第二章 姫君の悦楽

姫君の悦楽01

「ングアァー……ファフゥ~」


 大きな欠伸を一つして、横たえている身体の四肢を伸ばす。

 身体がある程度解れたら、しかし立ち上がる事もなく、また身体を丸める。ぺろぺろと舌を出し、何時の間にか乾いていた唇を無意識に湿らせた。尻尾を軽く動かしもする。

 やがて意識は覚醒し始め、熟睡から微睡みへと移る。

 心地よい微睡みを存分に楽しんだらまた眠る。そろそろ起きようというつもりはない。まだ寝たりないがために。起きて働くだとか、学校に行くといった事もしない。そんなものは彼女には必要ないのだから。

 眠る少女……ナージャにとって、これは日常の過ごし方だ。彼女にとって眠るというのは至上の喜びであり、最優先の日課。ちょっと目が覚めても、身体の凝りを解したらすぐに眠る。これを飽きるまで繰り返す。その飽きが来るのも、余程の事がなければ平気で数百年数千年後である。

 しかし彼女のそんな『習性』を、百年も生きられない人間達が知っている筈もない。あまつさえ彼女が本気で暴れ出せば、都市の一画さえも簡単に灰燼を帰す。

 だから彼女が僅かに身動ぎした時、近くにいた人間達が動揺するのも仕方ない事だった。


「……ふぅ。ただの寝返りか」


「心臓に悪いぜ……」


 ナージャの傍には、銃で武装した若い男が二人立っていた。どちらもそれなりに鍛えたガッチリとした身体付きをしており、その手に持つのは大口径の軍用小銃。入り組んだ市街地や小部屋で使うには不向きな代物だが、威力はお墨付きの一品だ。人間相手ならば十分過ぎる殺傷力を持つ銃であるが、ナージャ相手には豆鉄砲にすらならない。

 勝ち目のない相手の監視。目覚めて、暴れ出せば間違いなく自分の命はない。しかしそれでも彼等はナージャの傍から離れない。

 反政府組織レヴォルトの構成員である彼等は、世界を少しでも良くするために活動している。明確な脅威を野放しにするなど、彼等には出来ない事なのだから。

 ――――ナージャがクレア達と戦ってから、早くも二週間の時が流れた。

 ナージャは今も反政府組織レヴォルトの基地の一室に居座っている。そこが居心地の良い場所だからであり、人間の住処であるかどうかなど気にもしていないからだ。人間が寝心地の良さそうな草むらを見付けた時、そこに虫の巣があるかどうかなど気にせず寝転がるのと同じである。

 しかし人間という生き物は、虫けらほどは良くない。自分達の住処に居座る存在に、勝てないと分かりながらも見張りを行っていた。その見張り行為でナージャを怒らせやしないかと、矛盾した気持ちを懐きながら。

 そしてこの状況を一番不安に思っているのが、組織の構成員に監視を命じたリーダー……エルメスだった。


「よう、お前ら。状況はどうだ?」


「あ、エルメスさん」


「今のところ問題なしです……今のところは」


 部屋を訪れたエルメス。彼が投げ掛けた挨拶と問いに、ナージャの見張りをしていた男二人は淡々とした、しかし何処か疲れを滲ませた答えを返す。

 エルメスはそんな彼等に「分かった。俺がしばらく代わるから休んでいろ」と命じる。彼等は互いに顔を見合わせた後、その言葉に従い部屋から出ていく。

 しばしエルメスはその場に立っていたが、やがて眠るナージャの傍にある椅子に座った。その手には銃を持たず、ただ寝転がるナージャを座った体勢で見下ろすだけ。

 やがてエルメスは誰もいない部屋で大きなため息を吐いた。


「……かれこれ二週間。懐柔出来る気配はなし、か」


 ぽつりと口から漏れ出たのは、現状への悲観的な言葉。

 人造人間クレアの大群をも打ち破り、そして余波だけで巨大なビル群の倒壊をも引き起こす、破滅的なパワー。それを利用、もしくは一般人に被害が出ないように管理する……エルメス達がナージャを監視している理由だ。勿論いきなり完璧な制御を求める事はなく、なんらかの方法でコミュニケーションが取れる事を当面の目標としている。

 しかしエルメス達の思惑は、全く上手くいっていない。その一番の理由は、クレアとの戦い以降ナージャがずっと寝ているからだ。

 ナージャとしては寝ている事に理由なんてない。満足いくまで食事をし、クレアという強敵との戦い運動で気分もスッキリした。数千年の眠りさえも一眠りぐらいにしか思わないナージャにとって、二週間ぐてぐでと過ごす事など瞬きほどの刹那の出来事でしかない。料理の味も存分に堪能したため、今は美味しい食材を出されても特段関心もなかった。ただそれだけの事である。

 しかし人間にとって二週間は、長いとは言えずとも短いとも言い難い時間だ。確かな成果はなくとも、物事が前に進んでいるという『進捗』は欲しくなる頃合いである。

 組織を統制する立場にあるエルメスにとっても、進捗が出ない事は好ましくない。ナージャの破壊的な力を、レヴォルトの構成員達は既に知っている。何時暴走するか分からない、どれだけの破壊を振り撒くか分からない存在と一緒にいられる人間は稀だ。しかもナージャへの恐怖は、そのナージャの強さ故に解消しようがない。

 人間は不合理な存在だ。どうにも出来ない感情があると、別の事で解消を試みる。例えばナージャへの恐怖であれば、そのナージャの制御を試みると決定したエルメスへの不満に繋がるように。無論エルメスをトップから引き摺り下ろしたところで、ナージャの何かが変わる訳でもない。やれる事は変わらず、むしろ組織の混乱を引き起こすだけ。されど、それでも何かせずにはいられないのが人間なのだ。エルメス達が危険なナージャの制御をどうにかやろうと決意したのと同じ事である。

 別段エルメスには、組織の頂点に固執するつもりなんてない。だが自分以上に組織を統制・運用出来る者がいるとも思えない。半端者が支配者となれば、組織の正義は失われ、反政府組織はそこらのチンピラ集団へと落ちぶれかねない。これではこの都市の政治体制を変えるなど夢のまた夢というもの。

 反政府組織レヴォルトの統制を維持するため、世界をより良いものへと変えるためにも、なんらかの成果が必要になる頃たった。


「だからって、何をすりゃ良いんだが」


 成果を出すためには、まずはナージャに起きてもらわねばならない。

 だが身体を揺さぶろうにも、(エルメス達は知らない事だが)ナージャの身体は運動エネルギーを自在に熱へと変換してしまう。与えた運動エネルギーは全て無効化され、彼女の眠りを妨げる事は出来ない。銃弾を頭に撃ち込んでも、変わらずぐーすかと寝息を立て続けるだろう。

 仮にそれで起きても、機嫌を損ねて暴れられたらお仕舞だ。都市の一角を破壊する力で、反政府組織レヴォルトは壊滅する。

 何より、ナージャは人間に大した興味も持っていない。地面のアリ程度の、踏み潰しても意識すらしない存在。それはエルメス達も理解している。果たして人間が、足下の虫けらに友好を求めるだろうか? いないとは言わないが、極めて稀な存在だろう。ナージャにその『稀』な事を期待するのは、夢想と大差ない。

 ナージャの方から何かしてくれないと、恐ろしくて手が出せない。しかしナージャが人間に何かをしてくれるとは思えない。八方塞がりの状況に、エルメスがまたため息を吐くのも仕方ない事だ。

 とはいえ反政府組織を率いるリーダーとして、情けない姿、弱気な姿を見せられない立場でもある。


「たっだいまー!」


 故に、バタンッ! と大きな音を立てて部屋に入ってきた者が現れた時、エルメスは飛び跳ねるほど驚いた。

 平静を装いつつも、エルメスは音がした扉の方を見遣る。そこにいたのはもう付き合いの長い顔……ナタリーがいた。傍にはジョシュアの姿があり、彼の両手には大きな紙袋が幾つもぶら下がっている。あまり筋肉のないジョシュアには持ち運ぶのも大変なようで、疲れ切った顔をしていた。


「……ナタリーか。入る時は静かに扉を開けろよ」


「アンタがびっくりするからかい?」


「……コイツが飛び起きたら困るって言ってんだ」


 認めるのは癪な指摘を誤魔化すように、エルメスはナージャを指差す。ナタリーはにやにやと笑っていて、エルメスの内心を見透かしているようだった。


「ま、良いさ。お姫様も寝ているのなら、好都合かもね」


「……何を企んでいる? つーか、何を買ってきた」


 悪巧みをしているような、ナタリーの笑みを見てエルメスが問う。

 しかしナタリーは答えない。いや、答えを教えるつもりはあるのだ。ただし言葉ではなく、ジョシュアが持っている袋の一つをふんだくるという形で。

 紙袋の中に手を入れ、ガサゴソと漁りおもむろに中身の一つを取り出す。出てきたのは真っ赤な『布』。それもかなり大きな一品。

 エルメスは察した事だろう。察したが故に顔を顰めた。マジかよコイツと言わんばかりに。されどその視線を受けてもナタリーは臆さず怯まず恥じず。むしろ自信満々といった様子で胸を張る。

 そしてばさりと広げた布――――真紅色の鮮やかなワンピースを披露しながら、答えた。


「ナージャは女の子。女の子の心を開くなら、やっぱり可愛いファッションさ!」


「えぇー……」


 それは人間の女の子の話だし、そもそも全ての女の子がそうとは限らないんじゃ? そんな気持ちを露わにしたエルメスの声は、残念ながらナタリーには届かず。

 明らかに『手懐けて制御する』という目的以外の事を考えているナタリーを止める事は、反政府組織の長であるエルメスにも出来ない事だった。

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