髪の力も緩んでいたのか、大きく広げる事が出来た。
しゃがみ、髪の輪から抜け出すナージャ。即座に少女の腹目掛けて蹴りを放つ。四つに束ねられた髪の一本が動き、ナージャの蹴りを防ぐ盾となるが……蹴りの威力を相殺しきれなかったようだ。少女の身体は大きく後退する。
この好機を逃す手はない。ナージャは即座に前進し、少女と距離を詰める。少女はハッとしたように目を見開いたが、髪の動きよりもナージャが懐に入る方が早い。
ナージャは少女の頭に頭突きをお見舞いし、更に少女を突き飛ばす。足のように伸びている髪が細かく動いてバランスを保とうとするが、それを許すナージャではない。更に体当たりを食らわせ、ついに突き飛ばす。少女は仰向けの体勢で倒れた。
倒れたからといって容赦はしない。ナージャは一気に駆け寄り、足を高々と上げる。無防備な顔面を踏み潰すために。
「キィイヤァッ!」
しかし少女も大人しく潰されてはくれない。
甲高い声と共に、束ねられた髪の一つを振るってきたのだ。足のように太いその一撃で、ナージャの身体は突き飛ばされてしまう。
ごろんと後転しながら体勢を立て直すナージャ。だが少女の方も髪の毛で起き上がり、そしてナージャよりも一手早く動く。
髪の毛を伸ばし、ナージャの腕に巻き付けてきたのだ。ナージャは足腰に力を込め、体内の熱エネルギーを運動エネルギーに変換して腕を引こうとするが……少女が繰り出した髪の毛の方が力強い。
「グァウ!? ゴブッ!」
髪の毛はナージャの腕を引っ張り、体勢を強引に崩す。そして前のめりになった瞬間、もう一本の髪の塊でナージャの顎を打つ!
能力でも変換しきれない打撃だ。衝撃が脳まで伝わり、目眩に似た感覚がナージャを襲う。
堪えるように大地に穴が空くほどの勢いで四股を踏むも、それをしている間に少女は次の攻撃を繰り出す。もう一本の髪で殴り掛かってきたのだ。今度は脳天を打ち付ける一撃に、また前のめりになってしまうナージャ。
それでも闘志を失わずにいると、少女の髪は薙ぎ払うように振るわれた。気付けば腕を拘束していた髪は解かれていて、頭を殴られたナージャは横向きに回転しながら飛んでいく。瓦礫に頭から落ちた衝撃は大したものではないが、殴られた衝撃はまだ残っていた。すぐには身体が動かない。
「キャキャキャキャキャ!」
少女は笑いながら倒れているナージャに肉薄。髪の一束を振り下ろし、ナージャの腹を殴り付ける!
「ゴ、ガ……!?」
「キャー! キャキャキャ! キャキャキャーッ!」
呻くナージャに対し、少女は追い打ちの打撃を放つ。
狙うは頭や腹など、致命傷となり得る場所ばかり。隠しもしない殺意の攻撃は、ついにナージャの口から血反吐を吐かせる。
血を吐いたという事は、体内に傷が出来た事に他ならない。
クレアの猛攻を受けても、大男にどれだけ殴られても、傷一つ付かなかった肉体。『人間』相手には無敵を誇っていた身体が、少女の攻撃によって傷を負ったのだ。
そしてそれは、少女の攻撃はナージャの命を脅かすものだという事を意味する。このまま受け続ければ、いずれナージャの命は終わりを迎えるだろう。
「ゴブ、グ、ギ……ガッ!?」
ナージャも自分の置かれた状況の悪さは理解した。しかし理解した途端、問題というのは解決する訳ではない。今や戦いの主導権は少女が握っている。血を吐くほどの強さで殴られている中、立ち上がるために少女を押し退けるのは困難だ。
しかしどれだけ難しくとも、やらねば嬲り殺されるだけ。
殴られながら、ナージャは身体に力を溜め込んでいく。力を熱に変換し、体内で生成したガスをその熱で加熱する。
ナージャは火を吐こうとしていた。
今までも、必殺と呼んで差し支えない威力を持っていた火炎放射攻撃。しかし此度の火炎は、何時ものものとは一味違う。大男との戦いで有効打とならなかった事から、眠りの中でナージャは火炎放射の力を大きく
「スゥゥゥゥゥゥゥゥ……!」
唯一の欠点が、予備動作が大きい事。最大の威力を出すためには大きな呼吸が必要だ。
しかし少女はその動きを前にしても、怪訝に思ったように顔を顰めるだけ。ナージャの上から退く事はなく、淡々と殴り続ける。
ダメージは刻々と蓄積しているが、これは好機。
「シュゴオオオオオオオオオオオオッ!」
少女の顔面目掛け、ナージャは過去最高の威力の炎を吐き出した!
少女は目を見開くも、殴るために至近距離にいては回避など出来ない。ナージャの炎の直撃を、顔面から受ける事となった。
大男さえも、超再生力を用いなければ一瞬で蒸発してしまう火炎。あの時の威力を大きく上回る一撃は、少女さえも大きく怯ませる。身体を仰け反らせ、炎から顔を背けたのだ。
だが、それだけ。
少女の身体は気化どころか、溶けも焦げもしない。さながら人間が熱気から逃れるように、ただ身体を反らしただけ。苦しんではいるものの、その身体に傷は付いていない。
ナージャもこれには驚く。長々と溜め込んで放った自慢の一撃が、倒しきれないなら兎も角、まるで通じていないとは想像もしていなかった。
「ゴオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
力を入れ直して炎を吐き続けるも、やはり少女は火傷一つ負わさない。
それどころか髪の一本を構え、その髪の束を盾のように広げてみれば……髪が炎を完全に遮断してしまう。
更に力を込めて炎を吐くが、少女の髪は燃えない。炎から逃れた少女は体勢を立て直し、ナージャにじりじりと躙り寄る。
「キキャキャッ!」
ある程度距離を詰めたところで、四つある髪の束の一つをナージャに伸ばした。炎を吐いているナージャは、その炎の眩しさ故に迫る髪に気付いたのは至近距離に来てから。
気付いてからでは回避も間に合わず、髪はナージャの首に巻き付く。吐き出そうとしていた炎が締められた喉で詰まり、口から細いものが一瞬吐き出た後、止まってしまう。
「ガ、グ、クゥ……!」
再びの首絞め。前と同じく怯ませて解こうとするナージャであるが、少女の方とて無策ではない。
巻き付けた髪を前へと突き出すように伸ばし、自身とナージャの距離を開けたのだ。三メートルはある髪を用いれば、ナージャとの距離を二メートル以上離す事など造作もない事。
これでは尻尾で殴り飛ばす事が出来ない。おまけに炎も首を締められては吐けず、体温による高熱も髪を溶かすには至らない有り様。反撃の手立てが全て失われた。
そしてここまでの流れが、極めてスムーズだ。
決して手際が良いという訳ではないのだが……試行錯誤をしたようには思えない。普通初めての敵相手であれば、殴って硬さを確かめたり、手痛い攻撃から必死に逃げようとするものだ。しかし少女は即座に首を締め、炎はすぐに髪で防いでいる。
まるで自分との戦い方を理解しているかのような――――
「グガ、ガゥ……ゥウ、ウ……!」
疑問を抱くも考えている余裕はない。今も首は締められ、その力は刻々と強くなっているのだ。首の骨が軋み、神経が圧迫される。吐き出せなかった炎が身体の内側で荒れ狂い、焼いていくのも辛い。
このままでは確実に殺される。
無敵に等しい力で戦ってきたナージャに、決定的な敗北が迫ろうとしていた……
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