姫君の悦楽06
工場の出入口は、幾つもある。
一つは来客用の玄関。こちらは当然ながら門番と受付がいて、厳戒な監視体制にある。問題なく通るためには事前にアポイントメントを取っておく、或いは自らの地位を示す『ゲストカード』を所持する必要がある。
もう一つは職員用の裏口。工場で働く社員は此処から工場内へと入るのが一般的だ。玄関と比べれば警備員などは少ないが、ゼロではないため監視はされている。何より毎日通う職員達という、警備員ほどの『プロ』ではないが、工場関係者の目が無数にあるのだ。それにいくら社員でも顔パスで通れるほど甘くはなく、出入りには社員証の提示が必要である。ある意味では、玄関以上に警戒が厳しいと言えよう。
最後の一つはトラックなどが停まる倉庫搬入出口。工場で生産した服飾品は、此処でトラックに積まれて都市全域……一部は都市外へと運ばれていく。物資も人員も出入りが激しく、運転手などは入れ替わりの激しい仕事でもあるので、監視の目は最も希薄と言えるだろう。とはいえこちらはあくまでも倉庫であり、工場に直接立ち入る訳ではない。工場内に入るには、途中にある受付を経由する必要がある。
いずれにせよ厳重な警戒態勢であり、部外者の立ち入りは困難だ。無論これは工場としては基本的な(経営情報や製品情報を隠さなければライバル企業に出し抜かれる)行いであり、何処でもやっている防犯対策。特筆するほどのものではない。
しかし中への侵入を考える者にとって、最初にして最大の関門と言えるだろう。普通であれば此処を突破するために多くの労力と時間、そして緻密な作戦や前準備を必要とする。
生憎、ナージャは普通ではない。
「ガウゥーン。グガァー」
のしのしと力強い歩みで、なんの躊躇いもなく正面玄関から侵入を試みた。
「ん? どうしたんだい、君。此処は関係者以外立入禁止だよ」
言うまでもなく、玄関横に立つ警備員に速攻で見付かる。警備員は駆け寄り、ナージャの行く手を阻む。
この警備員は決して邪悪な輩ではない。工場警備員として真面目に働いている、誠実な男だ。ナージャを引き止める時も、威圧する事なく、優しく丁寧に対応しようとしている。ちなみに彼女持ちの三十一歳で、そろそろ結婚を考えている身だ。
しかしナージャはそんな人間の立場など考えない。
「ンガー」
「あぶひっ!?」
じゃまー、とばかりに拳を突き出せば、警備員の男は錐揉み回転しながら吹っ飛び、工場の壁に激突した。全治一ヶ月の大怪我だった。
「な、なんだ!?」
「ほ、本部! 警備員一名が襲われました! 指示を……!」
近くにいた警備員の仲間達がナージャの攻撃に気付き、警戒を強める。されどそれで止まるナージャではない。
どんどん前進し、玄関前のガラス戸まで到達。ナージャには開け方が分からないが、物音を立てずに云々という思考は端から彼女の頭にはない。
「ン、ガアッ!」
邪魔な扉は、蹴破ってしまえば良いのだ。
ガラスの砕ける音が辺りに響く。と、同時に警報も鳴り出した。危険を知らせる施設内放送も聞こえてくる。
人間側からすると至極当然の対応であるのだが、ナージャとしては実に喧しい。無論こんな音一つでナージャを止められるものではないが、彼女は別にこの工場を破壊したいのではない。好奇心の赴くままに観察したいだけなのだ。
その気持ちを妨げられる事自体が不愉快。キョロキョロと辺りを見渡し、警報を鳴らすスピーカーを見付けたナージャは大きく息を吸い込む。
「シュゴオオオオオオオオッ!」
ナージャの口から吐き出された炎が、スピーカーとその周りを燃やした。
どろりと溶け出す天井のコンクリート。受付嬢が悲鳴を上げ、警備員が喚きながら逃げ出す。近くにいた者は放たれた熱波で火傷を負い、苦しみの声を上げる。それでも放送よりは五月蝿くないので、ナージャは満悦した笑みを浮かべた。
鬱陶しい音を止めたら、次は匂いを嗅ぐ。
勿論、溶けたコンクリートの香りを求めての事ではない。ナージャが探っているのは、この建物内に満ちる服の匂いだ。工場内の何処かで服を作っている筈であり、その中心部を探そうとしている。
匂いが強い方角は、簡単に見定める事が出来た。
後は臭いを追って直進するのみ。ズカズカと歩いていけば、やがて大きな扉の前に辿り着く。工場内へと通じる金属製の扉であり、人が横に五人ぐらい並んでも通れるだろう。操業時間中は基本的に閉めっぱなしであるが、トイレなどで出入りする社員はいるため施錠をしておらず、ドアノブを回して少し力を込めれば簡単に開く。
尤も、ナージャは扉の開け方など知らないが。
「ガァッ!」
邪魔な扉は蹴破れば良い。ナージャは大きく足を突き出し、金属の扉をぶち破った。
中に入ったナージャは鼻を鳴らし、状況を確認……濃密な服の匂いを感じ取る。此処で服を作っているのだと、すぐに理解した。そしてその直感は正しい。
ナージャが辿り着いた場所は、この工場の心臓部と呼べる場所だった。
従業員達は既に避難していたようで、工場内はもぬけの殻。中に人間の姿はない。しかし中が空っぽで寂しい、という事もない。
何故なら室内には大きな機械が何台も置かれていて、動き続けているのだから。いずれも稼働中であり、大量の『繊維』を吐き出していた。服の材料となるそれは、ころころと転がるローラーに巻かれるようにして引っ張られ、何処かへと運ばれていく。
工場内の殆どの機械は自動化されていた。この工場に勤める人間達にとって仕事とは、主に機械に原材料を投入する事と、なんらかの原因で止まった時に修理する事である。製造された繊維は隣に立つ工場へと運ばれ、そこで別の機械により服へと加工される。
これほどまで機械による自動化が出来たのも、蒸気工学が発展したお陰だ。複雑な作業をパワフルに行える機械により、原料の製造も服の裁縫も、最早人の手を必要としない。それにより多くの単純作業労働者が失業したが……品質の安定化や大量生産による価格の低下など、社会的にはとても意義のある結果を出していた。
「ガゥ? グゥー」
そんな偉大な機械も、ナージャにとっては服の繊維を吐き出す不思議な箱でしかないが。
おもむろに手を伸ばし、掴んだ金属製の躯体に指を突き刺す。そのまま力強く引けば、機械の外装は剥げて中身が剥き出しとなった。熱を生み出す蒸気パイプと、柔らかくなった繊維を引き伸ばす歯車がくるくると回っている。
ナージャはその歯車や繊維に手を伸ばし、触れた。
人間であれば、この瞬間に重大事故発生である。繊維を作り出す機械の内部は数百度もの高温であり、溶けた繊維質も容易く人の肌を焼く。また高速回転する歯車は人の指ぐらい簡単に切断する威力を持つ。愚か者の手は一瞬にして『破壊』され、入院と退職を余儀なくされるだろう。
しかしナージャの身体を傷付けるには、全くの力不足だ。指一本で歯車の動きは無理矢理止められ、耐えきれずバキンっと音を立てて砕ける。
掴もうとした歯車が壊れたので、次にナージャはパイプを掴む。数百度の高温蒸気が流れるパイプは、ナージャにとってはただの棒。簡単にへし折れ、中の蒸気が溢れ出す。吹き出した蒸気は不要な場所も加熱し、機械全体が膨張。他の歯車なども押し潰し……
ボンッ! と音を立てて壊れた。
「アゥ? ……アウゥー♪」
従業員百人分の月給、そして数百人分の労働力に匹敵する高級マシンを壊しながら、されどナージャは気にもせず。バンバンと掌で機械を叩き、完膚なきまでに破壊する。ちなみに叩いた理由は、膨らんだので叩いたら割れるかもと思ったので。
ナージャの中にある子供の好奇心は、留まる事を知らない。
服の原材料であるポリエステル繊維、それが液化した状態で入っているタンクを見付ける。此処に入っている液化繊維を別のタンクに移し、それを先程の繊維製造機械に入れるのだが……ナージャはこのタンクの中身が気になったので、パンチを喰らわせた。金属の入れ物に出来たヒビは瞬く間に広がり、中身である液化ポリエステルが溢れ出す。これも数百度の高温なのだが、ナージャはさっと避けていたので浴びる事はない。
次にポリエステルの原料である、石油の通るパイプを見付ける。掴んでぶらぶらとぶら下がり、飽きたら降りるの繰り返し。その掴んだ時にパイプがぐしゃりと潰れて中身が溢れ出し、周囲に石油の汚染を広げていく。
そうして存分に楽しんだら、当然服も汚れる。真紅の綺麗な布が、あちこち黒くなってしまう。
「ガゥ? ガウゥーンッ!?」
折角献上してもらった服が汚れてしまった! 完璧に自業自得なのだが、ナージャはちょっと苛立つ。
腹立ち紛れに振った尻尾は、工場の大黒柱を砕いてふっ飛ばす。
柱が一本壊れたぐらいで潰れるほど、ドミニオン服飾工業の工場は軟ではない。そう、一本ぐらいなら良いのだが……ナージャの尻尾により飛ばされた柱が、別の柱を砕いて潰した。それも二本も。
三本の大黒柱を一度に失えば、工場全体は兎も角、部分的な強度は大きく落ちる。一部の天井が崩落を始め、機械を巻き込んだ。
幸いだったのは、ナージャが玄関前で一暴れした事で、工場内の作業員は今や殆ど避難していた事。局所的とはいえコンクリートで出来た天井の壁が落ちれば、何十という人間が犠牲になってもおかしくない。
そしてその後連鎖する悲劇に巻き込まれたなら、数百という人間の命が失われたに違いない。
「グル?」
ふと、ナージャの鼻を刺激する何かの臭い。嗅いだ事のない悪臭に、ナージャは顔を顰める。
それは石油が気化した匂いだった。
ナージャが行った破壊により、蒸気や熱した部品などが飛び散り、工場内の気温は途方もなく上がっていた。それこそただの人間なら、数秒といられない灼熱地帯だ。ナージャはへっちゃらだからこそ、周りの環境変化に気付けなかった。
気化した石油のガスは極めて燃焼性が高いもの。少しでも火が付けば、簡単に燃え広がってしまうだろう。それもただ燃えるだけではない。猛烈な勢いで炎が広がり、その過程で生じた二酸化炭素などが『爆風』となって辺りに拡散する。
つまり、大爆発である。
人間達がこの状況を知れば、顔を青くして逃げ出すところだ。されどナージャは石油なんてものを知らないし、それがどんな性質なのかも分かっていない。ただ、臭くて嫌だなぁと思うだけ。
臭いの大元らしき黒い水溜りを見付けたナージャは、くわっと怒りが湧いた。あの水の所為で服が汚れた! あと臭い! ……何から何まで因果応報なのだが、基本的に彼女は自分勝手なのだ。多くの野生動物と同じように。
そして野生動物と違い、不快なものは全て跡形もなく消し去る力がある。
「スゥウウウウウウウウウ……!」
だから彼女は、その黒い水溜りを消そうと思った。自慢の技を以てして。水なら炎で熱してしまえば蒸発する。それぐらいの知識はナージャの中にもあったのだ。
……知らなかったので、仕方ないと言えばその通り。彼女自身も巻き込まれたのだから、帳消しと言えば帳消しなのだろう。
ただ、動機と行動原理があまりにしょうもない。
そのしょうもないなんやかんやによって、ドミニオン服飾工業第三工場は轟音と共に丸っと吹き飛ぶ事となるのだった。
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