姫君の目覚め12

 ナージャの瞳が煌めいている。

 それは。確かにナージャの瞳は強い光を発していた。さながら、紅蓮の炎が燃え上がっているかの如く。

 身体も紅く染まる。血流が良くなった、等という言葉では言い表せないほどに。体温も急激に上昇し、周りの大気が微かに揺らめいていた。周りの空気もじりじりと熱を帯び、急激に膨張した足下のコンクリートが乾いた音を鳴らす。


「なん、だ……?」


 ナージャの変容、そして周辺環境の変化にクレアも違和感を覚えたらしい。一歩二歩と後退りした。

 危険を感じた時、対象から距離を取るのは最も単純かつ有効な対策だ。遠く離れてしまえば攻撃は届かなくなり、空気抵抗や拡散の影響で威力も弱まる。届くまでの時間が長くなる分、回避も近い時よりは簡単になるのだから。

 ましてやナージャがこれまで繰り出した攻撃は肉体によるもの。精々身長よりも長い尾が、二メートル近い射程を有する程度だ。加えて臀部を向けた体勢でなければ、尻尾を曲げねばならない分、この二メートルという長さは半分も活かせない。

 クレアが三メートルも離れたのは、慎重どころか過剰なぐらいである。そう、これまで見てきた通りのナージャを相手取るのであれば。

 今のナージャを、これまでのナージャと同じに見た事。それが如何に愚かしいかを、クレアは身を以て知る。


「スウゥゥウウゥゥ……」


 ナージャは深々と息を吸い込む。小さな胸が膨れ上がるほどに。

 合わせて身体の紅さが急速に引いていく。体温も低下し、体表面で起きていた揺らめきは消えた。全ての『異常』が消失する。

 とびきりの異常事態を引き起こすための予兆として。

 ナージャは大きく口を開けた。クレアに対し見せ付けるように。故にクレアは自らの目で目の当たりにするだろう。

 その口の奥底で紅く轟く、灼熱を。


「な、ぁ」


 驚きを口にした瞬間、クレアの身体が強張る。予想外の事態に頭の回転が間に合わなかったのだ。これにより身動きが取れず。

 尤も、仮に動けたところで――――ナージャが吐き出した『火炎』を躱す事など出来なかっただろうが。


「ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!」


 唸るような轟音。大地すらも揺さぶるほどの勢いで、ナージャは口から炎を吐いた!

 これがナージャの誇る『大技』。

 体内で生成した莫大な熱量を喉奥に凝縮。生成した高圧のガスにその熱を渡し、炎として吐き出す……身体が鈍っていた時は上手く使えなかった、必殺の一撃だ。

 火炎はクレアの身体を瞬く間に飲み込み、更に押し出す。突き飛ばされたクレアは下水道の壁に激突したが、されどその身がコンクリートに埋もれる事はない。何故なら炎を浴びた傍から、コンクリートが溶け出しているからだ。

 炎はクレアだけを選択的に襲うものではない。下水道の壁にぶつかった勢いで跳ね返ったものが、ナージャを掴んでいた量産型クレア達にも浴びせられる。

 量産型クレア達の身体を作る合金は、二千度もの高温に耐える事が出来る。だがクレアの炎は、その合金製の肉体の耐性を上回っていた。炎を浴びて数秒は耐えても、更に長く浴びれば溶け出す。仮に体表面は耐えても、中の精密な機械はそうもいかない。

 何より、動力源である水が一斉に蒸発するのが不味い。最終的に蒸気として利用するとはいえ、全てを一気に蒸気に変えるような機構ではないのだ。全ての水が一斉に気化すれば……想定外の圧力が内側から掛かる。

 量産型クレア達が次々と爆発したのは、それが原因だ。尤も、ナージャは最早量産型クレアなど目もくれない。

 自分をここまで楽しませてくれた相手に、敬意と怒りをぶつけるだけだ。


「ゴオオオオオオオオオ! シュウゥウウゴオオオオオオオオオオッ!」


 ナージャは更に大量の炎を撒き散らす。下水道の全てを焼き尽くさんばかりに。


「ひ、ひぃいいいい!?」


「助けてくれえぇええっ!」


 反政府組織のメンバー達は直接的に狙われた訳ではない。だがナージャは巻き添えなど端から気にしていない。撒き散らす炎は彼等の近くにも降り注ぎ、灼熱を与えてくる。死者が出ないうちに逃げ出したのは懸命な行いだ。

 クレアも、ナージャの異変を察した時点で逃げていれば助かったであろう。


「ぐ、ぎぃいひぃぃい!? わ、私の、私の身体がぁぁ……!?」


 だが逃げ切れず炎を直に受けた彼女は、足と片腕が溶けてしまっていた。溶解したコンクリートの海に沈もうと耐えられる特殊合金ボディが、今やあちこちに穴が空き、蒸気が漏れ出している。苦悶に歪む顔も、今ではヒビだらけだ。

 それでも爆散せず、今も多少は原型を残している時点で、オリジナルのクレアが驚異的な頑強さを持っていたのは間違いない。

 ナージャにとっても驚きだ。全盛期には程遠いとはいえ、まさか自分の吐き出す炎に耐えるとは思いもよらなかった。クレアの事を人間だと思っていたナージャは、この数千年で一部の人間は凄い変化をしたのだなぁと、素直に驚く。戦いにおける強さについても感心しており、もう飴玉を落とした事の怒りなどすっかり忘れていた。

 だからといって、見逃そうという気は全くないが。


「……クキャ、キャキャキャキャ」


 心からの笑いを出しながら、ナージャは倒れているクレアの下に向かう。

 溶けたコンクリートを裸足で踏み、焼け爛れた鉄が溶ける温度の中で息をしても、ナージャが苦しむ事はない。この程度の熱量、ナージャにとっては扱いに困るものではないのだ。むしろあまりの『冷たさ』に、いくらなんでも不甲斐ないように思える始末。

 それはそれとして身動きの取れないクレアの傍まで来ると、ナージャは彼女の胸部を踏み付ける。溶けてはいないものの、溶解寸前の金属は極めて柔らかい。ナージャの力であれば尚更簡単に踏み抜く事が出来る。胸に大きな穴が開いたクレアは、ぐったりと全身から力を抜いた。

 ナージャは足を引き抜き、クレアの前で仁王立ち。まだ生きているコイツをどう潰そうか考え、自慢の火炎をもう一度喰らわせる事にした。先の威力はナージャにとって不服なのだ。炎で跡形もなく消し去らねば気が済まない。


「は……は、はははははは! はははは!」


 追い詰められたクレアであるが、彼女が見せたのは笑み。悪意も含みもない、純粋な歓喜を示す。

 ナージャはその反応を怪訝に思う。追い込まれて奇天烈な言動を取る人間というのは、何千年と人間を見てきたナージャからすれば珍しいとは思わない。混乱の極地に達した時であれば、割とあり触れた反応だとすら思う。

 しかしクレアについては、ナージャは違和感を覚えた。この笑い方は錯乱ではなく、少なくとも自分の中では何か確信があるものだと感じ取る。

 コイツは、何かを隠している。

 何を隠しているかは分からない。されどその隠しているものを暴くつもりは、ナージャにはなかった。自分をここまで追い詰めた事、そしてかつての力の一端を取り戻させてくれた事の『礼』を此処でする。

 深く、ナージャは息を吸い込んだ


「やはり、火炎放射にはその予備動作が必要か。賭けには勝てたな!」


 瞬間、クレアは無事だった腕を

 人造人間であるクレアの四肢は着脱式なのだ。蒸気圧を利用すれば腕を飛ばす事は出来る。勿論飛ばした後どうするのかという問題はあるが……奇襲として役立つのは間違いない。

 実際、ナージャもこの奇襲は予見出来ず、腕の一撃が顔面に直撃した。痛い、というほどのダメージはないが、まさか腕が飛んでくるとは思わず純粋に驚く。思わず目も瞑ってしまった。

 その僅かな隙を使い、クレアが行ったのは――――煙幕の展開。

 大量の蒸気で視界を遮ったのだ。ナージャが気付いた時にはもう周囲一帯が蒸気に包まれ、クレアの存在を見失ってしまう。

 とはいえ相手は両足と片手を失っていた。いや、腕については今し方飛ばしたので今では両腕となっている。ならば動ける筈がない。即座に足を上げ、頭があった筈の場所を踏み潰す。

 ところが手応えがない。

 それもその筈。ナージャを怯ませた蒸気の噴出は煙幕であるのと同時に、『推進力』でもあったのだから。


「ぐ、ぐぅ!」


 ボロボロの上半身から大量の蒸気を噴射。クレアはその勢いで飛び、逃走を図っていた。とはいえその飛び方は不格好の極みで、何度も壁に身体を打ち付けている。

 何分これは本来緊急時の脱出手段なのだ。端から制御よりもスピードを重視しており、また今のクレアは手足を失った状態。まともな姿勢制御なんて出来る訳もない。だが蒸気自動車の最高速度を優に超えており、普通の人間の足では決して追い付けない速さだ。普通ならばこれで問題なく離脱が出来る。

 尤も、ナージャの足は常人の域など軽々と超えているが。そして彼女はクレアを見逃すつもりはない。

 一度標的として定めたならば、完膚なきまでに叩き潰す。それが、ナージャの持つ本能なのだから。


「グガアァアッ!」


 猛獣の雄叫びと共に、ナージャはクレアを追う!

 クレアと戦う前までのナージャであれば、クレアの後を追う事など出来なかっただろう。しかし戦いを経て、幾らか調子を取り戻したその身体は、下水道内を飛ぶクレアを追従する事が可能となっていた。


「ガアアッ!」


 更には下水道の壁に手を突っ込み、何メートルもの範囲の壁を引っ剥がすようにして投げ付ける事も出来る。

 投げ飛ばされた瓦礫が当たり、クレアの体勢が更に崩れた。頭を床に擦り付ける格好となり、毛髪と頭部の一部をごっそり削ぎ落とす。

 しかしそれでも構わずクレアは前に飛び、ナージャから逃げようとする。


「グガアァアゴアアアァアア!」


 その行為をナージャは許さない。猛り声を上げた彼女は、今度は尻尾を振り回す。

 尻尾をぶん回したところで、前を飛んでいくクレアには当たらない。そんなのはナージャも承知している。ナージャも端からクレアなど狙ってはいない。

 振り回した尾が叩くのは、下水道の壁。

 無論壊れるのも壁である。今までであればただ広範囲の壁が崩れる程度で終わっただろう。

 しかし調子を少しだけ取り戻した今のナージャが繰り出す一撃は、クレアと戦う前とは比にならない威力を持つ。

 尾を打ち込まれた壁は大きく凹み、そのヒビ割れは一気に天井まで走る。これでもなお破壊のエネルギーは止まらず、ついには天井が崩落した!


「ぬぉあっ!? よ、容赦が、ない!」


 崩落した天井を目の当たりにし、クレアが驚きの声を上げる。

 下水道の崩落は、ライフラインの一つが潰えた事だけを意味するものではない。地下深くに建造されたこの施設は、その上に巨大な都市がそびえているのだ。足下である下水道が崩れ落ちたならば、上に積まれたものも一緒に崩落するのが道理。

 無論巨大建造物は、建物の土台の端っこにちょこっと穴が開いたぐらいで倒れるほど軟ではない。されどナージャが繰り出した一撃による下水道の崩落は広範囲に広がっていく。それこそ、建造物数棟を丸ごとすっぽり納めるほどに。

 頭上から地響きが鳴り始めた。その意味を察したクレアは、流石にこれには表情を強張らせる。高さ五十メートル級の建物が音を立てて崩れていく……最早これはテロと呼べる規模ではない。都市同士の総力戦、戦争の様相だ。


「ガアアアアアアアアッ!」


 だが、ナージャは止まらない。止まる気など微塵もない。

 今の彼女が見ているのは、目の前のクレアだけだ!


「アアアアアアアアアアアアアガブッ!?」


 見てなさ過ぎて、落ちてきた天井にあっさり飲み込まれたが。数百トンもの瓦礫に押し潰されたなら、普通の人間ならば真っ赤なミートスープに早変わりしているだろう。


「フヌガァッ! ガアァアアッ!」


 しかしこの程度でナージャは止まらない。コンクリートの大岩を吹き飛ばして脱出する。

 身体に傷はない。怒り狂った身体に疲れもない。されど邪魔された苛立ちは募る。


「ゴオオオオオオオオオオオオッ!」


 怒りを露わとするように、ナージャは口から炎を撒き散らす!

 崩れたコンクリートが溶解して形を失う。瓦礫といえども固体であれば『土台』として働くが、溶けたコンクリートにそんな力はない。ますます地上からの轟音は激しくなり、更に大きな瓦礫がナージャの行く手を阻む。

 完全に自業自得であるのだが、激情に飲まれたナージャは気にも留めない。湧き立つ衝動のまま破壊を振りまき、更なる怒りを掻き立てていく。

 ナージャは止まらない。例えこの都市を破壊し尽くそうとも。

 クレアをこの手で仕留めるまで。


「ああ、恐ろしいと言うしかないな! だが……私の勝ちだ!」


 その脅威をクレアは認めるも、同時に勝ち誇る。

 何故ならついにクレアは、下水道の行き止まりに到達したから。

 行き止まりの天井部分には、マンホールの穴があった。


「ぐぅっ!」


 行き止まりに激突したクレアは呻くも、壁と肩を擦り合わせて身体を僅かに起こす。

 本来ならば直線方向にしか進めない蒸気推進であるが、壁にぶつかり、強引にでも身体を傾ければ……行き場を失った運動エネルギーは、『逃げ道』のある方へと動き出す。

 クレアの身体も逸らした方向、『上』に向かうように運動エネルギーのベクトルが変化する。ナージャは寸前まで迫るも、指先が掠めたところでクレアは高く昇っていき――――

 空高く、クレアは昇っていってしまった。ほんの数秒で高度数百メートル。オルテガシティに存在するどんな建物よりも高く、彼女は舞い上がっていた。


「勝った! 勝ったぞ! ははははは!」


 クレアの高笑いがどんどん遠退いていく。

 ナージャはそれを見る事しか出来ない。いくら破壊的な力を持とうとも、彼女の身体は空を飛ぶ事は出来ないのだから。

 尤も、クレアの飛行能力にも限界はある。下水道での逃避行、そして空高く登る時に大量の蒸気を使い、全てが底を突いた。後はもう自由落下するだけ。

 とはいえクレアの頑強さであれば、この高さから落ちても致命傷とはならない。仲間に連絡すれば即座に回収部隊がやってきて、クレアを安全な場所まで運ぶだろう。そうなったらもうナージャには追えない。

 生き延びたクレアは、此度の戦いで得たインスピレーションを元に更なる身体改造を施し、より強い肉体を得るだろう。その強さは人間など抗いようがないほどに。そして戦力と自身を回復させた後、再びナージャに挑むだろう。人外の身体に宿る秘密の全てを暴き、『最強』へと至るために。

 ナージャとしては、そんな事はどうでも良いし興味もない。だが本能……敵対者を逃がすなという衝動は未だ胸の奥で渦巻く。

 逃がすつもりは、未だない。

 高々と打ち上がったクレア。もう彼女は遥か上空まで飛び上がってしまった。文字通り半壊した身体は、もう芥子粒ほどの大きさにも見えない。

 しかしその軌跡はハッキリと分かる。逃げるために用いた、多量の蒸気が湯気となって漂うがために。

 クレアまでの距離は恐らく数百メートル彼方――――


「シュゥウゥオオオオオオオオオオ」


 深々と吸い込む息。大きく胸が膨れ上がり、ぺきぺきと内側から加わる圧力でナージャの身体から音が鳴る。急激な気圧変化で脆くなった下水道の一部がまた崩落し、地上に建つ都市に新たな混乱が起きる。

 たっぷりと溜め込んだ息。身体中から集めた熱量によりそれは灼熱の空気と化し、紅蓮に色付く。ナージャ自身溜め込むのが辛く感じるほどの、今の彼女にとっての最大出力。全盛期の力には遠く及ばないが……今はこれで十分。


「ゴオオオオオオオオッ!」


 それを、一気に吐き出した!

 口から吐かれた紅蓮の炎は、螺旋を描きながら高々と打ち上がる。クレアが脱出した際に吹き飛んだマンホールの傍には無数の野次馬がいたが、穴から出てきた炎の熱量により彼等の多くが入院必須の大火傷を負う。しかし炎の狙いは、そんな有象無象ではない。

 空高く飛んでいる、クレアだ。


「へぁ? ぇ、あ、ぁ、あっ――――」


 眼下に広がる町並みを、遥か空高くから眺めていたクレア。優越感に浸っていたその顔を、みるみるうちに強張らせていく。

 しかしどれだけ強張ろうと、蒸気を失い、推進力を持たぬ彼女に迫る炎は躱せない。付け加えると、表情の硬さも長くは持たない。

 間近に迫った炎で頭部を形成する金属が溶け、直撃と共に顔面の『皮』が捲れ上がるのだから。


「ば、ばが、がひゅぃ!?」


 満足に断末魔を上げる暇もなく、その頭と身体は今度こそ炎に溶け込む。

 彼女が求めていたナージャの『力』によって、彼女の存在はナージャが望んだ通り跡形もなく消し飛ぶのだった。

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