姫君の悦楽08

 箱の大きさは、幅で見れば頑張れば人間数人が入れるぐらい。高さは少女ぐらいの背丈しかないナージャの倍はあるだろうか。

 箱の材質は、恐らく金属。鋼鉄か、合金か……知識がなくとも、相当頑丈に作られたものなのは容易に察せられる。更には念のためと言わんばかりに、箱は鎖で雁字搦めに縛られていた。

 人間ならば、何か得体の知れない不気味さを感じるだろう。今まで渡ってきた廊下を形作っていたパイプは、今度は床を形作るように張り巡らされ、最終的にほぼ全てがその箱と接続しているのも異様だ。

 何より、箱の周りに幾つもの血痕があるのが、不気味さを際立たせる。

 触れるべきではない。近付くべきではない。そんな生命の根源的警告を呼び起こす代物。どうしても確かめねばならないとしても、慎重に行うべき存在である。


「ガゥ? ガウー」


 しかしナージャは気にしないので、ズカズカと歩み寄り、べしべしと箱を素手で叩いた。

 衝撃を与えると、箱はガタガタと揺れる。中にいる何かが暴れているようだ。


「ンー……ガウゥーン♪」


 なので面白半分に、ナージャは箱を揺さぶる。それも今まで以上に激しく、容赦なく。


「ゴァッ!? ゴ、ゴゥッ!?」


 今度は箱の中から、獣染みた、しかし誰の耳にも戸惑いと分かる声が聞こえた。

 やはり中に何かがいるらしい。そう思ったナージャは箱の金属板に手を掛け、力強くで破る

 瞬間、中から腕が一本飛び出し、ナージャの首を掴んだ。太く、それでいて筋肉が剥き出しになったような見た目の手だった。


「グウゥウウ――――」


 箱の中身からの、殺意に塗れた唸りが聞こえてくる。

 そしてその手はナージャの首を握り締める。人間であればへし折れるどころか、身体と頭が分かれるような力で。

 されど、ナージャの身体は人間ほど軟ではない。


「ガゥッ」


 相手の腕を掴んだナージャは、軽々とその腕を引っ張る。

 箱の中身はあっさりと飛び出し、箱の外へと放り出された。出てくる際の衝撃で金属の箱や鎖はバラバラに砕けたが、放り出された『誰か』の身体は千切れてはいない様子。ごろごろと床を転がりながらも、颯爽と自力で立ち上がる。

 そしてその全容を、ナージャに見せた。

 姿形を一言で例えるならば、大男、だろうか。

 しかしその言葉の頭には、「異形」という前置きが必要だ。身長は二メートルを超え、肩幅はナージャ三人分を優に超える広さを持つ。頭部は禿げ上がっているが、それは表皮そのものが失われた結果なのは、剥き出しの頭蓋骨が物語る。

 骨が露わとなっている頭部だが、完全な骸骨という訳ではない。頬の筋肉や目元の筋肉は、剥き出しながらも残っていた。眼球もあったが、白濁しており、とても世界を見通せそうにない。歯茎も剥き出しであり、白く綺麗な歯がその顔の異様さを際立たせていた。

 腕も足も極めて太く、一本で華奢な女一人分ぐらいの幅があるだろう。無論その表面は女のきめ細やかな肌ではなく、無骨で隆々とした筋肉。血管が浮かび上がるほどに張り詰め、鋼鉄のような硬さを見る者に感じさせる。

 そしてその身体には、黒い布が巻き付けられていた。腕も身体も足も、全てが覆い隠されている。布はギチギチに張った状態で、お世辞にも動きやすい状態ではないだろう。


「ゥ、ウウゥウゥゥ……ウウゥゥ……!」


 大男は唸る。頭を両手で抱え、蹲ってしまう。


「ガゥ? ガゥー」


 大男の変調を見て、ナージャは歩み寄る。首を掴まれた事は然程気にしていない。ダメージにもならない攻撃を逐一気にするほど、彼女はねちねちした性格ではないのだ。

 ポンポンとナージャは大男の頭を触る。頭蓋骨剥き出しの頭はつるつるしていて、思いの外触り心地が良い。その手触りの方に夢中となったナージャは、更に大男の頭を撫で回す。

 頭を抱えていた大男にとって、それが不快だったという事はないだろう。ナージャが触る前から蹲り、身体を震わせていたのだから。


「イエ、カエリ、タ、イ」


 ナージャが撫でている事など関係なく、男はそう呟いた。

 ナージャに大男の言葉の意味は分からない。

 分かるのは、この言葉を発した後の大男は、狂気的な雰囲気を纏った事。その狂気が自分へと向けられている事。


「カエ、ラ、セ、ロオオォォォ!」


 そして自分目掛けて襲い掛かってきた事だけだ。

 大男は大きな両手を広げ、ナージャに掴み掛かろうとしてくる。身体だけでなく手も大きく、ナージャの首どころか腕さえも易々と掴める広さだ。がっしりと、その手はナージャの腕を掴む。

 そのまま体重を乗せてきたのは、ナージャを押し倒そうとしての事か。人間離れした凄まじい怪力であり、普通の人間ならば……押し倒すどころか、ぐしゃりと押し潰してしまうだろうパワーを発揮していた。


「ガアァアッ!」


 しかしナージャにとっては、簡単に押し返せる力でしかないのだが。

 手を突き出す必要もない。ただナージャは足の力だけで、大男の身体を押す。押し倒すどころか返され、大男は白濁した目を更に大きく見開く。

 これに対抗しようとしてか、大男は全身が一回り大きくなったかのように筋肉を膨らませた。ところが、着ている布がそれを邪魔しているのか。ギチリと音を鳴らすだけで、大男の力はあまり強まらず。

 ナージャの押し出しにより、大男は部屋の壁に叩き付けられた。壁には無数のパイプがあり、衝撃により幾つも破損。謎の液体や蒸気を撒き散らす。

 壁にめり込んだ事で、大男の動きは鈍くなった。逃げようと思えば、今なら比較的簡単に逃げられるだろう。別段、ナージャにこの男を殺すなどの目的はないのだ。

 だが、ケンカを売られた。事実はどうあれナージャはそう認識した。

 だから買う。この大男が屈するか死ぬか、どちらかになるまで暴れ回る。

 ナージャにとっては、それが『遊び』なのだから。


「グカアァ!」


 壁に埋め込まれた大男に向けて、ナージャは蹴りを放つ。大男はこれを両手で受け止めるも、更に深く壁にめり込んでしまう。

 全く動けなくなった男の足をナージャは掴むと、片手で軽々と振り上げる。

 そうすれば大男は壁から飛び出し、ナージャの動きに合わせて弧を描く。大地に叩き付けられ、地面を這うパイプを数多潰した。蒸気やガスが舞う中、ナージャは気にせず前進。

 横たわる大男の傍に来たら、今度は勢いよく尻を蹴り上げた。


「グゴッ!? オ、オグギ……!」


 大男は苦しみからか唸り、蹴りの衝撃で浮かび上がった空中にて藻掻く。抵抗虚しく天井にぶつかり、大男は自由落下してくる。

 ナージャにとっては遅い動き。真下で待ち構える事など造作もない。

 しかし大男も大人しく、また蹴り上げられるつもりはなかった。


「グルゥ!」


「オオガアアッ!」


 ナージャの蹴りに合わせ、自らも拳を振るったのだ。

 蹴りと拳は互いの衝撃を中和し、吹き飛ばされる力を減らす。それでも大男の身体はまた宙を舞ったが、しかし今度は然程高くない。二本足で地面に着地し、即座にナージャの方を見遣る。


「ガァ!」


 その時にはもう、ナージャは大男の懐まで肉薄していたが。気付いた大男が慌てて腕を動かすが、ナージャが頭から突っ込む方が遥かに速い。

 強烈な頭突きを受けた大男は軽々とふっ飛ばされ、再び部屋の壁に叩き付けられた。ナージャが追撃のため駆け寄ると、大男は片腕を振り被りナージャの頭を打つ。

 常人相手ならば受けた頭がパンッと弾け飛ぶ威力だが、ナージャ相手では体幹すら揺さぶらない。


「グルガアァッ!」


 問答無用の反撃。ナージャの尻尾が大男の身体を打つ!

 大男は片手で尻尾を掴むが、どれだけ踏ん張ってもナージャの力は抑えられず。ナージャの何倍も大きな身体が、ナージャの太く長い尻尾に振り回される。

 大男の身体は何十メートルと飛ばされ、ごろごろと転がる。どうにか止まろうと奮闘していたが、尻尾が与えた運動エネルギーを捌く事は出来ず。勢いを殺せぬまま部屋の壁に激突。地震のような振動を起こした。

 これには大男も小さくないダメージを受けたようで、起き上がる身体の動きが鈍い。


「……………フシューッ」


 じゃあここらで一旦休憩、とばかりにナージャは荒々しく鼻息を吐く。自分のペースで一休みを挟めるぐらいに、ナージャはこの『戦い』において優位に立っていた。

 無論、それは大男が弱いという意味ではない。

 力もスピードも中々のものだ。恐らく以前戦ったクレアに匹敵する、或いは上回る実力である。クレアでさえも人間達の使う銃は通じず、逃げる事さえ満足に出来ない速さで駆けてくる。であれば、この大男は圧倒的と言うしかない強さで大軍をも蹂躙してみせただろう。

 しかしあのクレアであっても、ナージャの敵ではない。大勢の手下と共に襲い掛かってきた時は少し苦戦したが、あれは本調子に程遠い力しか出せなかったのが原因だ。本来の力を少し取り戻せば返り討ちに出来る程度の存在でしかない。

 この大男には仲間がいる様子もない。ナージャにとっては敵どころか、遊び相手としても不十分な存在だ。

 クレアは食事の邪魔をしたので『滅ぼす』対象だったが、この大男はちょっと構ったら襲われただけ。人間で例えればネコがじゃれてきたようなものだとナージャは感じていた。小五月蝿いが、意地でも殺してやると思うものでもない。

 なので素直に負けを認めるのであれば、見逃しても構わないのだが……


「ゥ、ウゥ……ウウゥウウウウ……!」


 大男にそんな素振りは微塵もない。身体のあちこちに金属が刺さろうと、頭蓋骨が割れて歪に歪もうと、未だナージャに狂気を向けてくる。

 どうやら錯乱しているようだと、ナージャは理解した。このような輩は負けを認める事はないと、長く生きたナージャは知っている。

 戦いを終わらせるには、止めを刺すしかない。

 そしてナージャはそれを躊躇わない。野生の闘争において、殺し合いなどごくあり触れたやり取りに過ぎないのだ。加えて人間の命など虫けら程度にしか思ってないので、この男が死んでも悲しくもなんともない。


「スウウウゥゥゥゥゥゥゥ」


 ナージャは大きく息を吸い込んだ。自らが得意とする技をお見舞いするために。

 大男も不穏な気配を察したのか、身体をびくりと震わせた。脂汗もだらだらと流す。

 しかし狂気に囚われた思考は、身を守るだとか、逃げ出すといった考えを抱けない。甲高い悲鳴染みた声を上げながら、大男はナージャに殴り掛かろうと拳を振り上げながら迫る。

 ナージャからすれば、つまらない反撃。


「シュゴオオオオオオオオオオオ!」


 遠慮なく口から炎を吐き出し、大男を焼き尽くそうとした。炎を前にして身体が強張り、動けなくなった大男が火達磨になった事で間違いなくそうなる筈だった。

 だが、ナージャの予想は外れる。

 戦いの衝撃でも破れなかった服さえも消し去る火炎の中で、大男の輪郭だけが何時までも残り続けるという形で――――

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