姫君の悦楽11

「ひっ」


 マクシミリアンの口から漏れ出たのは、あまりにも情けない声。

 その声を聞くや大男は、人間からすると一瞬にしてマクシミリアンの眼前まで接近した。マクシミリアンも執事も、突然の事に逃げる事も儘ならない。


「マクシ、ミリアァン」


 更に大男が喋り出した事で、彼等の表情は驚愕に染まった。泣き叫ぶばかりだった怪物に、突如として理性が宿ったのだと察したがために。

 するとマクシミリアンは、恐怖など忘れたような明るい笑みを浮かべた。


「喋った……はは! 喋ったぞ! 理性が戻っている! 知能が回復したぞ!」


 マクシミリアンが歓喜した理由は、大男の言動が理性的だったから。先程までの無理性から、『人間らしさ』を取り戻したのだ。

 そのメカニズムを解明すれば、理性を保ったまま不死身の肉体を得られる可能性がある。外見が怪物的になるとしても、それの何処が問題なのか。不老不死を会得し、人格さえ保てるのであれば、人間の容姿に拘る必要などない――――

 願いがどんどん近付いてくる。それを実感したマクシミリアンが喜ぶのは、当然の反応と言えるだろう。

 眼前の怪物が、果たして本当に理性的かどうかも分からないのに。今まで自分のしてきた行いを、この怪物が忘れているとは限らないのに。


「ユ、ルサ、ナ」


 笑うマクシミリアンの前で、怪物と化した大男は大きく拳を振り上げた


「ウガアァッ!」


 直後、ナージャの飛び蹴りが大男の後頭部に打ち込まれる!

 ナージャから意識を逸していた大男からすれば不意打ちのようなもの。回避も備えも出来ず、彼はその体勢を大きく崩す。


「グガァア!」


 ナージャは追撃として尻尾を振るう。大男の肩を打ったそれにより、かの巨体はぐるんと宙で一回転。大男は仰向けに倒れる。

 追い打ちを掛けるように、ナージャは大男の上に跨がった。

 そして、憤怒の形相で大男を睨む。

 無論ナージャは襲われた人間マクシミリアンを助けようとした訳ではない。大男の攻撃を妨げる事になったのは結果的なもので、マクシミリアン達が死んだところでナージャとしてはどうでも良いのだから。

 だが、自分との戦いを無視して他人に構うのは許せない。

 ナージャとしては今、認識なのだ。それも夢中になって。なのに大男が突然他人に構いだしたなら、興が削がれるというもの。


「グガアアアアアアアアアアアアッ!」


 私を見ろ! 私と遊べ! その感情をぶつけるように、ナージャは咆哮を大男の顔面に吐き付ける。

 大気が震えるほどの大声量。直に浴びせられた訳でもないのに、人間達はひっくり返ってしまう。


「ジャマヲ、スルナァ!」


 しかしそれほどの強さで発せられたナージャの気持ちは、残念ながら大男には届かなかった。苛立ちと怒りが混ざり合った雄叫びを上げながら大男は拳を繰り出し、ナージャの顔面を殴り付ける。

 今度はナージャが攻撃を防げず、大きく仰け反った。だがナージャはにやりと笑う。

 求めていたのはこれだ。殴り、殴られ、殴り返す。言葉も感情も必要ない。純然たる暴力のぶつかり合い。

 強者との闘争。それが再開出来れば文句などない。


「ひ、ひぃいぃ!」


「はは、ははははは!」


 執事とマクシミリアンがこの隙に逃げ出す。大男は追おうとしたのか視線を彼等に向けたが、ナージャがそれを許さない。

 大男の顔面を殴る。それも幾度も。跨った体勢から攻撃を繰り出すのは比較的楽なもので、大振りの打撃を連続して放つのに苦労はない。

 対する大男は未だ倒れたまま。これではあまり大きな力を発揮出来ない。


「ヌウゥウッ!」


 大男はまず、体勢の不利を解消しようとしたのか。唸り声を上げるや、その身を大きくしならせて跳ねる。

 ナージャの小さな身体は大男の動きを抑える事が出来ず、吹き飛ばされてしまう。空中でくるくると回転し、ナージャは両足で着地。大男と向き合う。

 大男の視線は、やはりマクシミリアン達の方に向いていた。

 しかし意識はナージャの方だけを『向いて』いる。だからナージャは迂闊に攻撃を仕掛けない。獰猛な笑みを浮かべながら、大男だけを見つめる。

 マクシミリアン達の姿が見えなくなると、大男もナージャと向き合う。睨み合いはしばし続いたが……やがて大男が大きなため息を吐いた。


「ナゼ、ジャマヲスル」


 次いで大男の口から出てきたのは、問い掛け。


「アイツ、オレヲコンナ、カラダニシタ」


 大男は理解していた。自分の今の肉体が、かつての自分から遠く離れたものである事を。

 人間にとって、自らの容姿が急変する事は大きな精神的負担だ。ましてやそれが醜い形ならば尚更である。薬物に手を出したのは自分の責任だとしても、それに付け込んで人体実験をするのは疑いようがない『悪事』だ。


「ユルセナイ……アイツ、ユルセナイ……!」


 声に感情を滲ませ、握り締めた拳が震える。大男の反応は、人間の心理として極めて真っ当なもの。

 だが、ナージャにとっては違う。

 ナージャは自分の見た目に大した拘りなどない。可愛らしい少女の外観をしているが、これは勝手に得られた天性のものである。醜い怪物だろうが人間の姿だろうが、ナージャは嫌悪すら抱かない。大男との変化に恐怖も動揺もしなかったのがその証だ。

 尤も、大男はナージャのこの態度を、彼女の寛容さの証明とは受け取らず。


「ナノニ、オマエ、ジャマシタ。アイツノテサキカ?」


 代わりに、大男は疑惑を抱いた。

 ナージャもまた自分と同じように、マクシミリアン達ドミニオン復職工業により改造されたのではないかと。そしてマクシミリアンの指示を受けた刺客なのではないかと。

 それもまた合理的な考え方だ。脳を弄り回され、改造されたのならば、恐怖も嫌悪も感じずに戦える筈。加えて普通の人間が、今の大男とまともに戦える訳がない。大男と同じように薬と細胞成分を打ち込まれ、マクシミリアンを守るようコントロールされている、というのは荒唐無稽な話ではない。

 無論、それは全くの勘違いであるのだが。ナージャはそもそも人間ですらない。

 しかしナージャは彼が何を言っているのか、全く理解出来ていない。人間の言葉も話せないので、反論などしようもなかった。そもそもナージャにとって大男にどう思われよ うと知った事ではないのだ。大事なのはこの強者との戦いが続くか否か。


「グガアアアゴオオオオオオオオオッ!」


 返答は、猛り狂った『野蛮』な咆哮だけで十分だ。


「……ナラ、ココデツブス!」


 大男は誤解と共に構えを取り、ナージャに向けて走り出す!

 ナージャも同じく構え、大男との戦いを再開させる。しかし彼女の顔は、すぐに驚きに染まる事となった。

 速い。

 今までよりも、大男の動きが俊敏になっていた。肉体が変化した事でより力を増した可能性は、ナージャも考えていなかった訳ではない。されどこれを差し引いても、驚きと言える速さで拳を振ってきたのだ。

 ナージャは両腕を身体の前で交差させるようにして組み、攻撃に備える。大男の拳は正確にナージャの腕を打ち、その拳に宿した力を容赦なく打ち付けてくる。

 またもナージャは驚きを覚えた。

 殴られた衝撃で、ナージャは大きく後退したのだ。ナージャとて吹っ飛ばされないよう足には力を込め、能力により運動エネルギーを熱に変換して耐えようとしたが……止められなかった。


「ヌゥウゥ!」


 吹き飛ばしたナージャに肉薄するように、大男もまた動き出す。飛んだナージャ以上の速さで駆け抜け、射程内に入れるや即座に足蹴を放ってきた。


「ガゥッ!」


 ナージャはこれに即応。自らも蹴りを放ち、大男の足とぶつけ合う。

 互いに攻撃を当て、威力を打ち消す。しかしこれで総和がゼロになるのは、両方の威力が全く等しい時だけ。

 片方の力が大きければ、消しきれない。


「ギャゥ!?」


 ナージャの小さな身体は、また加速する形で吹き飛ばされてしまった。ぐるぐると身体が回転。どうにか足から着地するも、バランスを取るのに意識を持っていかれてしまう。

 その隙に大男はナージャにまた肉薄していた。

 ハッとしたナージャは即座に顔を上げるも、すぐに下を向く事となる。何故なら大男が繰り出した拳が、ナージャの頭を力強く打ち付けたからだ。

 これで頭がくらつくほどナージャも軟ではない。尻尾を振るい、殴ってきた腕を殴り飛ばす。大男の腕は跳ね除けられただけでなく、衝撃により筋肉に覆われた腕の一部が凹んでいた。鬱血し、青々とした色が付く。

 ところがその痕跡は、瞬く間に消えてしまう。


「グルゥ……グッ……!」


 唸るナージャに大男は再び殴り掛かる。顔面を打たれた拍子に捻った身体の動きを利用し、ナージャは鋭い爪を備えた手で引っ掻く。

 爪の鋭さは大男の表皮を上回り、深々とした傷を与えたが……これもまたすぐに再生して消えてしまう。

 凄まじい再生能力。

 火炎を耐えた時から分かっていた力であるが、これがどうにも厄介だ。小さな傷は今のように一瞬で治ってしまい、戦う力を奪うに至らない。大火力で一気に粉砕するのが唯一の撃破方法なのだろうが、しかし火炎攻撃は泡状組織と再生力の組み合わせで耐えられてしまう。無論、渾身の力を込めた拳なんかではどうにもならない。

 ましてや今のナージャは、多少鈍りは取れたものの未だ全盛期には遠い実力だ。一体どうすれば良いのか。


「オオオガアアアッ!」


 考えるナージャに対し、大男が蹴りを放つ。拳の三倍の威力を持つと言われる足技が頭を直撃し、ナージャもこれには目を回す。

 咄嗟に尻尾で応戦するが、大男は即座に手を広げ、これを掴んだ。尻尾の打撃は大男の力を上回り、踏ん張っていた足を土埃と共に大きく後退させるが……大きな彼の手はナージャの尻尾をがしりと掴む。

 そのまま尻尾を持ち上げ、ナージャを逆さ吊りにした。今までされた事のない持ち方に、ナージャもジタバタと暴れて拘束を振り解こうとするも、大男の腕はぴくりとも動かない。蹴りで腕を攻撃してもやはり内出血が精々で、その傷もすぐに消えてしまう。

 大男はなんの問題もないとばかりに、ナージャを地面へと叩き付けた!


「ガゥ、ウゥゥ……!」


 衝撃で大地が揺れ、小さなクレーターが出来上がる。人間ならば跡形も残らないであろう威力だ。ナージャは生きていて、闘争心を露わにした唸りを上げるも、大男を怯ませるには足りない。

 大男は冷淡で、理性的な瞳で見下ろすだけ。

 そもそも、何故大男は理性を回復させたのか。これもまたこの肉体の再生が関係している。

 大男の理性を狂わせていたのは、マクシミリアンが投与していた薬の効果だった。あの薬は極めて依存性が強い。薬物依存とは、薬効により脳の神経が狂わされた状態だ。故に自分の意思では我慢が出来ない。大男の脳神経も、正常な状態とは程遠いものだった。

 ここにナージャの度重なる攻撃が加わった。ナージャは手加減なしの攻撃を幾度も大男の頭に与えている。大男は昏倒にこそ至らなかったが、それでも脳細胞にダメージは受けていた。脳細胞はあまり頑丈なものではない。ダメージを受けた脳細胞は呆気なく死んでいく。

 注入された細胞成分により、脳神経までも常人離れした再生力を有す。このため脳細胞が死ぬ度に分裂し、修復されていたが……この時、作られる脳細胞の『繋がり』がリセットされていた。新たな繋がりは健全なものであり、薬物汚染を受ける前のものに近い。即ち、彼の精神は正常なものへと戻りつつあるのだ。また細胞分裂時に活発化した代謝の影響で、体内に残っていた薬物も消費されて消えた事も大きい。

 今、大男の頭は最高に冴え渡っている状態。そしてそれは戦略的思考に優れるというだけでなく、身体の動きのコントロールも完璧にこなすという事を意味する。拳と足を正しく振るい、前へと突き出せる。その速さと威力は当然、がむしゃらで技法のない攻撃よりも数段上だ。

 今の彼は『絶好調』と言えよう。これが彼が急激に強さを増した秘密であり、ナージャの攻撃が招いた結果とも言えた。


「ムンッ!」


 クレーター内で横たわったままのナージャの首を片手でがしりと掴み、握り締めてくる大男。窒息か、或いは首の骨をへし折るつもりか。

 いずれにせよ相手を殺すつもりならば的確な行動。ナージャもこのまま絞められているつもりはなく、首を掴む腕に爪を立てて引っ掻く。しかし刻んだ傍から傷口は再生し、ろくなダメージにならない。

 そんな微かな傷跡さえも、大男の闘争心を高ぶらせたのか。

 大男はナージャの腹目掛けてもう片方の拳を振り上げた。彼女の両手は首を掴む片手に向いていて、この拳を受け止める事は出来ず。

 地震さえも引き起こす、破壊力抜群の拳。人間の脆弱な肉体と違いナージャの身体は砕けたりしないが、その威力に大きくナージャの身体が曲がる。


「ガフ!? グッ、ウゥ!」


 腹から全身に広がる衝撃に呻きながらも、ナージャは即座に反撃。尻尾で首を掴んでいる方の腕を打つ。

 しかし最早この程度で大男は止まらない。

 大男は何度も拳を振り上げる。執拗にナージャの腹を、頭を、打ち続ける。

 最初はナージャも反撃していた。しかしやがてだらんと手足から力がなくなり、動かなくなる。精々尻尾がぴくんぴくんと跳ねるだけ。押し倒された体勢のまま、起き上がろうともしない。

 一見して、ナージャは瀕死の状態だ。だが大男は手を抜かない。ナージャがどれだけの『強者』であるか、これまでの戦いで散々思い知らされたのだ。

 その身体の原型を失うまで攻撃し続けなければ、『倒した』とは到底言えない。


「グオオオオオオオオオッ! オオオオオオオオオッ!」


 ナージャが動かなくなったと見るや、首を掴んでいた手を離す。しかしそれは両手を使うための前振り。

 大きく振りかぶるや、大男は全身が膨れ上がるほどに筋肉を張る。そして渾身の力で拳を振るう!

 男の拳は一瞬にして何十、何百という回数でナージャの身体に打ち込まれた。ナージャは最早身動きもせず、ただ殴られるだけ。横たわる身体に幾度となく鉄拳が命中。それでも大男は殴るのを止めない。このナージャという少女の形がなくなり、二度と自分の邪魔が出来なくなるまで。

 そう、何時までも殴った。殴り続けた。

 ――――やがて、大男は違和感を覚えただろう。

 散々殴った。動かなくなってからも延々と。一方的と言って過言ではない。そして動いていないのだから、ナージャは防御を固めたり、致命的な部分を避けたりしていない。

 だというのに、倒れるナージャの身体には未だ擦り傷一つ付いていなかった。内出血の痕跡も見られない。

 傷がないからには、ダメージを受けていないという事になる。しかしそれならナージャが動けない理由がない。それどころか事になってしまう。

 これで表情が死んでいれば単に身体が丈夫なだけと言えただろう。だが、ナージャの表情は死んでいない。生きた顔であり、今も僅かに動いている。

 ましてや不敵な笑みを浮かべているとなれば、虚勢だと判断するのはあまりに軽率。


「……ナンダ……?」


 不可解さからか、大男は攻撃の手を止める。だが、既に手遅れ。ナージャは『準備』を終えていた。

 ナージャの反撃が始まる。

 それは彼女の体表面が、煌々と紅く輝く事を合図としていた……

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