姫君の目覚め03
そこは小洒落たレストランだった。
外装が立派な事、それと店前に置かれた看板に書かれたメニューの価格から、上流層向けの高級店だと分かる……あくまでも、見たのが人間であればだが。
ナージャはレストランがどのような場所なのか、とんと知らない。立派な外装の意味など理解出来ないし、店先に掲げられた看板にどれだけ大きくメニューと値段が書かれていようと文字を読めぬナージャにとってはただの模様だ。外見からレストランの『用途』を察する事は出来ない。
しかしナージャは鼻が利いた。建物の中から、何やら不思議な匂いがする事に気付く。どうやら焼いた肉のような香りであるが、知らぬ匂いも色々と混ざっている。自然界でこんな匂いを嗅いだ覚えはない。
一体、これはなんであるのか。
仮にこの匂いが悪臭ならばさっさと立ち去ったところだが、ナージャにとってもこれは好ましい香りだった。良い匂いであれば、その正体を確かめたくなるのは自然な衝動と言えるだろう。そして今のナージャには、急いで向かわねばならないような『目的』はない。強いて言うなら、人間達が作ったのであろうこの都市を思う存分堪能する事だ。
匂いの正体が気になったナージャはレストランに入ろうとする。だが最初の難関が彼女の行く手を阻む。
扉だ。
「ガゥ? ウー……?」
ナージャは扉の前で首を傾げる。
硝子と木で作られたお洒落な扉は、構造としてはドアノブを回し、押せば開く簡単な代物。装飾の所為で重たいものの、幼子でも大人の真似で開けられるだろう。高級とはいえただのレストランが、特殊な作りのドアを用意する訳もない。
しかしナージャはドアノブなど知らず、故に開け方も分からなかった。そもそもナージャが知る人間の家というのは、木や草で作られた簡易的なもの。扉なんて『高度』なものは、食糧庫にすら付いていなかった。つまりナージャは目の前のそれを扉と認識すら出来ていない。ただその隙間から匂いが漏れているから、中に入るための道があるかも知れないと考えているだけだ。
ぺたぺたと扉のあちこちに触れる事数十秒。軽く押しても動かず、ずらそうとしても微動だにせず。ドアノブにも触れたが、回すものだと分からず、指で突いてガチャガチャと音を鳴らすだけ。
どうにも上手く入れそうにない。ならばとナージャは足を高々と上げ、
「ンガーッ」
それなりに強く、扉を蹴飛ばした。ナージャは単純故に、邪魔なら壊してしまえば良いという考えの持ち主だった。
この一撃で丈夫な木製扉は吹き飛び、粉々となる。室内には食事をしている客(ドレスやスーツといった豪華な衣服を着た富裕層)がいたが、突然の来訪者に誰もが驚いた。彼等の耳にも外の騒ぎは聞こえていた筈だが、『安全』な室内で食事中だったために無関心だったのも、多くの者達が椅子から跳ねるほど驚く一因となっている。
それだけ驚けば誰でも音と振動が来た方に視線を向けるというもの。来訪者が少女だと分かるとまた驚き、しかし扉の破壊という結果から次には顔が恐怖に染まる。
「きゃあぁーっ!?」
誰かが甲高い悲鳴を上げると、店内はパニックに包まれた。
直後、店員達が客を宥めつつ、裏口から逃げるよう誘導する。客もあれこれ文句は言わず、大人しくその誘導に従い逃げていく。
店も客も手慣れた動きであるが、ナージャはそれに違和感を持つほど人間に詳しくないし、関心もあまりない。それよりも匂いの方に興味がある。くんくんと鼻を鳴らし、店内を練り歩く。
匂いの源はすぐに見付かる。
逃げた客の食べ残しが、テーブルの上にいくらでもあるからだ。分厚い肉を豪快に焼いたもの、黄金色に輝くスープ、色取り取りの野菜を盛られたサラダ、魚の身を油で揚げたもの……肉以外は、いずれもナージャは見た事もないような代物である。
この都市に暮らす人間であれば、此処に並ぶ食材が極めて高級なものであると理解出来ただろう。付け加えると、テーブルの上に並ぶのはとても一人二人では食べ切れないような量である事も。
それはある種の『贅沢』を示す演出だった。しかしナージャは今の人間社会など知らないし、貨幣制度どころか経済活動すらも理解していない。食べ物は食べ物でしかなく、置かれた量は「たくさん」以上の意味を持たない。
そしてナージャは今、とても空腹だった。寝ていたとはいえ、もう何千年もの間、何も食べていない。更にもう何千年と食べなくても生きていけるという本能的確信がナージャにはあったが……数日間飲まず食わずでも余裕で生きていける人間がなんやかんや毎日食事をするように、ナージャもまた飢え死にする寸前まで何も食べない訳ではないのだ。加えて、『残飯』を漁る事に嫌悪感を抱くほど、彼女は文明的な思考をしていない。
「ンガー、ンッ」
テーブルの上に置かれていた肉……ステーキを素手で掴む。ステーキを選んだのは、それが唯一ナージャにとって馴染みのある見た目の食べ物だったから。朦々と湯気を立ち昇らせるそれは見た目からして熱そうだが、ナージャは眉一つ動かさない。豪快に口を開け、焼き立ての肉を頬張る。
次の瞬間、ナージャは大きくその目を見開いた。
初めて味わった美味さだった。口に入れた瞬間に溶け出す脂が、舌の上で踊り狂う。それを噛めば今度は肉汁が溢れ出し、濃厚な旨味が脳を焼いていく。鼻から突き抜ける香りは、あまりにも刺激的だ。
ナージャにとって肉は初めて食べるものではない。数千年前に自分を祀っていた人間達は捧げものとしてよく肉を出してきたものであり、もっと言うなら人間と出会う前……人間がいなかった頃には獣を仕留めて食べている。今では絶滅した動物だって山ほど食べてきた。長く生きてきたがために、百年も生きられない人間よりも豊富な食の知識を持つのがナージャなのだ。
だが、それでもこんな美味な肉は初めて。
美味いのは肉だけではない。肉に添えられた香草が放つ風味も、かつてない味覚を生み出す。香草自体は数千年前の人間達も用い、それをまぶした料理を供物として出された事もあった。あれも大変美味だったが……ここまで刺激的な味は初めてだ。
「ハグッ、ングンガ、ンガァ」
一度食べたら止まらない。ナージャは次々と肉を頬張り、普通の人間では到底食べきれない量をぺろりと平らげてしまう。
それでも足りぬと、今度は近くのテーブルにあった魚の身を喰らう。小麦粉と卵液とパン粉で作った衣を付け、熱した油で揚げたフライだ。作り方が悪いとベチャベチャとした最悪な一品になるが、此処は曲がりなりにも高級レストラン。そんな低品質な料理は出さない。至上とは言わずとも、高い金に見合った味覚は約束されている。
齧ればサクサクとした食感が出迎え、次に奥に隠された魚の身が旨味を噴出。シンプルな白身魚の味わいを、上質な塩気が引き立てる。そしてナージャは今までろくに魚を食べた事がない。この地域には小さな川があるだけで、魚よりも獣や果実が豊かだからだ。これもまた生まれてはじめての味覚であり、ナージャは目を輝かせる。
野菜さえも美味だ。ナージャがこれまでの生涯で食べてきた植物は、どれも苦かったり酸っぱかったりした。植物だって生き物である以上天敵に食べられたくないのだから、身を守るため不味くなるのは当然だ。例外は動物に食べてもらう事が前提の果実ぐらいなものだが、それらは小さくて食べ応えがないものが多い。甘くて美味しい実を付けるには、莫大なエネルギーと資源が必要だからである。食べてもらえれば良いのだから、大きさは最小限にするのが植物としては合理的なのだ。そもそも美味いといってもほのかに甘い程度である。
なのに此処にある野菜と果実は、どれも信じられないほどに大きく、途方もなく甘い。野菜は全く苦くない訳ではないが、むしろそれは爽やかに感じられた。地べたから生える草の味と比べれば、天と地ほどの差があると言えよう。
新鮮な味覚は更なる食欲を掻き立てる。もうナージャは止まらない。テーブルの上にある食べ物を、片っ端から腹に収めていく。さながら数千年分の空腹を満たすかの如く。
記憶にある限り、こんなにも楽しい食事は初めてだった。
「ンフフゥ〜♪」
面白い『玩具』があちこちにあり、食べ物は至上の美味さ。久しぶりに起きてみれば、なんと楽しい時代なのか。ナージャは嬉しくなって上機嫌に鼻を鳴らす。
……かようにナージャは今の世界を満喫していたが、人間にとって嬉しい満喫の仕方ではない。
人間は数千年間眠りこけていたナージャの存在など覚えていない。ましてや崇めていない。都市を混乱に陥れ、ライフラインを破壊し、店の扉を破壊して乱入し、客に出された料理を無作法に貪る……これでは最早『害獣』と変わりない。いや、仮にナージャのした事が人間の行いだとしても、健全な都市活動を妨げる行為は糾弾に値する。数千年前と違い、今の人類は明文化された法により秩序を保っているのだ。
そして法による統治を行っている以上、法から逸脱したモノを見逃す訳にはいかない。捕まえ、裁判を行い、収監。度が過ぎれば『排除』する。例え相手が見た目幼く、可愛らしい少女であったとしても。
「動くな! 警邏隊だ!」
都市の治安機構がやってきて、ナージャに警告してくる。この状況は必然の出来事と言えるものだった。
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