姫君の悦楽09
何かがおかしい。炎を吐きながら、ナージャは違和感を覚えた。
吐き出す炎により、大男が着ていた服は跡形もなく消し飛んだ。それがどんな素材で出来ているか、ナージャは知らない……ドミニオン服飾工業が開発した特殊繊維で構成されており、高温高圧強酸強塩基にも耐える、桁違いの強靭さを誇る服だなんて。
それをあっさり溶かし尽くす高温にも拘らず、大男は未だ炎の中で原型を保っている。
いや、原型というのは正しくない――――生きている。炎の中で身動ぎを繰り返す事から、間違いなく生命活動を続けていた。
「ア、ヅ、ィ……アヅゥゥウゥイィィ……」
唸るような言葉で、熱い熱いと呻く大男。一応苦しんではいるらしく、ならばダメージは受けているのだろう。
だがそれだけ。ナージャがどれだけ強く息を吹き付けても、大男は消し炭とならない。身体に力を込め、それを熱エネルギーに変換して熱量を上げてもみたが結果は変わらない。
そして炎が普段以上の熱さを帯びている事は、大男の立つ床代わりのパイプがどろどろと溶けている事からも明らかだ。
「シュゴオオオオオオオオオオオオオオ、オ、ボフッ」
ついに一呼吸で溜め込んでいた息を使い果たし、ナージャの炎が途切れた。小規模な爆発を彷彿とさせる、黒いガスが最後に出たところで口を閉じる。
火炎が消えるのと同時に、大男が再び姿を現す。
……否。そこに大男の姿はない。代わりに現れたのは、見るもおぞましい怪物だ。
身の丈は三・五メートルほどにまで巨大化している。屈強ながらも人間と思える程度には整っていた体躯は、全身に水膨れのような膨らみが幾つも出来上がり、更に大きくなっている。腕や足もぶくぶくと膨れ、形を保っていない。
顔面に至っては、最早腫瘍で埋め尽くされたかの如く様相だ。顎は焼け爛れたように溶け、目も周りの筋肉が溶けたのか大きく飛び出している。耳は流石に消し飛んだのか、跡形も残っていない状態だ。
姿形を変える事で、炎に耐え抜いたのか。だとしてもこの変化は異様と言う他ない。それに姿をちょっと変えたぐらいで、ナージャが放つ超高温の……コンクリートさえ一瞬で気化させる熱量に耐えるというのは、奇妙を通り越して異常である。肉厚になった分だけ耐熱性は上がっているだろうが、そんな小手先の対応でどうにかなるものではないのだから。
しかしどれだけ理屈を捏ね、あり得ないだの異常だのと否定したところで、大男の肉体がハッキリとした形で残っている事実は変わらない。ナージャもこれは素直に認め、大いに驚く。まさか自分の炎を受けて、消し炭にならないどころか生きている存在がいるなんて。
されど思えば、かつてそのような輩がいたような――――
「ア、アヅ、グ、ナイ……イ、イタイ、イタイ……」
ナージャが考える中、大男は声を発する。未だ理性は欠片もなく、苦しんでいるような状態だ。
炎のダメージが身体に残っているのか? それは自然な考え方だろう。だが、ナージャはそう思わなかった。本能で思考する彼女は、より正確は判断を下す。
強くなっている。
自分が炎を浴びせた時よりも、遥かに、桁違いに。
その異様な『強さ』が、彼の身体を痛め付けているのだ。
「イ、イタイヨオオオオオオオオオオ!」
雄叫びと弱音の混ざり合った、奇怪な叫びと共に大男が走り出した!
大男が進む先にいるのはナージャ。
ナージャはどしりと足を広げ、両手を前に出して迎え撃つ。今まで大男の力を全て受け止めてきた強靭な肉体に、当の大男はそんな事は忘れたとばかりに突っ込んだ。
するとどうした事か。ナージャの身体が浮かび上がる。
大男の体当たりにより、ナージャは突き飛ばされたのだ! これにはナージャも目を見開いて驚く。自分は今、全く加減をしていなかったというのに。
「ウグアァアアアアッ!」
ようやくナージャを突き飛ばしたが、大男はそれに喜ぶような素振りもなし。一層激しく咆哮を上げ、ナージャに迫りながら拳を振るう。
拳と言っても最早人間的な腕ではない。異様に膨れ上がった、異形の剛腕だ。腕先の速さはついに音速を超え、白い靄を纏ってナージャに迫る。
「ガゥッ!」
ナージャはその拳に対し、自らも拳を振って立ち向かう。
人間であれば、無謀以前の話。人間というのは、超音速で迫る大質量物体を素手であれこれ出来る存在ではないのだから。そもそも音より速い物体を目視出来るような神経など持ち合わせていない。認識どころか反応も出来ず、呆気なく攻撃が直撃するだろう。
しかしナージャは違う。彼女の目は音速超えの物体を正確に捕捉しており、そして同じく音を彼方に置き去りにする速さの拳を放てる。大男の拳に対し、拳で立ち向かう事が出来た、
両者の拳がぶつかり合う。相殺し合った衝撃が、衝撃波や熱の形で辺りに飛び散る。
それでも相殺しきれなかった、ほんの僅かに上回ったパワーが……ナージャの身体を突き飛ばした。
「グゥ……!?」
驚くナージャ。まさか自分のフルパワーを受け、それでもなお突き飛ばせる人間がいるとは思わなかった。
あのクレアでさえ出来なかった行いであるが、大男はこの名誉ある結果に喜ぶ素振りもない。むしろ全身の力を更に滾らせていく。
膨れ上がった筋肉が、骨も血管も神経も、締め上げている事に気付いていないかのように。
「イタイノ、ヤメロォオオオ!」
上げる言葉は、悲鳴。
しかし繰り出す行動は、突進!
ナージャでさえ辛うじて反応出来た程度の、桁違いの速さで大男は体当たりを仕掛けてくる! ナージャは両手を前に出してこれを受け止め、一瞬は耐えたが……小柄な身体はあっさりと宙に浮かぶ。
ナージャはくるんと一回転して軽やかに着地したが、大男の追撃は終わらない。またもナージャ目掛けて突進。三度目の体当たりに備えてナージャは腰を落とし、構えを取った。
ところが今度の大男の攻撃は、体当たりではない。
蹴りだ。至近距離まで迫ったところで、自らの巨体を支える足の一本を繰り出してきたのである。即座にナージャはこの蹴りを止めようとするも、大男の蹴り上げの威力は凄まじい。手は押し返され、ナージャの胸を大男の足先が打つ。
蹴り上げられる形となり、ナージャは天井に叩き付けられた。それでもまだ足りず壁に埋もれ、咄嗟の身動きが取れなくなってしまう。
「ウゥワアアアアガァアアッ!」
大男はそんなナージャに向けて、真っ直ぐ跳び上がってきた。
天井に埋もれるナージャへの追撃。ナージャにも避けられず、突撃を受けるしかない。
そして大男の突撃は、ナージャを更に天井の奥へと押し込む。
いや、最早押し込むなんてものではない。天井を突き破る形だ。天井の先にあった部屋を貫通してもまだ大男の勢いは止まらず、更に次、また次の天井を打ち砕いて進んでいく。
ナージャが天井に叩き付けられなくなったのは、三度天井を破いてから。とはいえそれは大男が勢いを失ったからではない。
もう、天井がなかったからだ。
ナージャは地上まで押し出されたのだ。厳密には地上に出てもまだ止まらず、十メートル以上の高さまで打ち上がる。燦々と太陽の輝く真昼の明るさと、ちょっと前に起きた爆発で跡形もなく吹き飛んだ工場の跡地がナージャの目に写り込んだ。
懐かしき地上、等と感慨に浸る暇はないが。
「ウググゥ……ガゥッ!」
空中でナージャは尻尾を振るい、大男の頭を打つ。尻尾の一撃はナージャの肉体的攻撃の中で最も強力なもの。これには大男も体勢を崩し、ナージャを掴んでいた力を緩める。
この隙にナージャは大男の顔面を蹴る。ダメージを与えるため、というよりも距離を取るための攻撃。思惑通り大男は衝撃で僅かながら遠退き、ナージャはその隙に離脱した。
拘束から逃れたナージャは二本足で着地。対する大男は、蹴られた拍子にバランスを崩したのか、頭から墜落する。
「イダイィイイ! ィイイヤダアァアア!」
尤もこの程度で死ぬ事もなく、大男は周りの瓦礫が吹き飛ぶほどの勢いで起き上がる。
それでも一旦突撃が止む程度には、疲れるなり痛むなりしたのだろうか。身体を激しく揺さぶり、頭を掻き毟りながらも、大男の攻撃は一時的に止む。
ナージャはその大男を静かに見つめつつ、息を乱さずに思考する。
この大男の強さは、明らかに人間の領域を超えている。最早『強い』という言葉さえも似付かわしくないだろう。何千年という歳月を惰眠に費やし、それを遥かに超える年月を生きてきたナージャですら、ここまで優れた戦闘能力を持つ人間を見たのは初めてだ。
どうして彼は強いのか? 何か理由があるのか? 疑問を感じない訳ではないが、しかしナージャにとっては瑣末事である。
重要なのは、この男が自分に匹敵する強さだという事。
「……クキャッ!」
その事実を受け入れたナージャは笑った。獰猛にして満面の、心からの笑みという形で。
自身と互角の強さを持つ大敵の出現。己の強さに自信を持つナージャにとって、それは『楽しい』事だった。今までの戦いは殆ど一方的な暴虐に過ぎず、戦う理由も不愉快だとかなんだとかというもの。だからこそナージャは、自分の力を出し切るという事が出来ずにいた。
この大男相手ならば、本気を出せるだろうか。
この大男と戦っていたら、全盛期の強さを取り戻せるだろうか。そう、あの頃のような――――
「グキュ?」
あの頃ってなんだ? ふと自分の頭を過ぎった思考に意識が逸れる。
何分ナージャは長く生きてきた。色んな事を見てきて、色んな事をしている。しかし彼女はあまり思い出に拘らず、何よりあまりにも長く生き過ぎたので、昔の事を結構忘れていた。
思い出そうと本気で頭を働かせれば、少しは思い出せるかも知れない。しかしながら今は大男との戦いの真っ只中。首を傾げるナージャの姿は隙だらけであり、攻撃者からすれば好機に他ならない。
「アガ、ギ、ィイイヤアァダアアア!」
咆哮を上げながら、再び大男が走り出す。
考え事は中止だ。ナージャは即座に尻尾を振るい、地面に叩き込む。第三の足として身体を固定し、大男の突撃に備えるためだ。
ナージャは退かない。退く気などない。楽しいというのは勿論の事、彼女は一片たりとも疑っていないのである。
自分こそが、この世で一番強い生物なのだと。
「ゴガアアアアアアアッ!」
迫る強敵に対し、歓喜と誇りと自信を滾らせた咆哮で迎えるナージャ。
またしても始まる、桁違いの力を持った生命の激突。三度始まる激戦であるが、この戦いには今までと異なる点があった。
それは観戦者がいる事。
二人の人間が、ナージャと大男の戦いを遠くから見ていたのだ。尤も、ナージャにとってそんなのは問題視するような話ではない。
今の彼女にとって大事なのは、目の前にいる強者のみ。
例えその二人の人間が、強者を生み出した『元凶』だとしても、だ――――
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