姫君の目覚め06

「まさかあの『人形』クレアとやり合うなんて、驚いたよ!」


 下水道の中を歩きながら、ナージャの腕を掴む男は喜びに満ちた声でそう話し掛けてきた。

 下水道の中は存外明るい。整備用に取り付けられた電球が辺りを照らしているからだ。勿論昼間のような眩さはなく、例えるなら夜寄りの夕暮れぐらいなのだが……近くで人の顔を見分ける程度であれば、問題はない。

 そしてナージャは割と夜目が利く。多少薄暗い程度であるなら、視認するのに支障はない。自分を引っ張る男の姿もハッキリと見える。

 男は若い、十代後半ぐらいの青年だった。

 身長は百六十センチ程度。ナージャよりは高いとはいえ、男性としてはやや小柄か。身体は細く、しかも引き締まっているのではなく単純にひょろ長い。ガリガリというほど痩せてはいないが、あまり運動は得意そうに見えなかった。また顔には大きな眼鏡を掛けている。

 数千年前には見掛けなかったタイプの人間だ。何しろナージャが以前活動していた数千年前は、石器で狩りをしているような時代。男の仕事は狩りや建築などの肉体労働しかなく、得手不得手関係なく誰もが強制的に鍛え上げられていたのだから当然だ。こんなひょろひょろな男がいるというのもまた、数千年の間に人間に起きた変化の一つと言えよう。

 尤も、ナージャの興味は青年よりも下水道そのものに向いていた。

 下水道は石(厳密にはコンクリートであるがナージャからすれば石である)で組まれたもので、劣化具合からそこそこ長く使われてきた場所だと窺えた。幅は五メートルと広く、中央三メートルほどの領域に水が流れ、両端一メートルの場所に人が歩くための足場が用意されていた。ナージャ達もその足場を歩いている。

 ナージャにもこれが自然のものでない事は理解出来る。しかし数千年前の人間達の技術力では、到底作れない代物だ。地上にそびえていた建造物だけでも驚きだったが、地下すらも人間達は進出していると分かって一層驚愕する。ほんの数千年で、人間は一体どれだけの技術力を手に入れたのだろうか……


「さぁ、こっちに来てくれ! 紹介したい人がいるんだ!」


 そんな高度な建築物で出来た道のりは、青年と共に進むと様相が変化していく。

 コンクリートの劣化が段々と酷くなってきたのだ。斑に色褪せてきて、長年交換されていない事が窺える。またコンクリートそのものは古くともきっちり敷き詰められていたが……進むほどに欠けが目立ち、亀裂が増えている。

 恐らく交換や整備が行われていないのだろう。『技術』そのものは持ち合わせていないナージャだが、数千年前の人間達の生活から、こういったものにはメンテナンスが必要な事は知っていた。メンテナンスが行われていないという事は、つまり殆ど人間はやってこない場所だ。それだけ奥深くに位置するのか、或いは放棄された区画か。

 やがて青年は、横道へと入っていく。

 もう壁のコンクリートはボロボロで、足場は苔や小動物の死骸が体積して出来た泥により『地面』となっていた。ナージャは全く気にしないが、ぐちゃぐちゃとした泥は多くの人間を不快にするだろう。青年も、少し歩き方がぎこちない。

 その横道は十数メートルも歩いたところで終わる。行き止まりに扉があった。

 青年は扉を開け、ナージャと共に入る。そこは開けた空間だった。コンクリートで作られた部屋で、奥行きは十数メートルほどあるだろうか。扉が四つ見られ、更に奥が存在する事が窺えた。室内にはテーブルや家具どころか、小物やゴミすらもない。

 代わりとばかりに三人の人物がいた。若い男が二人と女が一人。


「エルメス! 聞いてくれよ! 凄い逸材を見付けたんだ!」


 青年はその人物の一人の名を呼ぶ。

 エルメスと呼ばれた男は、静かな足取りで青年の下に向かう。猛禽のように鋭い眼差しを持つ、男性な顔立ちの男だった。身体付きは筋肉質で、見る者に獣の獰猛さをイメージさせるだろう。


「……ジョシュア」


 エルメスは青年の名を呼んだ。ジョシュアはニコニコと微笑みを返す。

 エルメスはそんなジョシュアの顔を、力強く殴った。

 動きからして本気ではない。だが見た目からして非力なジョシュアは軽々と吹き飛び、部屋の壁に背中から打ち付けられる。余程痛かったようで、ジョシュアは顔面を両手で抑えながら藻掻いた。


「ひ、ひぐぃ……!? え、エルメス、なんで」


「お前、なんでこいつを此処に連れてきた? 俺達がどんな組織か忘れたのか? ああ?」


「で、でも」


「でもじゃあない。良いか? 俺達は何時政府に潰されてもおかしくないんだ。少しの油断や、判断ミスがみんなの命を危険に晒す。分かるな?」


「ぅ……うん……ごめん……俺、また勝手な事をして……」


 諭されたジョシュアは、俯きながら反省の弁を述べる。エルメスはそれを聞くと、満足げに頷き、ジョシュアを肩から抱く。


「分かれば良い。ああ、そうだ。お前は何時だって一生懸命なだけだからな」


「ほんと、アンタってば人誑しね」


「そうでなければこんな組織、とっくに瓦解しているだろ」


「ナタリー、バーニー。話している最中に茶化すんじゃない」


 エルメスとジョシュアのやり取りを見ていた女・ナタリーと、男・バーニーが肩を竦めながら話す。

 ナタリーは二十代ほどの女であり、大きな胸や艶やかな腹を堂々と晒した、露出の多い服装をしている。腕には派手な入れ墨があり、腰にはこれみよがしにナイフが装備されていた。

 バーニーは身の丈二メートル近い大男。肩幅の広さは、鍛え上げた身体の持ち主であるエルメスの倍近い。四肢は丸太のように太く、ナイフすら簡単には刺さりそうにない。その体格は人間というより、クマなどの大型獣を彷彿とさせるだろう。


「それでジョシュア。どうしてこんな小娘を連れてきた? ……いや、そもそもこいつ、なんだ?」


「尻尾が生えているし、背ビレもあるし。紅い髪は染めたやつ?」


 ナージャの奇怪な格好に、エルメスとナタリーが疑問を抱く。すると待ってましたとばかりに、ジョシュアは答える。


「この子凄いんだ! さっき地上で、人形クレアと戦っていたんだ! それも互角に!」


 それを伝えると、エルメス達は大きくその目を見開いた。互いに顔を見合い、誰もが「信じられない」と言わんばかり。

 エルメスはジョシュアに近付く。少しばかり余裕のない、けれども笑みを浮かべた顔で。


「おい、ジョシュア。それは流石に早とちりじゃ済まねぇぞ……?」


「本当なんだ! 銃も全然効いてなかったし、投げ飛ばされてもぴんぴんしていた! アイツとまともに戦って生きてるなんて、信じられないだろ!?」


「ああ、信じられねぇ。だが、それが本当なら……確かに、今までで一番の大手柄だ、ジョシュア」


 褒めながらも、エルメスの視線はジョシュアに向いていない。その目が見るのはナージャの方。

 獰猛な笑みを浮かべながら、エルメスは独りごちるように語る。


「俺達『レヴォルト』の目的が、いよいよ現実味を帯びてきたな」


 反政府組織レヴォルト。

 オルテガシティに暮らす市民の中で、この名を知らぬ者はいない。彼等に対する評価は、市民の立場により大きく異なる。大半の者は否定的に、少数の者達が彼等を熱烈に支持していた。

 彼等について説明するには、まずオルテガシティの成り立ちから語らねばならない。

 オルテガシティは約三百年前に、発明家アーシー・オルテガの名を冠して与えられた。アーシー・オルテガは現代社会の根幹となる様々な技術を開発したが、その中でも特に有名かつ重要なのが『スチームコア』の資源化技術である。

 スチームコアは当時オルテガシティ近郊でのみ採掘されていた、特殊な鉱石だ。今でもこの都市が世界最大の産出量を誇る鉱石は、普段は周囲の熱を吸収する作用を持つ、触るとちょっとひんやりする程度のものでしかない。だが特定の化学物質と混合する事で、蓄積している熱量を放出する事がアーシーの発明で明らかとなった。

 熱量放出はごく短時間。このため大量の熱を吸収していた場合、一瞬にして水を沸騰させる事が可能だ。つまり短時間で大量の蒸気が生み出される。水は蒸気へと変わった際に体積が大きく増大するため、その圧力により大きな力を生み出す。

 新型蒸気機関の誕生だ。蒸気機関自体は石炭を燃料にしたものが既に実用化されていたが……スチームコアを燃料化する事で、動力の小型化と高出力化に成功。革命的な進歩を遂げた。

 アーシーが生きていた時代は電気や石油など様々なものが発見され、これからはそれら新エネルギーの時代だと言われていた。しかしスチームコアが生み出す瞬間的かつ莫大な熱量は、これら新たなエネルギー源よりも遥かに大きな力を生んだ。将来性では勝ると言われていた電気も、『今』劣っていては、発展のための投資と研究は行われない。

 かくして動力の殆どは新型蒸気機関に置き換わり、『蒸気工学』の時代となった。電気で機械が動かされる世界がどうなっていたかは不明だが……少なくともこの世界は蒸気により多大な発展と遂げた。蒸気飛行機は世界を一日で一周出来、パワフルに動く蒸気耕運機によって広大な畑を開拓出来て食料も大増産。深い森を切り開き、地下深くまで掘り進んで希少だった資源も山ほど採れるようになった。

 新たな蒸気の力により、この三百年で人類は大きな飛躍を遂げたのだ。

 ……というのが表向き、学校などで習う人類の輝かしい歴史である。実際、嘘ではない。蒸気機関の発達により、人類文明のテクノロジーは間違いなく飛躍した。人口が大きく増えたのも、高度な巨大ビルが建ったのも、間違いなく蒸気機関のお陰である。しかし急速な発展には弊害が付きものだ。

 その弊害の最たるものが、経済格差。

 蒸気機関産業にいち早く目を付けた一部の者が、巨万の富を得た。それ自体はその者の先見の明、或いは努力であるため不満を言うべきではないだろう……だが、富める者は富だけでなく、権力も手中に収めようとした。

 当時の政治は激動期。王政が崩壊し、民主主義が根ざし始めた頃だ。言うまでもなく、富豪達も一応は民衆の一人。彼等も政治に参加するようになった。無論あくまでも民衆の一人に過ぎず、当時想定されていた新たな政治体系……民主主義と呼ばれる、民の中から指導者を選ぶもの……では小さな一票に過ぎない。

 ところが富豪達は蒸気機関関連で得た莫大な富を使い、様々な政治工作を仕掛けた。政治体系を、自分達にとって都合が良いように変えようとしたのだ。民が政治的に成熟していれば、或いは王政が力を保っていれば、その工作も破れただろう。しかし時期が悪かった。民衆は政治を知らず、王は気付いても止める力を持たず。富豪達の思惑通り、世界は資本と政治が強く結び付いてしまった。

 かくして富豪こそが政治を担い、経済により政治を支配する。『資本主義社会』が成立した。

 富豪達に支配された世界は、巧妙な悪夢だった。表向きは「出世した者が力を持つ」という、努力が報われる社会。だから殆どの者が努力して努力して努力して、たくさん稼ごうと仕事に励む。しかしそうして生み出された富の殆どを、ごく一部のエリートが掠め取っていく。報われないと思っても、努力という見えない基準であるがために不満をぶつけても「努力が足りない」の一言で一蹴されてしまう。そういう構造になっていた。

 真実に気付いた者が叫んでも、大半の民衆はもう努力苦労をした後。自分達のした事が無駄だったとは認められず、真実を受け入れられない。おまけに叫ぶ者達は権力により職を剥奪されており、貧しい生活に追いやられている。その表向きの姿を見て、民衆は叫ぶ者達を「怠け者だ」と罵る。搾取されている民が、積極的に支配体系を支持する。

 反政府組織レヴォルトは、そうした社会を変えようとする者達の集まりなのだ。


「……ングァー」


 勿論そんな情報は何も知らないナージャは、レヴォルトの名を聞いても何も思わなかったが。ちなみに此処にいるエルメスとナタリー、バーニーは組織を束ねる幹部。特にエルメスはレヴォルトの実質的なトップであり、彼の名を聞けば多くの市民が慄くのだが……ナージャからすれば人間Aでしかない。

 それよりも、彼女が此処に来たのは美味しいものを食べるため。ジョシュアが纏う甘い匂いは何処にあるのかと、くんくん鼻を鳴らして部屋の中を歩き出す。

 あまりに暢気で毒気のない動きに、エルメス達の表情が段々と訝しげになった。


「……本当にあのクレアと互角に戦ったのか?」


「ほ、本当だって! 俺見たんだから!」


 全力で肯定するジョシュアであるが、今のナージャにその説得力がないのは同意するのだろう。現実を見たくないとばかりに目を逸らす。


「……なら、試せばいいじゃないか」


 そんな時に提案したのが、ナタリーだった。


「試す?」


「銃も効かなかったんだろ? なら、このナイフでちょっとイタズラすれば良い」


「えっ。で、でもいきなりナイフで切るのは……」


「なんだい? やっぱり早とちりかい?」


「そ、それは違うけど、でも」


「良いかい、エルメス」


「お前が責任を負うなら、な」


 ジョシュアは意見しようとするが、エルメスの許可と、ナタリーの動きの方が早い。彼女は腰にあったナイフを抜くと、素早くナージャに向けて投げる。

 ナージャはナイフの接近に気付くも、特段気にしなかった。脅威でもなんでもなく、羽虫が飛んできたようなものに過ぎない。だからナイフはナージャの背中に命中し、けれども傷一つ残さずに落ちる。

 何も影響はない。だが、今のナージャは少々虫の居所が悪かった。

 美味しい料理を吹き飛ばされた苛つきは、まだナージャの腹に燻っているのだ。気を取り直して次の食事を探そうとした時に邪魔されて、かなり腹立たしい。

 ナージャは寛容である。しかしその寛容さは、人間が羽虫を目の敵にしないのと同じ理由だ。余程の『お気に入り』でない限り、ちょっと悪い方に噛み合えば……ナージャはその人間を殺す事に躊躇いを持たない。


「……………」


「……あら、これはもしかして……?」


 振り向き、鋭い眼差しを向けるナージャを前にして、ナタリーは表情を引き攣らせた。

 ナージャの歩みは止まらない。ずんずんとナージャに近付き、その小五月蝿い顔面を薙ぎ払おうと尻尾に力を入れた


「ほ、ほら! 怒らないで! マシュマロとかどうです!?」


 瞬間、ジョシュアが間に割って入る。その手には白くて四角いマシュマロが乗せられていた。

 ナージャの興味は、即座に出されたマシュマロへと移る。何故ならそれは、ナージャにとって初めて見るものだったからだ。

 肉でもなく、魚でもなく、果実でもない。

 そもそも真っ白で四角いそれは、自然界にある如何なる食べ物とも似ていない。数千年前の人間達も小麦をあれこれしてパン(十分な発酵してないのでぺちゃりと潰れたもの)を作っていたが、あれとも違う代物だ。合成甘味料の甘ったるい匂いもナージャにとっては初体験。


「ど、どう、でしょう……? 俺のおやつなんですけど……」


 マシュマロを見つめるナージャに、おどおどしながら尋ねてくるジョシュア。彼の発した言葉の意味など、ナージャには分からない。

 しかし出された食べ物マシュマロの意味は分かった。これは『供物』だと。数千年前にもされた事。彼等は自分を崇めているのだと、ナージャは解釈した。

 崇められているからと、別段それで気を良くする訳ではないが……だとするとナタリーの行動も、ちょっとこっちを見てほしくてやったのだと思った。基本のんびり屋なナージャは、数千年前もそうやって振り向くよう促された事があるのだ。だったらわざわざ怒るほどの事ではない。

 何より、差し出されたものはジョシュアが纏うものと同じ匂いだ。これを無視したら、なんのために付いてきたか分からない。


「ガウゥー」


 ナージャはマシュマロを鷲掴みにし、ばくりと数個纏めて口に入れる。


「ン、ンンンゥーッ!?」


 そして口に広がる、未体験の甘みに驚愕した。

 それは人工甘味料の甘さであり、この都市に暮らす人間達からすれば安物の味。だが数千年前、天然の食材ばかり食べていたナージャからすれば新感覚の味だ。『天然食材』で作られている、レストランで食べた高級料理よりも驚きは大きい。

 ジョシュアの手にはまだまだマシュマロがある。次々と口に突っ込み、ナージャはこれを瞬く間に完食。頬が膨れるほどに頬張るという、子供の夢のような食べ方をした。

 マシュマロは口の中の温度で溶けていき、口いっぱいに(意識の高い美食家からすればクソみたいな)甘さが広がる。ナージャはその甘さを存分に満喫し……ごくりと飲み干す。


「ウゲェプィー」


 続いて恥じる事なく大きなゲップを一つ。

 とびきりの甘味を堪能し、ナージャはついに満足感を得た。お腹が満たされた後は何をするか? ナージャにとっては決まりきった事。

 寝るのだ。


「ンンンー……」


 ナージャは床を這うように進む。お気に入りの寝床を探すために。

 結果的にそれはすぐに見付かった。ジョシュアに連れられてきたこの部屋が、極めて居心地が良いのだ。

 何故居心地が良いかは、ナージャにも分からない。ただ、数千年間眠っていたあの洞窟に匹敵する良さだと思っていた。だったらわざわざ別の場所を探す必要もない。

 ナージャは部屋の真ん中に向かい、ごろんと床の上に横たわる。猫のように身体を丸めたら目を閉じ、そのまま寝息を立てる。

 周りにジョシュア達人間がいても構いやしない。ナージャは眠りたい時に眠るのだ。眠りの邪魔さえしなければ、彼等がいようがいまいがどうでも良い。


「……マシュマロが随分と気に入ったようで」


 エルメスのぼやいた言葉の意味を考える事もなく。

 反政府組織レヴォルトの秘密基地は、この日からナージャの寝床となるのだった。

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