姫君の悦楽04
ナージャを乗せたトラックが走り出して数十秒が経った頃。中にいたナージャは、ようやく自分のいる場所で、何か奇妙な事が起きていると気付いた。
「ガゥー? ウー……」
気付いたが、コンテナには明かりも窓もない。周りの様子が見えず、ナージャは身動きが取れない状態となっていた。
どうしたものかと、その場にしゃがみ込んでしばし考えるナージャ。やがて彼女は名案を閃く。
要するに、周りに穴がないからよく見えないのだ。なら、壁に穴を開ければ良い。特に天井が良いだろう。高いところから見渡せば、広い範囲の情報を得られる。
人間ならば「何を馬鹿な事を」と言われる考えであるが、されどナージャは人間に非ず。屈伸するように膝を数度曲げたら、ちょっとだけ力を溜め込んで……跳躍。
頭の硬さと勢いを利用し、コンテナの天井を見事ぶち破った。
「プハーッ」
コンテナの外に広がる新鮮な空気を浴び、ナージャは爽やかな吐息を吐く。
時速六十キロ以上で走るトラックから浴びる風は、実に気持ちの良いもの。暢気なナージャはその風に夢中となっしまい、しばしぼんやりと風を浴び続ける。
あまりに気持ちよくてそのままうとうとしてしまったが、どうにかナージャは我に返り首をぷるぷると振る。コンテナをぶち破ったのは風を浴びるためではない。周囲の様子を探り、現状を知るためだ。
「ンー……」
キョロキョロと辺りを見回してみると、周りにはたくさんの自動車が走っていた。
トラックは今、一般道を走っている。車や人の姿もちらほらと見られたが、まさかコンテナから少女の頭が飛び出しているなんて誰も思わない。偶然にも目にしたところで、誰もが見間違いと思って気にしない。
誰かに止められる事もなく、トラックは悠々と道路を走る。時折信号で止まったり、曲り道で速度を落としたりしつつも、順調に目的地目指して進んでいく。
やがて周りから
高速道路に入ったのだ。トラックはどんどん加速していき、時速百キロ近い速さを出す。信号も交差点もないため、もう止まる事もない。周りの自動車達も同じぐらいの速さで走っている。
一体何処まで行くのか。何処へと行くのか。
人間ならばそろそろ不安になるところだろうが、ナージャにそんな気持ちはない。寝床の場所は方角的に記憶しているため、戻ろうと思えば何時でも戻れるのだ。仮に戻れなかったとしても、反政府組織レヴォルトの秘密基地は寝心地が良いからいただけ。あの場所や人間達に何か未練があるかと言えば、全くそんな事もない。
運ばれるがままに、ナージャは高速道路をトラックと共に行く。
「ガゥゥー……」
天井からの顔出し体勢のまま、のんびりと後方の景色を眺めるナージャ。
トラックの走行時間は、ざっと数十分と続いた。人間ならば飽きてもこようが、ナージャは移り変わる景色を見るだけで十分暇を潰せた。人間からすると代わり映えしない景色だとしても、ナージャにとっては色取り取りの光景なのだから。
例えば、ビルが並ぶ大都市はどんどん遠ざかり、やがて平たくも大きな建物がたくさん並ぶようになるように。
平たい建物には幾つもの煙突が立ち、もくもくと煙を吐き出している。巨大なパイプが四方八方へと伸び、夏の日差しですくすく育った蔦のようだ。壁面は大抵黒や灰色ばかりでビルほどのお洒落さはなく、無骨で無感情な印象を受けるだろう。
それらは工場だった。都市で消費される製品を大量かつ効率的に生産するための場所。排ガスや騒音などがあるため、市民が生活する場所から離れた位置に工業地区はある。多くの労働者が此処に勤めており、仕事をしているのだ。そして今まで都市にいた(そもそも地上を殆ど出歩いていないが)ナージャにとっては、見慣れぬ建物である。
やがてトラックは、工業地区にある中でも一際大きな建物の前で大きくスピードを緩めた。
「ゥグル?」
景色をのんびり眺めていたナージャも、トラックの動きの変化に気付く。
とはいえトラックの天井から抜け出す事もせず、相変わらずトラックに運ばれるがままであるが。
「はい、お疲れー。社員証見せてねー」
「へーい」
やがてトラックは工場の門扉前に着き、そこで社員である事の確認を行う。気怠げなやり取りであるが、マニュアル通りちゃんと社員証を照会しており、彼等になんら落ち度はない。
……まさか彼等も、今、トラックのコンテナの天井をぶち破って少女がぴょっこり顔を出してるなんて、想像もしていないのだ。扉を閉める時の不備はあれど、此処で誰も気付けないのは致し方ない。
かくしてナージャを乗せたトラックは、ついに工場の敷地内に入った。
「フンフン、フンフン……ンガァー」
辺りの匂いを嗅ぎ、ナージャは確信に至る。此処で服を作っているのだと。
当然、怪しいのは目の前にある大きな建物だ。人間のあれこれは知らないが、それぐらいの知識はある。
いよいよコンテナの天井を破り、ナージャの全身が外へと出る。トラックのコンテナからも降り立ち、堂々たる姿を見せればいざ工場へ――――
「ガゥ?」
と思っていたナージャだが、ふと、鼻をくすぐる臭いに気付く。
懐かしい臭いだ。甘ったるくて、酸っぱくて、香りと呼ぶには少々下品なもの。
服への関心は未だナージャの中にある。しかし服の匂いの発信源が此処だと分かった今、急いで工場に乗り込む必要もない。そして気分屋なナージャにとって、『今』より気になるのは懐かしい臭いの方。
「ガゥンッ!」
即断即決。工場に乗り込むのを一時中断し、ナージャはその臭いの方へと跳んだ。数十メートルと跳躍すれば工場を囲う塀などひとっ飛び。彼女は元よりゲートの照会云々を切り抜ける必要などないのである。
塀の向こう側の道に出たナージャは、鼻を鳴らして臭いを辿る。服屋から溢れ出す新品の服の香り、更にはトラックから出た匂いまで嗅ぎ分けるナージャにとって、その懐かしい臭いを追うのは極めて簡単な事だ。
強いて人間的な観点で問題を挙げるなら、臭いを追うほどに周りの見た目上の『治安』が悪化している点だろうか。
工場だらけの土地は、やがて廃れた景色に変わる。確かに工場はあるのだが、古びていたり、崩れていたり。明らかに今は操業していないものが出てきた。道は舗装が剥げ、あちこちにパイプではない本物の蔓が伸び始める。
やがてナージャが辿り着いたのは、
スラム街だ。自分の家すらない人々が集まって暮らしている場所であり、所謂貧困層と呼ばれる中でも特に貧しい人々が此処で暮らしている。
「ガウゥー?」
今まで都市にいて、トラックに乗った後は工場区域を見てきたナージャにとって、これもまた見知らぬ景色。好奇心の赴くままに辺りを見渡す。
スラム街は単に荒屋が並ぶだけではない。あちこちに様々なゴミが散らばっている。例えばそれは自動車のドアだったり、菓子の袋の山だったり、空き缶だったり。
これらは工場区域の隣りにあるゴミ処理場から持ってこられたものだ。ゴミを持ってくる理由は、それが金になるから。金具などの金属部品などはある程度纏まった量を買い取る業者がいて、これがスラム街での主な収入源である。
とはいえ極めて安く買い叩かれるため、労力に見合う収入ではないが。反発しようにも、スラム街の住人が集める量など工場で使う総量と比べれば微々たるもの。住人が売り惜しみして値を釣り上げようとしたところで、他工場からの購入量をほんの少し増やせば解決してしまう。あくまでも『善意』での購入という関係が、企業側とスラム街住人との力関係を作っているのだ。
そしてこの方法で金を得られるのは、ある程度たくさんのゴミを持ち運べる健康的な若者だけ。
道端には何人もの
ナージャのように惰眠を愛するならば兎も角、スラム街の人々の怠惰は半ば強制的だ。性格的に合っている者を除けば、基本的には苦痛である。だから退屈を紛らわすため、様々なものに手を出す。
その最たるものが、ドラッグ。
「うひ、ひ、ひひひひ」
ナージャの下に近付いてきた、異様にやつれた中年男性も、ドラッグに溺れた者の一人である。
「ガゥ?」
スラム街の知識が多少なりとあれば、やってきた男の危険性を理解するだろう。しかしナージャにそんな知識はない。逃げる事もなくやってきた男の顔をじっと見つめるだけ。
男がまともであれば、見た目可愛らしいナージャに(下心剥き出しでも)口説くなりなんなりしただろう。されど男の頭は薬物に侵されていた。
「お、おん、おんなぁ!」
ドラッグの影響で狂っていた男は、ナージャに飛び掛かろうとする。その手には小さいながらもナイフが握られていた
「ンガー」
が、ナージャにとって脅威になる訳もなく。
ぶんっと大雑把に振った尻尾により、男は呆気なくふっ飛ばされた。男の身体はゴミのように吹っ飛び、荒屋の壁をぶち破って室内に突っ込む。悲惨なやられ方だが、荒屋の壁はボロボロに腐食した板。見た目ほど、男が受けたダメージは大きくない。
とはいえまた再びナージャに襲い掛かろうという気力を奪うには十分。ナージャとしても邪魔者を排除出来て満足した。
ナージャは軽やかな足取りで、スラムの奥へと進んでいく。
奥へと進むほどに、無気力な人間は増えていく。地面に横たわる人間の虚ろな眼差しは、健全な者には恐怖心を与えるだろう。生憎アイシャは人間ですらないので、恐怖なんて微塵も感じない。虫けらが死にかけている程度のものだ。
それよりも気になるのは、辺りを漂う懐かしい臭い。
臭いはどんどん濃くなっている。もうかなり近い。
ついにナージャは臭いの大元、他と比べても特別ボロ臭い荒屋を見付けた。出入口が見付からなければ適当に壁でも剥がすところだが、扉が外れて剥き出しの『玄関』が見えている。入れる場所があるのなら、わざわざ壊す必要もない。
「ガグゥゥーン?」
此処かなー? と暢気に呟きながら荒屋の中に入るナージャ。
そこで彼女は出会った。汚らしい服を着た、よぼよぼの老人に。
そして彼が持つ『酒瓶』から、懐かしい臭いがしていると気付くのだった。
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