姫君の悦楽05
「なんじゃあー、嬢ちゃん。わしゃあに、何か用かー」
白髪の汚らしい老人は、痰が絡んだようなガラガラとした声でナージャに尋ねた。
日頃から入浴し、清潔な都市部の人間ならば、その声と見た目だけで嫌悪感が噴き上がるであろう老人。しかしナージャにとっては気にするようなものではない。ナージャが活動していた数千年前の人間は、大体みんな風呂なんて入っていなかったし、歳を取ればみんな何かしら調子を悪くしていた。
この老人は背筋は曲がっており、顔も赤らんでいるが、今にも死にそうな様子はない。数千年前の老人達と比べれば、むしろ『健康的』なぐらいである。清潔感にしても、少し前に路地裏で出会った輩よりは遥かにマシ(代謝が衰えていて汗や垢も出ないのだろう)で、気にするほどのものではない。
「ガーウー。ガグルルゥー」
ナージャは気にもせず老人の傍に近寄り、そして彼が持つ酒瓶を指差す。これを寄越せ、という意味を込めて。
ナージャは酒が好きだ。
数千年前、人間に崇められていた時にもよく献上された。現代の価値観で見れば外見だけとはいえ少女であるナージャに酒を出すのは好ましくないが、当時は清潔な水を入手する手段が限られている。アルコールによる殺菌効果で雑菌を減らせる酒は、当時は(アルコールの悪影響を考慮しても)『安全』な水の入手手段だった。加えて発酵という『神秘的』な現象があったため、貢ぎ物として特に好まれていたのだ。
このためナージャはよく酒を出され、飲んだものである。アルコールの独特な味と香りは、美味とは言い難いが癖になる味わい。レストランにもワインなどの酒は置かれていたが……蒸留などの行程を経た『現代的』な酒は、アルコール度数が高過ぎるし、アルコールの材料として糖質は消費し尽くされた状態だ。香りも純粋過ぎて面白みがない。
対して老人が持つ酒の臭いは、極めて懐かしい。数千年前の酒と同じ、雑味のあるものだ。上品と言い難いそれは現代人の好みには合わないだろうが、古代人と暮らしてきたナージャには丁度良い。
「……お? おめー、わしゃの酒が目当てかぁ? なんじゃそれならそうと言わんかぁ」
老人はナージャが酒を欲していると気付くと、怒るどころか機嫌を良くした。なんの躊躇いもなく、自分の持っていた酒瓶をナージャに渡す。
「ングァー! ングングー」
『献上』された酒を、ナージャは喜んで口にした。
少しとろりとした舌触り。原材料の形が微かに残っているのが窺える。それに水もあまり加えていない。そして穀物を原料とした事が、とびきりの甘さからも窺えた。
古代の酒と同じだ。発酵した穀物から『酒』を抽出する過程がない(そんな高度な設備はない)ため、実際には潰した穀物のジュースといったところ。また水をあまり加えないのは、衛生管理が不十分なため糖度を高くして雑菌の繁殖を抑える必要があったからである。
その味は正に数千年来の味覚。現代の美食に舌鼓を打っていたナージャであるが、酒だけは古代のものの方が好みであると、改めて実感する。
「そりゃあなー、わしの手作りなんじゃ。知り合いの農家から、売り物にならん米や麦を分けてもらってなぁ。それを蒸したものを、噛んで、それで発酵させるんじゃよ」
力強い酒の飲み方をするナージャが気に入ったのか、老人は酒の作り方も語る。つまり「口の中に入れたものを吐き出して作った酒」である。
現代の人類には不衛生の極みに思えるこの行いは、古来では口噛み酒と呼ばれるれっきとした製法だ。穀物を噛む事で唾液によるデンプンの糖化を促し、その糖を野生酵母がアルコールに分解して酒を作り出す。虫歯菌などの雑菌も当然混ざるが、それらはアルコールにより滅菌されるため、完成した口噛み酒は基本的に不衛生ではない。
そもそもにしてナージャの衛生感覚は野生生物のそれなので、腐った生肉だろうが誰かの食べ残しだろうが、端から気にするものではないのだが。
「ンゲェーップ。ングガーッ」
「ははっ、美味いか美味いか。もっと飲むと良い。お代わりはいくらでもあるからなぁ」
ナージャが酒瓶の中身をぺろりと平らげると、老人は気を良くした。部屋の奥に向かい、更に何本もの酒瓶を出す。
ナージャは遠慮なくそれらの酒を飲んでいく。手作り故に一本一本に味の違いがあるが、それもまた趣がある。ナージャに趣を感じるほど高尚な精神はないが、面白いという知的好奇心は疼いた。
元気よくぐびぐびと酒を飲んでいくナージャの姿に、老人は笑みを浮かべる。しかしナージャが三本目の酒瓶を空にしたところで、不意に表情を暗くした。
「……昔は、この酒をスラムのみんなに振る舞ったもんじゃ」
老人はぽつりと語り始める。
曰く、何十年も前から此処にはスラム街があった。あの時からスラムの住人には仕事がなく、ゴミ捨て場から金属やらなんやらを売って苦しい生活をしていた。
しかしそれでも娯楽はあり、酒こそがその最たるものだった。連日連夜、男も女も酒を飲み、嫌な事を忘れて飲み明かす。口噛み酒も「正規品の酒なんて買えるか馬鹿野郎ー!」とばかりに、学のない連中が聞き齧りの知識であれこれやって生まれたものだ。
貧しいし、幸せとは言い難い日々だが、それでも楽しい事はあった。
そう、最近までは――――
「変わっちまったんじゃよ。あの妙な薬が出回るようになってから」
「ングングングング。プハーッ」
「……確か、ドミニオン社、じゃったか。奴等はこう言ってきた」
スラム街の健康向上のため、栄養剤の無償配布を致します。
つまり、ボランティアとして栄養面での支援を行う、という話だ。それ自体は珍しい事でもない。金持ちになった人間というのは、精神的余裕から慈愛の心が目覚めるのか、はたまた「困っている人を助ける」自分に酔いたいのか、慈善活動を積極的に行うものだ。
企業としても「貧乏人を虐める傲慢な金持ち」よりも「貧乏人に優しい金持ち」の方が一般的には受けが良い。同じ物を買うにしても、企業イメージの良い方が選ばれるのは必然だ。それにスラム街の住人を『安価な労働力』と見做せば、彼等の健康状態がそこそこ改善するのは悪い話でもない。
そのためスラム街の住人の多くは、特段疑いもせずボランティアから渡された栄養剤を飲んだ。効果は覿面で、誰もが元気で力強い人間となった。
最初のうちは。
段々と異変が現れた。元気は元気なのだが、何日徹夜をしても平気になったり、食事を忘れて熱中したり、怪我をしても痛くなかったり……明らかに身体的に無理な事をしているにも拘らず、平然とそれをこなすような人々が現れた。
いや、平然と、というのは語弊があるだろう。彼等の少なくない数が、そのまま死んでしまったのだから。
生き延びた者達も正常ではなかった。『栄養剤』が数日与えられないと、全身が血塗れになるほど掻き毟るなどの禁断症状を見せる。『栄養剤』を得るためならば殺人さえも厭わず、むしろ喜んで『栄養剤』の配布元であるドミニオン社に忠誠を誓う始末。
あの栄養剤がばら撒いたドラッグだと気付いた時には、何もかも手遅れだった。
「わしは当時からこんな老いぼれで、労働力にもならないから無視されたが……若者は殆どがやられた。このスラムはもう終わりじゃな」
「ングング。ングングング」
「ドミニオン社の奴等め……わしがもっと早く気付いていれば、こんな事にならずに済んだかも知れんのに」
「アゥ? グルゥゥ……ンクンク。プハッ」
「じゃが、だとしても解せん。わざわざドラッグを撒いて、頭の狂った人間を量産するなど労働力確保にしてもリスクが大きい。それにこう言うのも難じゃが、わしらはクズ同然の人間で、労働力にしようにも質が悪過ぎる。やれる仕事などゴミ拾いぐらいじゃ」
工場などで働かせるためには、多少なりと学が必要だ。簡単なマニュアルどころかボタン横に書かれた『緊急停止』すら読めないような輩に、複雑な機械が扱える訳もない。教育して使えるようにしようにも、ドラッグで頭のイカれた連中に何が覚えられると言うのか。
暗殺やらなんやらを仕込もうにも、やはり頭がアレでは鬱陶しいジャーナリストを一人二人やるのが限度だろう。大体それをするのに、何十ものスラム住民をおかしくする必要はない。企業が所有する私兵にしても、頭のイカれた輩に武器を渡す阿呆もいない。
「わしにはどうも、もっと大きな陰謀がある気がするんじゃ」
真剣な面持ちで、老人はそう話を締め括った。
……なお、ナージャは全く話を聞いていない。人間の言葉は未だあまり理解出来ないし、それよりも美味な酒に夢中だったので。
「ウジュルウゥ〜♪」
存分に酒を楽しんだナージャは、すっと立ち上がる。老人もナージャの動きで、彼女が此処から立ち去ろうとしているのを察した。にこりと、人が良くて間の抜けた笑みを浮かべる。
「すまんの、楽しい酒の席で老人の戯言を聞かせてしもうて」
「ガゥー? アウアウー」
「おっと、もう酒が尽きたか。若いのにいい飲みっぷりじゃわい。酒達もようやく飲まれて本望じゃろう。久方振りにわしも楽しかった。もう会う事もないだろうが、元気でな」
老人が手を振る中、ナージャは尻尾をぶんぶん振り返す。単に機嫌の良さが表れただけだが、老人に別れを示すには十分。
ナージャが去り、老人は一人荒屋に残された。小さなため息は何処か嬉しげな、或いは寂しげなもの。
尤もそうした複雑な感情は、ややあって浮かべた怪訝な顔に塗り潰されて。
「ところでさっきの娘っ子、角とか尻尾があったのぉ……都市の方では、あんなのが流行ってるんかの?」
今になって、ナージャが普通の少女ではないと違和感を覚えるのだった。
……………
………
…
久し振りに味わった酒。大変美味であり、ナージャはご機嫌になっていた。
尻尾をぶんぶんと振り回し、道路や壁を破壊しながら進んでいく。とても楽しい気持ちなのだが、しかし頭の片隅に何かが引っ掛かっているような気持ちもある。
はて、何が引っ掛かっているのか。
考えても考えても答えは出ず、まぁ大した事じゃないかなー……と思い始めた矢先、とある建物の壁が見えた。
その壁の向こうにある大きな建物。
それがナージャの記憶を焚き付けた。一気に思い出すは、自分が今着ている真紅のワンピース。元々はこれがどうやって作られているのか、それを調べるために此処まで来たのだ。酒を飲みに来た訳ではない。
「ガゥンッ!」
思い出したナージャは、即座に跳んだ。高さ五メートルの壁など、彼女にとってはちょっとした段差でしかない。大層な門に警備員を何人も常駐させたところで無意味だ。
易々と工場の敷地内に入り込んだナージャ。故に彼女は工場の門扉に掲げられた看板をろくに見ていない。見たところで、人間の言葉を知らぬ彼女には読めもしないが。
この工場の看板には、こう書かれていた。
『ドミニオン服飾工業首都圏第三工場』と……
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