姫君の悦楽12
ナージャの身体が紅く輝く。
そう、輝いている。だが発光と呼ぶにはあまりにも苛烈だ。じゅうじゅうと音を立て、表皮から朦々と湯気を立ち昇らせているのだから。
「グゥ!?」
大男はしばしナージャを掴んでいたが、やがて驚いたように手放す。彼が無意識に視線を向けたその手は、どろどろに焼け爛れていた。
紅く輝くナージャ。その身体は、炎すらも耐える大男の身体を焼くほどの熱を纏っていた。突然のナージャの変容に大男は、怪物にしか見えない顔に戸惑いを浮かべた。
対して、輝く当人であるナージャは真っ直ぐ、鋭い眼差しで大男を睨む。
ナージャは一歩踏み出す。足元には当然地面があるのだが……踏み込んだ途端、ナージャの身体が僅かにだが沈んだ。
何故なら地面が溶解していたから。
此処は元工場跡地。地面は瓦礫などが積み重なって出来た、実質コンクリートの層だ。そのコンクリート製の大地がどろどろと溶けており、ナージャの小さな身体さえも支えられなくなっていたのである。
「……ウゥウゥ」
足場が軟弱で煩わしい。そんな気持ちの唸りを上げながら、ナージャは尻尾を振り下ろす。どしんと音を立てて地面に付いた尾は、こちらもまた沈み、そして液化したコンクリートが飛沫となって飛び散った。
ナージャが炎を吐いた時、その予熱で周りのコンクリートが溶ける事は起きていた。ナージャにそれだけの熱を操る力があるのは、ナージャと対峙した者であれば誰もが身を以て知っている。
だが、今周りを溶かしているのは炎ではない。ナージャの体表面から発せられた熱、即ち『体温』が全てを加熱しているのだ。生半可な生物では接触どころか近付くだけで危険な状態。しかしナージャ自身は身体が紅く光るだけで、然程苦もなく佇む。
「ナン、ダ……コレハ……?」
大男はじりじりと後退り。ナージャから少しずつ距離を取ろうとする。
それは的確な判断と言えた。怪しげな存在にうかうかと近付けば手痛い目に遭う。相手が何をしているのか、何をしようとしているのか。分からないなら離れておく……戦いに限らず、あらゆる『危険』への基本的な対処法と言えるだろう。
尤も、それが通用するかどうかは別問題なのだが。
大男が逃げようとしている。後退する大男の行動をそう判断したナージャは、力強く歩み出す。逃げた分だけ距離を詰めるために。
ナージャとの距離が一層縮まった事を受け、大男は跳躍して離れようとする。安全な立ち回りは、しかしナージャの闘志を燃やしただけ。逃がすものかとナージャは更に踏み出し、
「グガアァッ!」
猛々しく吼えた。
瞬間、ナージャの身体から熱波が放出された!
大気が紅く色付くほどの熱量。目視でも確認出来るそれは、されど躱す事は出来ない。何故なら熱波は音と同じだけ速く、一方向だけでなく全方位に拡散する形で放たれたからだ。
大男も熱波を視認しぴくりと身体を震わせるも、それが精々。熱波の直撃は避けられず。
「ギィギャアアァッ!?」
そして浴びた熱量の高さに、悲痛な叫びを上げるのが限界だった。
熱波は大男の皮膚を焼き溶かす。まるで生皮を剥ぐかのように、べろんとその表皮が吹き飛んだ。筋肉と内臓、更には骨までもが露出する。
ただの炎であれば、大男には耐える事も出来ただろう。彼の皮膚の下には泡状の構造があり、熱が伝わるよりも早く細胞を分裂させて回復するからだ。
しかしこの熱波には対応出来ない。
熱波は高熱のみならず、物理的な衝撃を伴っていたからである。それは正に大男の身に起きたように、皮が剥がれて吹き飛ぶほどの……ただの人間が受ければ跡形も残らないような威力の一撃。真皮ごと吹き飛ばしてしまえば、熱の伝わりなんて関係ない。回復が間に合わず、肉体の奥深くまでダメージを届かせられる。
単純なナージャらしい力任せの攻撃。しかし非常識なほどに強い力であれば、相応の理屈が必要というもの。拳や蹴りという直接攻撃では傷を付けるのが限度だったとなれば尚更であろう。
何をしたのか。二発目も、ナージャは全く同じ方法で熱波を放った。
「グゥゥゥ……ガアアッ!」
一旦力を溜め込み、咆哮を上げる。そして大気が色付くほどの熱波が飛ぶ。
しかしこの熱波を飛ばしたのは、猛々しい咆哮ではない。
叫んだ瞬間、ナージャは自らの体表面温度を急上昇させていたのだ。この莫大な熱量により大気が瞬間的に加熱され、体積が急激に膨張。この膨張圧が周りの空気を吹き飛ばす。
更に吹き飛ばされた空気は自らの熱により、周りの大気を加熱する。押し出された時の勢いと相まって、周りの大気はナージャの体表面から放たれたものより高速化。それは更に傍の大気を加熱・押し出し……一瞬にして何千何万という数の『大気』の層が加速と膨張を起こす。
そして高速化した大気を敵にぶつけて、吹き飛ばす。
言い換えればこの技は、熱を『運動エネルギー』に変換しているのだ。ただ空気をぶつけただけ、と言えばその通りである。しかし高圧縮・高速化した大気は、最早兵器と呼んで差し支えない破壊力を有していた。
これが大男の表皮すらも吹き飛ばした、熱波の原理だ。二発目の熱波も大男は正面から浴び、血肉が吹き飛ぶ。骨が剥き出しとなり、内臓や脳が露出する。これでも死なないのは、細胞分裂が脳や内臓でも起き、致命的な欠損を防いでいるからに他ならない。
今やナージャは大男を圧倒していた。とはいえこれだけの破壊力を生むには、やはり相応のエネルギーが必要となる。いくら超越的な力を持つナージャと言えども無から有は生み出せない。
ならば何処からエネルギーを調達したのか?
それは、目の前で苦しげに蠢く大男だ。
「ガギ、ギボ、オ、オノレェエエエッ!」
顔面の皮が治りきるよりも早く、大男は反撃を決断した。離れるのを止めた足は前進に転じ、ナージャとの距離を詰める。
上げる雄叫びは、人間ならば熟練の兵士さえも尻餅を撞かせるであろう激しさ。されどナージャは一歩と動かす。だからこそ大男は接近に成功し、表皮を失えど未だ太く逞しい足でナージャの側頭部を打つ事が出来た。
一撃で小さな地震さえも引き起こす、破壊的威力を秘めた攻撃。だが、ナージャの身体はぴくりとも動かない。
彼女の身体は熱エネルギーと運動エネルギーの変換を自在に行えるのだ。ほんのつい先程まで男の攻撃に怯んだり仰け反ったりしていたが……何度も何度も変換を繰り返すうちに、ナージャはこの能力の質をどんどん高めていった。
とはいえこれは鍛錬や成長の類ではない。鈍っていた身体が、幾度となく加わった『刺激』によりようやく本調子を取り戻しただけだ。
未だ全盛期の力には遠く届かない。昔の事などすっかり忘れているが、その感覚がナージャにはあった。しかしこの大男の攻撃を完璧にコントロールするには十分。途中からナージャは大男の攻撃に、一つとして傷を負わなくなっていたのである。
そして受けた運動エネルギーは、全て熱として体内に溜め込んだ。
地震を引き起こすほどの強大なパワー。それを一発どころか何十何百と受けてきた。ナージャを押し倒した際、大男は止めを刺すつもりで攻撃していたのだろうが……物理的衝撃を熱へと変換出来るナージャにとって、高威力の攻撃と補給は同義。殴られるほどに、力がどんどん高まっていく。
あの時の力の全てが、今のナージャの身体にはある。それをほんのちょっと解放すれば、この程度の威力を出すなど容易い事なのだ。
「ゴガアァッ!」
蹴られた威力を上乗せし、ナージャは三度目の熱波を放つ。反撃のため肉薄していた大男は至近距離でこれを受け、頭の半分が吹き飛んだ。欠けた脳や目玉も再生を始めるが、しかし体力が減ってきたのだろうか。そのスピードは目に見えて落ちる。
腕と脚も一本ずつ吹き飛び、大男は最早身動きも満足に出来ない。人間から見れば、多少なりとも憐れみを感じる姿であるが、生憎ナージャにそのような繊細な心は備わっていなかった。
「グゥカカカッ!」
憐れむどころか嘲笑い、ナージャは内臓と肋骨が剥き出しとなっている大男の胸部を踏み付けた。
踏まれた衝撃で血と肉片が飛び散り、大男の絶叫が響き渡る。
ナージャはその大男の身体を、容赦なく蹴飛ばした。ごろごろと転がった時の勢いで、男の『中身』がぼろぼろと溢れ出す。未だ治らぬ手足では満足な受け身も取れず、大男は瓦礫の山にぶつかるまで止まる事も出来ない。
「グガァアアアアアッ!」
しかしナージャは手を抜かない。四度目の熱波を放つ!
大男が咄嗟に腕を構えたのは生存本能からか。だが無傷だった頃ならばいざ知らず、今の彼の腕は筋肉すらろくにないほぼ骨の状態だ。
身を守ろうとした腕はあっさり消え失せ、熱波は大男の身体を更に砕く。最早頭や心臓など、大事な臓器以外残っていない姿になり、地面の上に転がった。それでもまだ死んでいない彼は、もぞもぞと身体を揺れ動かし、這いながらナージャから離れようとする。
されどこんな動きで振り切れる訳もない。ナージャは力強い歩みで一気に近寄る。
甚振るつもりはない。手早く、かの強者に止めを刺すつもりだ。
恨みや憎しみはない。だがこの強者相手に加減をするなど、そのような『無礼』をナージャは好まない。ここまで手古摺らせた相手だからこそ、全力で殺しに行く事が彼女なりの礼節。
ついにナージャは大男の傍まで迫り、倒れる男を見下ろす。大男は全身の皮が一つ残らず剥がれ、筋肉さえも失われあちこちで骨が剥き出しの姿となっている。溢れ出した血は熱波により沸騰し、全身から濛々と湯気が立ち上っていた。これでもまだ生きているのは、男に打ち込まれた不老成分のお陰だが……それも限界のようだ。
ナージャは全身の力を昂ぶらせながら、高々と足を持ち上げる。
このまま脳みそを踏み潰す。ナージャはそのつもりでいて、
「タスケテェ……イタイノ、ヤダァァ……」
当の男は、情けない声を出すしかなく。
人間ならば、ここまで追い詰めた相手の命乞いを聞く筈もない。
だが、ナージャは違った。
「……ガゥ?」
踏み付けようとした足を退かす。
大男から敵意がなくなった事に、今になって気付いたのだ。ナージャは首を傾げつつ、大男の傍に座り込む。
大男の身体は時間と共に、少しずつ治っていく。腕も足も形を取り戻して立てるようになる。質量までは回復出来ないので、その身体は随分と小さくなったが……それでも大男と言えるだけの体躯はある。見た目も怪物のまま。本気で殴れば、人間一人の頭ぐらいは飛ばせそうだ。
だが、もう大男は殴ろうともしてこない。
完全に敵意を喪失している様子だ。むしろナージャの事を少し怖がっているのか、おどおどしながら後退りしている。これだけ見れば言葉で説明されずとも、この大男が自分に屈した事がナージャにも理解出来た。
なら、それで良い。
「フッシュウゥゥーッ!」
鼻から吹き出す余剰熱量。周辺の気温を百数十度も引き上げるような吐息によって、ナージャも身体の力を抜いた。
戦いにおいて無慈悲な戦法を容赦なく使い、情けなど微塵も掛けない彼女であるが、決して甚振る事が好きなのではない。戦い自体は好きなので嬉々として戦うが、別段相手の生き死にには ― 殺す事はない、とも思わないが ― 拘らないのである。
余程嫌いな相手なら兎も角、今回はどちらが強いか決めたかっただけ。それがハッキリとした今、ナージャももう戦う理由がない。
「ウーガゥー♪」
上機嫌に鳴きながら、ナージャはその場にどかっと座る。勝利の余韻に素直に浸る彼女は、満面の笑みを浮かべていた。
戦いの激しさに似つかわしくないほどに、呆気なく終わった。
歯応えのある戦いだったので、まずは此処で一休み。未だ火照っている身体を冷やそうとナージャは考えている。ナージャとしてはもう大男に用はなく、大男が何処に行こうと興味などなくて追い駆けるつもりもない。
むしろ、今も変わらず傍にいる方が不思議だ。
「……グゥ?」
「ッ……」
ナージャがくるりと振り返れば、大男はびくりと身体を震わせて後ろに下がる。
しかしそれだけだ。何処か遠くに逃げていく様子もなく、ただただナージャの傍に居続ける。
攻撃してくる素振りがないのでナージャとしても何かする気はないのだが、何時までも傍にいるのは疑問だ。尤も、ただの人間相手ならば疑問止まりで終わりだが……此処にいるのは、以前の力を取り戻すまでは苦戦を強いられたほどの強者。ナージャとしても彼の行動は無視し辛い。
「ガゥー?」
なんか用? そんな気持ちを込めた声で鳴くと、大男は自身の人差し指を咥えながらじぃっとナージャを見つめてくる。
「……マ、マァ」
ややあって出てきたのは、まるで子供のような呼び方。
そしてこの言葉が出た経緯は、ふざけている訳でも、妙な性癖に取り憑かれた訳でもない。大男は真面目にナージャをママと呼んでいた。
その原因はナージャにある。
ナージャの度重なる攻撃により、大男は脳の大部分を失った。優れた肉体性能により脳そのものは再生出来たが、しかし記憶というのは『脳』という概念に宿るものではない。脳内に形成されたニューロンネットワークの流れにより生み出される、物理的なものである。
ナージャの攻撃により脳が吹き飛んだ結果、大男は記憶の大半を失ってしまったのだ。新たに出来た脳はまっさらでつるつるとした、あどけない幼児と大差ないもの。或いはほんの僅かに残っていた部分に残り続けていた、幼児期の記憶が呼び起こされたのか。
いずれにせよ大男は幼児退行してしまった。一人が不安になり、目の前の
普通の人間であれば、このような怪物にママと呼ばれれば悪寒の一つでも覚えるだろう。しかしナージャは特段気にしない。ママという言葉の意味を理解していないだけでなく、怪物だろうがなんだろうが、自分を脅かすものでないならどう思おうと構わないのだ。
それに、彼女は自分を慕う者は嫌いでない。
「……ガァーウウーン」
一緒にいたいならついて来い。私は構わん――――その気持ちを込めるように尻尾を振りながら、ナージャは歩き出す。大男はとぼとぼと、彼女の後を追ってくる。
奇妙な少女と
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